ワーグナー:序夜と三日間のための舞台祝典劇『ニーベルングの指環』より
第一夜楽劇「ワルキューレ」より ワルキューレの騎行
第三夜楽劇「神々の黄昏」より 夜明けとジークフリートのラインへの旅
全曲上演には四夜を必要とし、延べ上演時間15時間にも達するオペラ『ニーベルングの指環』から有名なオーケストラ曲を2曲お送りします。
『ニーベルングの指環』は、古代から中世にかけてドイツから北欧を経て発展した「ニーベルンゲン伝説」を元にしてワーグナーが創作したオリジナルストーリーによる壮大なオペラです。序夜「ラインの黄金」、第一夜「ワルキューレ」、第二夜「ジークフリート」、第三夜「神々の黄昏」の4つのオペラにより構成されています。
本日演奏される2曲は、オーケストラの壮麗な響きを楽しめる有名曲で、演奏時間も長くありませんから単なる格好いいオーケストラ曲としても十分楽しめます。しかし、オペラの筋書きを知り、この曲の場面や登場人物を知れば楽しみは何倍にもなるでしょう。
1.『ニーベルングの指環』のあらすじ
◆序夜「ラインの黄金」と第一夜「ワルキューレ」の前史:神話の時代、世界は神々の長ウォータンが治めている。神々とはいえ妙に人間臭くて、ワルハラ城の建築資金支払いのためにニーベルング族をだましてその財宝を略奪したりする結構ずるいやつらでもある(なお、この財宝はニーベルング族のアルベリッヒがライン川から盗んだ黄金で、それから作った黄金の指環は世界征服の力があるといわれている)。とにかく、そのようなことをしなくてはならないほど神々族の権威には翳かげりがさしてきているのだ。ウォータンはこの難局を打開すべく、神々の掟に縛られずに自由な意志と愛によって行動する人間を利用して再び神々の栄光を取り戻そうと画策する。
◆第一夜「ワルキューレ」から第二夜「ジークフリート」まで:上記計画に基づいてウォータンが人間の女に産ませた兄妹(ジークムントとジークリンデ)の近親相姦によりウォータンの孫にあたる英雄ジークフリートが産まれる。紆余曲折の末、ウォータンが知の女神エルダに生ませた9人の娘の長女ブリュンヒルデとジークフリートが二人の意志によって深く結ばれる(叔母と甥の結婚! これでは省略しすぎですが後ほどもう少し詳しく解説します)。
◆第三夜「神々の黄昏」:その後ブリュンヒルデとジークフリートの2人は神々族を呪うニーベルング族の末裔ハーゲンが仕掛けた陰謀に嵌ってお互いを裏切り、ジークフリートはハーゲンに殺される。最後にすべてを悟ったブリュンヒルデは、ウォータンの遠大な計画の失敗と神々族の終焉を毅然とそして神々しく宣言してジークフリートの遺骸を焼く炎の中に身を投じる。この炎が神々族の住む天上のワルハラ城にも至り、すべてを焼き尽くして災いの元であった黄金の指環は元のライン川に戻る。そして世界は浄化され救済される(自由な意志と愛によって行動する人間たちの時代がやってくる。と解釈されることが多い)。
2.圧倒的な音楽の力
『ニーベルングの指環』は突っ込みどころ満載のストーリーです。神話を元にしたファンタジーのようでありながら、生々しくも不道徳な愛がたくさんあり、裏読みすればきりがなさそうな寓意や首尾一貫しない性格の登場人物など一筋縄ではいかないのです。男性主役のジークフリートは双子の兄妹の不倫の子供で女性主役ブリュンヒルデとジークフリートは叔母と甥の関係でありながら結ばれる。もう一人の主役であるウォータンはニーベルング族をだまして財宝を略奪したり、あちこちに子供を作って回ったりです。ウォータンとブリュンヒルデのやり取りも単なる父娘の愛以外の何かを感じてしまいます。とてもではないが不道徳でついていけないと感じる方も多いでしょう(実は魅力的なオペラのほとんどは不道徳なストーリーなのですが:薔薇の騎士、ドン・ジョヴァンニ、フィガロの結婚、椿姫等々。堅物のベートーヴェンは、ドン・ジョヴァンニのカタログの歌を聴き、モーツァルトはなぜこんな不謹慎な歌を作ったのか理解できないと言ったとか)。
ワーグナーはこのオペラで何を言いたかったのかについては多数の研究があります。旧態依然としたがんじがらめの社会体制や権力闘争を繰り返す勢力が滅び、愛と自由が勝利するというのが最大公約数の解釈のようです。これを拡大して舞台設定を近代以降の社会体制に、登場人物を実在の人物になぞらえるような穿った解釈もなされてきました。たとえば資本主義化する19世紀西欧社会の寓話という解釈(バーナード・ショーの解説)などがあります。これらがワーグナーのト書きとは異なる革新的な演出の生まれる素地になったのでしょう。これが高じて最近では演出家が自由奔放に設定の読み替えをしています。その一方で音楽の力は厳然としており不変で圧倒的です。たとえどんな演出がなされようが目を瞑って音楽に耳を傾ければ本来の筋書きが必然のように思えてくる、現代の道徳や常識からは大きく逸脱した登場人物にも感情移入してしまう、という危険な音楽なのです。「ワーグナーの音楽は麻薬のようである」と言われますが、まさにそのとおりだと思います。今日は麻薬のエッセンスを短い時間ですがお楽しみいただきます。
3.「ワルキューレの騎行」
1)この曲に至るまでの物語
ワルキューレの騎行が演奏されるのは第一夜「ワルキューレ」第三幕の冒頭です。その前の第一幕と第二幕のあらすじ(双子の不倫とその顛末)を紹介しておきましょう。
「ウォータンと人間との間の双子の兄妹の妹ジークリンデは少女のうちに略奪され、フンディングの妻として売られて奴隷のような生活を強いられていた。あるとき離れ離れになっていた双子の兄ジークムントと出合い、愛し合い、逃亡する。ウォータンは本心ではこうなることを望んでいたにもかかわらず、逃亡する彼らを神々の定めた結婚の掟のもとに罰せざるをえなくなってしまう。その兄妹を守ってはならないとウォータンから指示されたブリュンヒルデだがその兄妹の愛に心打たれ、ウォータンの命にそむいてフンディングから彼らを守ろうとする。しかしジークムントはウォータンに剣を砕かれてフンディングに刺されてしまう。ブリュンヒルデはジークリンデだけをなんとか連れて逃げる。自分の命にそむいたことで怒り心頭のウォータンがそのあとを追う」ここで第二幕終了。
2)「ワルキューレの騎行」の場面とその音楽
「ワルキューレの騎行」の場面でワーグナーの書いたト書きはおおむね以下のようなものです。
「岩山の頂上付近。舞台右方はモミの木の森。左方には岩山の頂上があってそのなかは広間ほどの広さがある洞穴である。舞台後方は岩場で、その奥は視界が開けて急な絶壁である。ちぎれ雲が嵐によって激しく通り過ぎていく。はじめに四人のワルキューレが岩山におり、ついで四人のワルキューレが岩山に向かってくる。いずれも鎧兜で装備し、馬に乗って稲妻が光る空を飛んでやってくる。」
ワルキューレとはウォータンが知の女神に産ませた9人の女神たちで長女がブリュンヒルデです。彼女らは戦死した人間の英雄たちを神々族の戦士とするために神々のいるワルハラ城に連れてくる役目を担っています。この音楽は彼女らが戦死した英雄を馬に乗せて集結する場面で、本来は8人の女性歌手の歌が入りますが今回の演奏は歌が巧妙にカットされてオーケストラだけでその雰囲気を味わえるようになっています。概ね二つまたは三つの示導動機(人物・物・概念などをそれぞれ固有の旋律で表したもの)からなっており、同じ示導動機が同じ楽器群で執拗に繰り返されます。ワルキューレの動機はトロンボーンやトランペット(譜例1)、騎行の動機は主にホルン(譜例2)、馬のいななき・嵐や風の音を表す効果音はひたすら木管と弦楽器が担当します。強靭なワルキューレが8人も集まって力いっぱい歌うシーンなのでどのパートもエネルギー最大で、常に力漲る演奏が要求されます。
オペラではそのまま切れ目なく、双子の妹を連れてブリュンヒルデが合流する場面になります。実はジークリンデはすでに兄の子を孕んでおり、それがジークフリートなのです。「もう逃げるのは疲れたから殺してくれ」というジークリンデにブリュンヒルデが語る「あなたのおなかの中には聖なる命が宿っている」というとき、勇壮でしかも悲劇的なジークフリートの動機が高らかに演奏されます。そこから幕切れまではウォータンとブリュンヒルデの対話のみで音楽は大変に盛り上がり、感動の終結を迎えます。といっても本日は演奏されません。まだ聴いたことのない方は「ワルキューレの騎行」の後の音楽を幕切れまでぜひ別の機会に聴いてみてください。
4.「夜明けとジークフリートのラインへの旅」
1)この曲に至るまでの物語
本日演奏する二曲目は、4つのオペラの最後「神々の黄昏」の初めのほうの場面の音楽です。結ばれたブリュンヒルデとジークフリートが夜明けを迎え、そしてジークフリートがライン地方に冒険に行く様子を描いています。
少し時間を巻き戻して、まずブリュンヒルデとジークフリートが結ばれた経緯を簡単に説明しましょう。第三夜「神々の黄昏」の前史にあたる第二夜「ジークフリート」の最終場面です。
年月が経って勇敢な英雄に育ったジークフリートが、ウォータンの怒りにより長い眠りにつかされていたブリュンヒルデを目覚めさせます。眠りの間は歳を取っていないことになっているので両者の歳の差は気にしなくて良いのでしょう。目覚めたブリュンヒルデは以下のように歌います。
「私は、あなたが母の胎内にいるときにあなたの命を助け、生まれる前にあなたを盾でかくまったのです。そんなに昔からあなたを愛していたのです。ジークフリート!」
ジークフリートは一瞬、目の前の女性が母なのかと勘違いします(母と息子!?)。こんなことを言われたら普通はたじろいでしまうでしょうが、ジークフリートにとっては母でも叔母でも問題なし。一方、ブリュンヒルデはウォータンから下された罰により神性を奪われて初めて人間の男性に抱かれるわけで、それを嘆いたりしますがすぐに受け入れてめでたく合体。オペラ史上最も壮大で天真爛漫な愛の音楽が延々と続きます。これで「ジークフリート」は幕となります。
2)「夜明けとジークフリートのラインへの旅」の場面とその音楽
第三夜「神々の黄昏」では、未来を予言する女神たちの不吉な夜の場面で始まりますが、その後次第に夜が明けていきジークフリートとブリュンヒルデの住む岩山に切り替わります。本日の演奏はこの場面の音楽から始まります。なんとも壮大な夜明け、それに続いて朝から凄い「愛の二重唱」です。今日の演奏は歌の部分を大幅にカットしていますが雰囲気は十分に伝わると思います。特に高貴な優しさと愛の高揚を感じさせる「ブリュンヒルデの動機」(譜例3)と元気の良い英雄の動機(譜例4)が印象的です。
ジークフリートの角笛をあらわすホルンのソロのあとはジークフリートが岩山を下りて川を下って行く様子を壮麗にかつエネルギッシュに描写する部分になります。このあたりの音楽は、主なものだけでも「炎」「ライン川」→「ラインの乙女の歌」→「黄金(のファンファーレ)」→「指環」→「(神々の)黄昏」→「ハーゲン」と多数の示導動機が次から次へと出現し、まるで早送りの映像を見るようです。この部分は、炎で囲まれたブリュンヒルデの岩山を降りてライン川に至ると、黄金を盗まれたことを嘆くラインの乙女の歌が聞こえてくる、最後はジークフリートを陰謀に陥れるハーゲンのいる館に到着する、ということをあらわしていると考えてよいでしょう。
オペラ上演ではこのあと切れ目なくハーゲンの住む館でのやり取りが始まるので、コンサートでは曲をどうやって終わらせるのかが悩みの種なのですが、本日は館に到着する直前から第一幕のエンディングに飛んで演奏を終わります。このエンディングは、ジークフリートがハーゲンの陰謀にはまって記憶を喪失し、別の男に変装してブリュンヒルデを誘拐しに来る場面を締めくくる音楽です。記憶を消されて変装したジークフリートと、見知らぬ男に襲われたと思っているブリュンヒルデ、二人の行く末を暗示するような切迫した音楽で幕を閉じます。
このあとの第二幕と第三幕では、陰謀、裏切り、復讐、殺人そして最後にすべてを悟ったブリュンヒルデの自己犠牲(自死)による神々の終焉と世界の救済という壮大なエンディングを迎えるのです。
「ワルキューレ」初演:1870年6月26日、バイエルン宮廷歌劇場、フランツ・ヴェルナー指揮
「ワルキューレの騎行」の部分の編成:ピッコロ2、フルート2、オーボエ3、コールアングレ、クラリネット3、バスクラリネット、ファゴット3、ホルン8、トランペット3、バス・トランペット、トロンボーン4、コントラバス・チューバ、ティンパニ2組、トライアングル、シンバル、中太鼓、ハープ6、弦五部
「神々の黄昏」初演:
1876年8月17日、バイロイト祝祭劇場にて開催された第1回バイロイト音楽祭において、『ニーベルングの指環』四部作として初演。ハンス・リヒター指揮
「夜明けとジークフリートのラインへの旅」の部分の編成:ピッコロ、フルート3、オーボエ3、コールアングレ、クラリネット3、バスクラリネット、ファゴット3、ホルン8、トランペット3、バストランペット、トロンボーン4、コントラバス・テューバ、ティンパニ2組、トライアングル、シンバル、グロッケンシュピール、ハープ6、弦五部
参考文献
『ジークフリート伝説ワーグナー『指環』の源流』石川栄作(講談社)
『ニーベルンゲンの指環ワルキューレ』R・ワーグナー、高橋康也・高橋迪訳、アーサー・ラッカム絵(新書館)
『ニーベルンゲンの指環ジークフリート』R・ワーグナー、高橋康也・高橋迪訳、アーサー・ラッカム絵(新書館)
『ニーベルンゲンの指環神々の黄昏』R・ワーグナー、高橋康也・高橋迪訳、アーサー・ラッカム絵(新書館)
『バイロイトの魔術師ワーグナー』バリー・ミリントン、三宅幸夫監訳、和泉香訳(悠書館)
『完全なるワーグナー主義者』バーナード・ショー、高橋宣也訳(新書館)