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ショーソン:交響曲

浦 美昭(ファゴット)


<はじめに>
 本日お越しのお客様の中にはショーソンのファンの方が何人いらっしゃるのでしょうか。エルネスト・ショーソンの名前は、母国フランスでも、日本と同じくらいの控えめな印象しかないそうで、近代フランス音楽が確立し始めたころの巨匠たち、フランク、サン=サーンス、ドビュッシー、フォーレ、ラヴェル等に比べ地味な響きでしかないようです。
 しかしショーソンの音楽は、特にドビュッシーとフランクをつなぐ重要な役割をつとめました。音楽の勉強を遅く始めたにもかかわらず、努力によりこれを補い、今やドビュッシーやラヴェルによって頂点に達した印象主義音楽の先駆者と評されています。
 ショーソンは歌曲を中心に39の作品を残しています。彼はフランクに師事したフランキストであり、ワーグナーに心酔したワグネリアンでもありました。本日取り上げますショーソンの唯一の交響曲は、ワーグナー旋風の吹き荒れる中、その影響を受けつつも、ワーグナーのような劇音楽的ではなく、旋律の美しい繊細で叙情的な音楽を聴かせてくれます。


<ショーソンの生涯>
 ショーソンは1855年1月20日パリで生まれました。父親は公共土木事業請負の職を持ち、母親は、天賦の繊細さと芸術的天分を持ったひとでした。
 パリの第10区には、今でもピエール・ショーソンという名の通りが実在しています。ピエールはエルネスト・ショーソンの伯父さんであり、その小路に影響のある地主でした。通りは全長100mほど、道幅7m足らずの小さいもので、写真で見るとお世辞にもお洒落なパリの小道ではないのですが、ショーソンが生まれたころの一家の様子を想像させてくれます。
 ショーソンの両親は2人の子どもを亡くしています。1人はショーソンの生まれる4年前に同じエルネストと名付けた子どもを、もう1人は、ショーソンが10歳のとき、法学部の学生で22歳になろうという長兄を死の手によって奪われました。深い悲しみにあった両親は、ショーソンの体が弱かったこともあってか、彼を1人の家庭教師に委ねました。幼少期の彼は、この家庭教師から、古典文学・美術への愛好心や音楽に関する非常に鋭い知覚と美への嗜好を育まれました。
 ド・レイサック夫人が家庭教師から紹介されたのは、ショーソンが15歳のときでした。少年ショーソンは、芸術家や知識人の集まる夫人のサロンで、経験に富んだ年長者との接触により、思想を取り入れ、感性を研ぎ澄ませていきました。夫人はよくショーソンを理解し、彼の心の中にしまいこんでいた芸術性をうまく引き出す役割を生涯担っていたのです。当時、ショーソン少年は文学、美術、音楽のいずれに自分を捧げてよいのか悩んでいました。文学では、密かに書き留めた『内面の日記』や『ジャック』と題する物語、また彼のオペラ『アルチェス』の台本がショーソンの文学的才能の証拠として残されています。また絵画も彼の心をとらえ、父親が許したデッサンの勉強もあってか、旅行の際にも画帳を常に携行していたそうです。
 しかし、あらゆる芸術の中で最も勝ち得たのはやはり音楽でした。ピアノを習いたいと息子が願ったとき、ものになるのかと半信半疑だった両親に、ピアノ教師は「偉大な音楽家になれるであろうし、楽器を始めるのに少しも遅すぎはしない」と言い切りました。ピアノの上達は速かったようで、このような芸術的に豊かな環境の中で、彼は自分の天職を音楽家と決めたのでした。
 ショーソンがこの決心を父に告げたとき、実は驚くほどの反発にあってしまいます。父親は彼に大学に入って法律の勉強をすることを強く望んでいたのでした。ショーソンは両親を苦しませまいと自分の欲望を抑え、法学部への勉強を始めました。音楽の勉強をしたい気持ちとの板ばさみになりながらも、大学資格試験に合格し、本格的に法律の勉強を始めることとなります。そして、大学の博士課程を経て弁護士の資格を得ることが出来たのです。
 「弁護士」という成功に満足した父親は、これからは自由に音楽を勉強することを許しました。こうしてショーソンは24歳のときにパリ音楽院の門をくぐり、マスネーの管弦楽法の教室に、ついでフランクの教室にも入り込みました。26歳の期末試験に提出された作品に対し、マスネーは「並外れた素質、ローマ大賞(フランス国家による留学制度、若手芸術家の登竜門)のコンクールに参加できよう!」と批評しています。しかし、同じ年にコンクールの予選に落選してしまいます。
 ショーソンはパリ音楽院を出てからも、フランクによる作曲の指導を受けていましたが、28歳での結婚を機にやめています。結婚と音楽の両立にしばらく悩んだ末に独立を決心したのがその理由でしたが、フランクとの深い交友関係は生涯続くことになります。
 結婚は結果として成功だったようで、妻の明るい性格はショーソンを生来の悲観主義から逸らせてくれました。31歳で国民音楽協会の書記に就任し、私財の一部を恵まれない音楽家に施すなど、忙しい中にも着実に作品を残し、聴衆や批評家からも好意をもって迎えられています。そして、本日演奏される「交響曲(1889-1890)」や、ドビュッシーによって絶賛された「ヴァイオリンと管弦楽のための《詩曲》(1896)」などの名曲が生まれることとなるのです。私が個人的にお気に入りの曲は「ピアノ、ヴァイオリンのためのコンセール(協奏曲)(1889-1891)」で、2曲目のシシリエンヌはNHKラジオ番組のテーマ曲だったと記憶しています。
 1899年4月、44歳のショーソンは「四重奏曲」の第2楽章を完成させました。直ちに第3楽章の作曲にとりかかったのですが、完成させることはかないませんでした。なぜでしょうか。木立が点在するセーヌ河畔で、毎日徒歩や自転車に乗って散策しては作曲を進めていた彼は、6月のある日、夫人と子どもたちを迎えに、自転車で近くの駅へ行くことにしました。長女が先に門を出て、しばらく進んで振り返ると、どういうわけか父親の姿が見えません。引き返した長女が見たのは、正門の柱の根元にこめかみを砕かれて倒れていた音楽家の姿でした。過労によるものなのか、暑さでふらついた結末なのか、誰にもわかりませんでした。弔電で山積みとなった彼の仕事机には、数小節だけ書かれた第2交響曲が残されていたそうです。
 普段のショーソンは、家庭にあっても社会にあっても陽気で明るい性格でした。それにもかかわらず、彼の作品は喜びに支配されることはありません。幼年時代の2人の兄の死が、暗い影を落としていたのでしょうか。彼は、「死が恐ろしいのではなく、(中略)なすべく神に命ぜられた仕事を果たすことなく死ぬのが恐ろしいのです」「たとえ1頁であっても、人の心にしみ透るものを書かずには倒れたくない」と、彼は友人にあてた手紙で告白しています。「心にしみ透る作品を書く」。ショーソンが絶えず念頭においていたこの言葉を私たちも心にとどめ、今日の演奏を聴いて、1人でも心に染みとおった方がいてくださるならば、ショーソンにとってもこの上ない喜びとなることでしょう。


<交響曲変ロ長調 Op.20について>
 1889年から1890年にかけて作曲された交響曲変ロ長調は、ショーソンの十指に満たない器楽曲の一つです。その頃のフランス音楽では、サン=サーンスの「交響曲第3番ハ短調(オルガン付き)」やフランクの「交響曲ニ短調」などが生まれていて、オーケストラ界にとっては上昇気流の真っ只中でした。そんな中に作曲されたショーソンの交響曲は、彼に対する評価を確実なものにしました。事実、これまで彼の曲に冷淡であった何人かの批評家が、この交響曲に多くの才能が認められることを告白しています。


<第1楽章>
導入部 ラン(緩やかに、遅く)
長くゆったりとした導入部は、クラリネットとヴィオラ・チェロ・バスのユニゾンで静かに始まります(譜例1)。
つづいてトランペットが哀愁感たっぷりに(譜例2)を吹きます。
主部 アレグロ・ヴィーヴォ(速く、生き生きと)
ホルンとファゴットが主題を軽快に演奏します。その後、いくつかの主題がさまざまな楽器で演奏され、主題の結合を経て、最後は2分の2拍子のプレストで主題の強奏のうちに楽章を終わります。


<第2楽章>
トレ・ラン(きわめて緩やかに)
ショーソンらしい叙情性にあふれた楽章です。彼はこの楽章のためにずいぶんと時間を割いたようで、自筆譜には数多くの切り貼りや修正の後が残されているそうです。冒頭のヴァイオリンとヴィオラ(ファゴット、クラリネット)の掛け合いが非常に美しくも悲しく、ここだけでご飯が三杯食べられそうです。エンディングも感動的。


<第3楽章>
アニメ(快活に)
胸騒ぎのような弦楽器の分散和音にのった、トランペットと木管の痛切な叫びで始まります。その後、活気を帯びた曲想が続きますが、突然我に返ったように美しい金管楽器によるコラールが始まり、ついで第1楽章の(譜例2)がよみがえります。最後に(譜例1)を思い出しながら、ゆっくりと静かに曲を閉じます。


初演:1891年4月18日、パリのサル・エラールにて、作曲家自身の指揮による
楽器編成:フルート3(3番はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット3、ホルン4、トランペット4、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、ハープ2、弦五部


参考文献
『不滅の大作曲家 ショーソン』ジャン・ガロワ(西村六郎訳)(音楽之友社)
『音楽テーマ事典1』(音楽之友社)


~新交響楽団第223回演奏会(2013.10.6)パンフレット曲目解説

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