リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」
■海と音楽
ニコライ・アンドレーヴィチ・リムスキー=コルサコフは1844年、貴族の家庭に生まれた。家族が音楽好きであり、ピアノの教育を受けるなど音楽的に恵まれた環境で育ったが、同時に一族には海軍の軍人が多く22歳上の兄も海軍軍人であり、兄が寄港先の国々から送ってくる手紙を通して彼は海に興味を持ち、自身も船乗りになりたいと思っていた。
12歳でサンクト・ペテルブルクの海軍兵学校に入学した。趣味としてオペラや音楽会に通ううちグリンカのオペラに出会い、熱中する。自己流で作曲した作品が彼のピアノ教師の目にとまり、作曲の才を認められて音楽活動サークル「力強い仲間」の中心人物だったバラキレフを紹介された。17歳の時である。「力強い仲間」での理論的拠りどころはベルリオーズ著の「管弦楽法」だった。バラキレフは民族主義的というよりはむしろ当時イタリア一辺倒だったロシア音楽界に、ベルリオーズ、シューマン、リストなどのロマン派の風を吹き込もうとしていたらしい。バラキレフに勧められ、リムスキー=コルサコフはベルリオーズのこの本と、グリンカのスコアの実例だけを頼りにいきなり交響曲の作曲を始めた。
18歳で兵学校を卒業すると士官候補生として艦隊勤務を命じられる。海上勤務は3年半に及び、ヨーロッパ諸国から、南北戦争中のアメリカ、南米など世界各地を回った。この間ロンドン、ニューヨークをはじめ、行く先々でオペラや演奏会を聴いたようだ。
陸上勤務に復帰すると同時に「力強い仲間」にも復帰し、ここから本格的な音楽活動が始まる。完成した交響曲などで作曲家として世に知られることになり、28歳で音楽院教授に迎えられた。後に「和声学教程」や「管弦楽法原理」などの著作で知られる大家も、最初は作曲の実技能力のみで、理論はからっきしであったらしい。海軍は程なく退職したが、海軍軍楽隊監督官は長らく勤めており、作曲のため全ての管楽器を買い揃えて自分で吹いて研究したという。
■シェヘラザード
交響組曲「シェヘラザード」は1888年に作曲された。1887年に亡くなったボロディンの未完のオペラ「イーゴリ公」の完成作業を行ったことで、その東方的、遊牧民的な背景から千夜一夜物語へとつながっていったという見方もある。
曲はグリンカとベルリオーズから出発したリムスキー=コルサコフの管弦楽技法が一つの頂点に達したものと言える。固定楽想を使っているという点で、幻想交響曲との類似も指摘される。
■千一夜物語
千一夜(千夜一夜)物語は、ご存知「船乗りシンドバッド」「アラジンと魔法のランプ」「アリババと百人の盗賊」などを含む多数の物語から成り立つ物語集である。多数の話の全体を包括する「メタ物語」として、シャーリアール王とシェヘラザードの物語が登場する。あらすじは以下の通り。
シャーリアール王は妻の不貞を知ったことから全ての女性を信じられなくなり、若い女性と一夜を過ごしてはその日のうちに殺す、ということを繰り返すようになった。見かねた臣下の娘、シェヘラザードが王を改心させることを志願する。シェヘラザードは毎夜魅力的な話を王に語る。話の面白さに引き付けられた王は、次の話が聞きたくなり、今夜もまた明夜もシェヘラザードを殺すことができない。千一夜目についに王は自らの過ちに気づき、改心してシェヘラザードを正妻にすることを誓う。
■曲の構成
曲は4楽章からなる。それぞれに作曲者自身による千夜一夜物語的な題名がついているが、必ずしもアラビアンナイトから選んだ4つの話のストーリーを音楽で表現しているわけではない。第2曲、第3曲は対応する話がどれであるかもはっきりしていない。むしろ、シェヘラザードの語る物語の世界、物語に没入し、また我に返るシャーリアール王の心の揺れ動き、それにより王の心をひきつけ殺されまいとするシェヘラザードの駆け引き、などが絡み合って織りなす中世アラビアの王宮の夜の世界が音楽によって表されているかのようである。全曲にわたってシェヘラザードを表すヴァイオリンのソロが繰り返し現れ、その部分はヴァイオリン協奏曲のような趣である。したがってこの曲の場合、演奏会や録音でもソロヴァイオリンを弾くコンサートマスターの名前は特にクレジットされるのが通例である。
第1曲 海とシンドバッドの船
曲の冒頭はいきなりシャーリアール王の主題が提示されて始まる。暴君的な荒々しさの中にも威厳の感じられる主題である。全曲にわたってベルリオーズ流の固定楽想として現れるこの主題をまずは覚えておいていただきたい。続いておずおずとした、そして清楚な木管の和音の後、ひそやかなハープの導入とともにシェヘラザードの主題が独奏ヴァイオリンによって奏される。王との初めての夜、はじめは緊張感に満ちているが、次第に肝が据わっていき、本来の妖艶さを現していくシェヘラザードを思わせるようなソロだ。
ヴァイオリンのソロが終わると切れ目なく海の描写になる。もうシェヘラザードの語る物語は始まっているのだ。この海の描写の旋律は王の主題そのものであり、もう王は自分がシンドバッドになった気分である。大きくうねる海の描写は作曲者自身の艦隊経験に基づいているのか。うねりが少し収まるとホルンが王の主題の断片を静かに奏し、それに木管楽器のソロが入れ替わりシンドバッドのテーマで答えるというやり取りが何回か続く。その後ヴァイオリンソロが現れる一瞬は、王の心が物語の世界から現実に戻り、目の前にいる生身のシェヘラザードに気づく。それもすぐに王のテーマを用いた海の描写に戻る。王のテーマは様々に変形され、海のうねりもどんどん大きくなり、王の心も揺れ動く。再びうねりは収まり、日の光もさす。海が収まってもテーマは相変わらず冒頭の王のテーマの変形だ。これがチェロや木管のソロに現れる。また一瞬シェヘラザードの姿が見えるが、三たび海は大きくうねり始め、猛々しい姿を見せる。しかしそれもしばらくして収まっていく。海の姿と一緒に王の心も静まっていき、王は完全にシェヘラザードの語りの世界に取り込まれていく。最後にヴァイオリン群で静かに王のテーマが奏される。ということは、王とシェヘラザードが一体となったことを表すのか。
第2曲 カランダール王子の物語
2曲目はいきなりシェヘラザードのヴァイオリンソロで始まる。既に何夜も殺されずに生き延びてきている自信からか、もはや緊張感は消えている。むしろぐいぐい積極的で、妖艶さもかなりのものだ。物語もすんなり始まる。
カランダール王子は今でいうちょっと「KY」というか、ズレた感じの人間だ。その滑稽なところがまずファゴットの思い切り自由なソロで表される。これがオーボエのソロに受け継がれると伴奏がちらほら付き始め、ヴァイオリン群、続いて木管群がメロディーを奏するころになると人数も増えて、少しずつ世間と調子がそろい始め、歩調も軽やかになる。が、チェロとオーボエのソロに受けつがれると、また何やら物思いにふけっているような哀愁ただよう調子になってしまう。
すると突然トロンボーンが鳴り響き、謎の人物の登場となる。最初は一人のような気もするが、途中から明らかに人数が増える。騎馬の集団だろうか。カランダール王子もさすがにちょっとあわてた風だが、集団は構わず進んでいく。曲は最初のトロンボーンの主題が変形されて進行する。歩調は時に激しく、時に軽やかに、歩調も合ったり乱れたりである。ひとしきり集団に翻弄された後、カランダール王子の旋律がファゴットによりカデンツァ風に奏される。すると王子も次第に集団に飲み込まれて、オーケストラ全体が一体となってカランダール王子のテーマが盛り上がっていく。「KY」からの脱皮成功か、と思われるが、やはり王子は王子、テーマは次第に哀愁を帯びた調子に戻ってしまう。曲の最後の盛り上がりは、ああ、やっぱり駄目だったか、というような嘆きにも聴こえる。
第3曲 若い王子と王女
第3曲にはヴァイオリンソロによるシェヘラザードの導入はない。いきなり物語が始まる。弦楽器の美しい旋律はすっかりリラックスしたもので、もう殺される心配はないから前置きもいらないという感じだ。曲はたおやかにたたずむ若い王子と王女を表しているような弦楽器群の美しい旋律が続き、木管のオブリガートが彩りを添える。しばらくすると、舞曲風の曲調になる。王子と王女が踊っているのだろう。途中からはどんどん弦楽器がゴージャスに盛り上げていく。
美しい物語からふと目が覚めると眼前には生身のシェヘラザードが現れる(ヴァイオリンソロの登場)。王子と王女を表す弦楽器群の豪華な合奏にシェヘラザードのヴァイオリンソロが絡み、さらに木管が彩を添え、夢の世界と現実のシェヘラザードの姿が交錯する。一度大きく盛り上がった曲は次第に静かに収まり、最後はかわいらしく終わる。
第4曲 バグダッドの祭り、海、青銅の騎士のある岩にての難破、終曲。
一転、曲は緊迫して始まる。王の機嫌は悪い。第3曲のリラックスした雰囲気がうそのようだ。シェヘラザードも必死に恐怖に耐えて気丈に物語を始めようとしている。だが王の怒りは収まらない。2度目のヴァイオリンソロでは、シェヘラザードはいっそう身を固くして、声も絞り出しているようだ。だがともかく話を始めることはできた。バグダッドの祭りだ。にぎやかな話にようやく王も引き込まれ始めたようだ。
曲はバグダッドの雑踏を表しているのだろう。突然横から金管も乱入してくる。弟子のストラヴィンスキーが「ペトルーシュカ」でこの場面を参考にしたのではないかと思わせるような祭りのシーンである。王のテーマ、シェヘラザードのテーマ、第1曲から第3曲までに現れたテーマなどが次々に現れては消え、入り乱れ、また時に一体化し、祭りは延々と続き、盛り上がりを見せていく。シェヘラザードも一気呵成に語り続けているのだろう。王の気分も高揚してくる。しかし祭りの盛り上がりが最高潮に達すると、突然トロンボーンによって話は海の場面に転換されてしまう。極限まで盛り上がった気分の王には、脈絡なく変わった場面も気にならない。海は大荒れである。巨大なうねりが海面を押し上げ、押し下げ、船は木の葉のように翻弄される。ここで荒れ狂ううねりを表す金管の旋律はやはり王のテーマである。木管と弦は吹き荒れる風である。そしてついに船は難破する。と同時に王の心も崩壊する。砕け散った船の残骸は海面に点々としているが、海は一気に穏やかになる。美しい海の風景とともに王の心も別人のように晴れ渡る。女性に対する不信もすっかり払拭された。
するともはや物語の世界からは完全に覚醒した王の眼前にはシェヘラザードの姿がある。これまでのソロよりも音域を低く留め、抑えた感じになっているところに、シェヘラザードの安堵感が感じられる。王はシェヘラザードを自分の正式な妻とすることを決心し、曲は静かに終わる。
初演:1888年10月22日 サンクト・ペテルブルクにて、作曲者自身の指揮による
楽器編成:ピッコロ、フルート2、オーボエ2(2番はコールアングレ持ち替え)、クラリネット2、ファゴット2、ホ
ルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、シンバル、吊りシンバル、大太鼓、小太鼓、タンブリン、トライアングル、タムタム、ハープ、弦五部
参考文献
『ボロディン/リムスキー=コルサコフ』
(大作曲家・人と作品)井上和男著(音楽之友社、1968年)
『リムスキー=コルサコフ、交響組曲「シェエラザード」』
(最新名曲解説全集5、管弦楽曲Ⅱ)pp. 329-333、門馬直美著(音楽之友社、1982年)