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ブルックナー:交響曲第6番

〈ブロック様式からロマン派様式への転換〉


土田恭四郎(テューバ)


聖者か、それとも俗物か?
 19世紀ドイツ・ロマン派を代表する作曲家の一人、ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(1824年~1896年)は、音楽史上でも実生活でも孤高な存在であった。
ヴェルナー・ヴォルフ(1883~1961)による評伝「ブルックナー―聖なる野人―」(音楽之友社)の「まえがき」に興味深い記述がある。ベルリン生まれでヨーロッパ各地にて指揮者として活躍、その後アメリカで音楽教育に携わり終生ブルックナーの音楽に帰依してきた彼の母親は、当時の音楽社交界の花形で、家には著名な作曲家や演奏家が始終出入りしていたという。



 “わたしはまだ存命中のブルックナーに会う機会に恵まれた。1890年代のはじめだったと思うが、ある日、両親からわたしたち子供はこういわれた。「有名な作曲家のブルックナーさんがお見えになるから、ちゃんとお行儀よくするのですよ。」 そういわれてもとくにどうということはなかった。家にはそれまで(人名の記載省略)、錚々たる大音楽家が訪ねてきていたからである。ひとりひとりの個性は違っていても、これらの音楽家には、風格というものが備わっていた。
 そしてある日、ついに彼があらわれた。(中略) だが実際に彼に会ってみて意外の観に打たれた。事実、これが作曲家!?と思わずにはいられなかった。(中略) この男はこれまでのどの音楽家ともちがった身なりをしていたので、わたしたちは唖然としてたちすくんでしまった。彼の着ている短めの黒い上着、だぶだぶのズボンは、スイスの田舎で見かけた農夫を思い出させた。
 彼の口数は少なかったが、妹が部屋に入ってくると、妹の前に膝をついて、生粋の上オーストリア訛で「どやねん!いとはん!」といった。妹はびっくりして泣き出した。面倒なことになったが、それだけにとどまらなかった。昼食のとき、この風変わりな客は魚料理を手でつまみ、魚の骨を二つにへし折った。それで、両親がわたしたちになぜお行儀よくしなさいといったのか、初めて納得がいったのだった。
 だが、この御老体の音楽を耳にするとすぐ、その風変わりな服装や奇癖は、みな気にならなくなった。(以下略)“


 ブルックナーは子供たちにとって道化師であり、ずんぐりした姿と身なりは滑稽なものに映っていたのだろう。風変わりな服装は、オルガンを弾くのにも好都合であった。特に目立つのは、赤や青の水玉や市松模様、あるいは赤い色のバカでかいハンカチで、これは風呂敷としても使用しており、彼独特の合理性から生まれたものであった。

 
 ブルックナーは、1880年8月13日から9月11日まで、夏季休暇を利用してヨーロッパの最高峰モンブランを観るという個人的な欲求のためスイス方面に旅行している。しかしながら彼の日記には旅の印象や感動の体験といったものの記載はなく、出会った若い娘の名前が驚くほどたくさん記載してあった。
 また、踊りが好きなブルックナーは、シュトラウスのワルツをこよなく愛し、季節のカレンダーのメモ欄に、一緒に踊った女性の名前が克明に記入されていた。(どのような姿でどう踊ったのだろうか。)
 終生変わらぬ若い女性に対する憧れは尊敬の念のみで結びついており、常に結婚を意識したもので、それ以外の目的で親しくなることは神の禁令にそむく忌まわしいことであった。
 音楽以外では無関心であったブルックナーだったが、このような結婚願望をはじめとする強いこだわりは、風変わりな服装と相まって、ブルックナーの特異な素朴さから生み出された個性であり、人間ブルックナーと、創造者ブルックナーとの間の大きな相違から発生する矛盾と混乱が、彼の人生と創造全体の隅々にまで及んでいる。


ワーグナーとの交流
 憧れの巨匠ワーグナーと初めて会ったのは1865年5月18日ミュンヘンでのことである。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」初演を聴くために居たのだが、指揮者のハンス・フォン・ビューローとの出会いから実現した。交響曲第1番を見せるよう求められても、ひたすら恐縮していたブルックナーにはその勇気がなく、献呈の機会を逃してしまった。この時にワーグナーからもらった1枚の肖像写真は、終生自宅の祭壇にうやうやしく祭られていた。
 1873年5月初め、それまでに自作の交響曲第2番と第3番のスコアを観てくれるよう懇願していたが、なかなか返事がなく、ブルックナーはワーグナーの承諾も無くバイロイトを訪問した。ワーグナーはバイロイトの祝祭劇場等の建設で忙殺されており、ブルックナーの申し出を一旦は断ったが、結局は交響曲第3番の献呈を受けている。
 ヴィーンのアカデミー・ワーグナー協会に入会したブルックナーに対するワーグナーの評価は高く、バイロイトでもヴィーンでもブルックナーに会うたびに、「君の交響曲と全ての作品を私自身が演奏しますよ。」と言っていた。息子のジークフリートによれば、この約束は社交辞令にすぎなかったようだが、ブルックナーにとっては最大の励ましだったであろう。
 ブルックナーは、ワーグナーの音楽にどのような関心を抱いていたのだろうか? 「タンホイザー」の第3幕、失意のタンホイザーが愛欲の女神ヴェーヌスのもとへ帰ろうとする場面で「おやおや、あの男はまたあの女のとこへ行きよる」と言った。また「ヴァルキューレ」の終幕では、「なぜあの女(ブリュンヒルデ)を焼き殺すのか?」と隣の弟子に尋ねたという。
 さまざまな証言からは、あくまでもオーケストレーションや主題処理のテクニック、半音階的和声など音楽的側面のみが関心の対象であり、文学的・視覚的側面には無関心だったといえる。ワーグナーの音楽が持つ常軌を逸したような巨大さは、彼にとって永遠なるものであった。



交響曲第6番
 規模や内容の充実度において交響曲と比肩する傑作「弦楽五重奏曲」を書いた後、作曲に取りかかっている。後期の創作活動への道を探る過渡的な作品と位置づけられており、ブルックナー自ら「対位法の傑作」とみなした交響曲第5番とは対照的に簡明で判り易く、ロマン的な瞑想性の上にあるのびやかな抒情性と明快さが特長である。この曲は、楽器群の音色によるタテのブロックを主張しつつ、楽想のかたまりが突然移動し、楽想が並列的に扱われるといった単純なヨコのブロック移行という所謂ブルックナー独特のブロック様式から、各ブロックが主題の変化とともに多くの経過句が入って自然に流れていくことで、聴きやすく洗練されたロマン様式への転換を示唆している。
 1879年9月24日に第1楽章を書き始め、前述のスイス方面への旅行から戻ってきた直後の1880年9月27日にこの楽章を完成した。第2楽章は1880年11日22日完了、第3楽章は1880年12月17日から翌年1月17日まで、そして第4楽章は1881年6月28日スケッチを完了、1881年9月3日に完成している。この曲は「親切な家主」として感謝されていたアントン・フォン・エルツェルト=ネーヴィンとその妻アミーに献呈されている。
 1883年2月11日初演当日、興奮したブルックナーは、弟子と共に朝の9時には左右不揃いの靴(片方は先のとがったエナメル靴)をはいて会場に姿を現した。近くのレストランでブルックナーからいくつかの命令を与えられた弟子の一番大切な任務は、師の宿敵である批評家ハンスリックを見張ることであった。この時は第2楽章と第3楽章のみしか演奏されず、ハンスリックからは冷遇され、その後この作品は注目を集めることがなかった。そのため複雑な改訂稿をもっていない。


第1楽章 マエストーソ
 ニ長調、2/2拍子。ソナタ形式。ヴァイオリンが個性的で輪郭の鋭いリズムを刻む中(譜例1)、低弦による第1主題が「堂々と」(マエストーソ)登場(譜例2)。付点リズムの展開が続いて主題の全てが全奏で反復されて厳粛な中で緊張が高まる。
 柔和で女性的な第2主題(譜例3)はヴァイオリンで、対比リズムとしての低弦による3連音符と共に登場する。抒情的で9度の飛躍が陶酔的。対位法的にこの主題が確保され、短い経過句で発展して力強い第3主題が登場(譜例4)。美しい移行句が続き、展開部に入る。主要主題は転回形で現れ、上行運動によって力が増幅、そして変ホ長調で第1主題が展開部のクライマックスとして出現、真のクライマックスである壮大な再現部の始まりが、イ長調で堂々たる威厳をもって登場する。このような重なりはブルックナーの優れた移行句といえる。
 各主題が再提示される再現部を経て、最大のパッセージの一つとして幅広く長大なコーダに入る。鼓動のように刻まれるバスのリズムの上にコラールが鳴り響き、畏敬に充ちた転調と3連音符がまるで天上から光が降り注ぐ如く煌めきと荘重さが増しておおらかに展開。最高潮のうちに閉じられる。



第2楽章アダージョ、極めて荘重に
 へ長調、4/4拍子。ソナタ形式。この交響曲の白眉。柔和で気品のある美しい音楽に満たされている。ヴァイオリンによる第1主題(譜例5)。そしてオーボエが嘆きのフレーズを添える(譜例6)。半音下降の音形は「嘆息」であり、バッハのロ短調ミサにもあるラメント・モティーフ(嘆きのモティーフ)のような、大いなる嘆きを表現している。そして全体に登場する全音階的下降音形は、宗教的で厳かな雰囲気を醸し出している。
 第2主題は、幸福感を表す明るいホ長調でヴァイオリンとチェロにより対位法的に示される(譜例7)。さらに古典的な第3主題が葬送行進曲のように登場(譜例8)。ハ短調と変イ長調が混合し、変イ長調への無限の悲しみを秘めた転向を伴うこの主題は印象に残る。展開部は木管の全音階的下降音形(冒頭の低弦による音形)、ホルンとオーボエを経て、へ短調への復帰で始まる再現部は呈示部よりさらに立体的・色彩的に発展していく。コーダは単純且つ素朴だが、第1ヴァイオリンによるヘ長調の下降音階とチェロの上昇音階が魅力。卓越した効果をあげる無比な技術は、作曲家としての偉大さを示している。



第3楽章 スケルツォ:速くなく
     トリオ:ゆっくりと

 イ短調、3/4拍子。三部形式。ブルックナーの他の交響曲に登場するスケルツォとは異なり、幻想的で緊張感の中にも落ち着いた色彩がある。この楽章のみ〈ゲネラル・パウゼ〉が要所にあるのが面白い。低弦が属音のホ音を歯切れよくきざみ、三つの異なるメロディーが一体となって登場している(譜例9)。中心部には魅惑的なメロディーを経て第1部はイ長調で終結。トリオはハ長調でゆるやかに始まる。冒頭は弦のピチカートにより、変イ長調の属7和音第1転回のような響だが、ホルンが力強くハ長調で登場し、さらに木管が交響曲第5番の第1楽章第1主題のようなテーマで変イ長調を主張するかのように入ってくる(譜例10)。とても秀逸な調性の変化であり、最後は何事もなかったかのようにハ長調で終わる。第3部は第1部がそのまま再現してこの楽章を閉じる。



第4楽章 終曲 運動的に、速すぎずに
 イ短調、2/2拍子。ソナタ形式。快活で情熱的な音楽。序奏が先行してイ短調で始まる(譜例11)。落ち着きがなく、ホルンとトランペットがイ長調で第1主題の前触れの如く割り込んできて、ホルンによる第1主題(譜例12)が呈示される。まるでアイドルグループが歌うポップスのような快活で明るい音楽。活力と躍動感に満ちた弦、ファンファーレ風な金管、なめらかな音形の木管が融合され、存分にブルックナーの公私にわたる高揚が反映されているようだ。オルガンの名手として即興演奏を楽しんでいる姿かもしれない。英雄的なファンファーレの後、第2主題はハ長調でヴァイオリンにより対位法的に登場する(譜例13)。〈常にきわだたせて〉と書いてある2つの決定的なメロディーとヴィオラの対比も美しい。要所に「トリスタンとイゾルデ」から「愛の死」の動機がそっと見えるのは偶然だろうか。第3主題は管楽器によるおおらかなもの(譜例14)と木管の歯切れのよい軽やかなもの(譜例15)からなる。展開部と再現部は、以上のテーマがブロックの如く、より大きな輝きを持って発展して明瞭かつ劇的に変化し、第1楽章の主題が回帰して重ねられ、巨大なコーダとなって終わりを告げる。



ブルックナーの花園
 ワーグナーの「楽劇」には、古代ギリシャ悲劇のように、人間の持つ感情が深い洞察力と想像力で表現されており、ストーリーの展開に伴って、登場人物の性格や感情や欲望、お話の過去・現在・未来(予言)の全てを、音楽がドラマとして雄弁に語っている。ブルックナーの音楽には、ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームスのような、人間的なドラマ性とか文学的側面を彷彿とさせるような感情が感じられない。実生活での体験や感情がどのような形で作品の内容に影響を与えているのだろうか。
 ヴィーン大学の和声法・対位法の無給講師として採用されたブルックナーは1876年4月24日にヴィーン大学で就任講演を行った。(因みに交響曲第6番作曲中の1880年11月28日に有給化が承認されている。)原稿によれば、和声法と対位法について充分な知識を持つことが、創作にとってばかりではなく、音楽作品の正当な評価と判断にとって、いかに必要かを力説し、音楽がその構成要素の最小限にいたる
まで固有の法則をもつ有機体であるという思想が、格調のある名文によって明瞭に読み取れる。対位法と和声法のあらゆる技術を駆使し、独自なオーケストレーションと並はずれて強い調性感覚でこの思想を実現したものが、ブルックナーの交響作品といえよう。


 ブルックナーの音楽的な妄想の中には、「ロマン的瞑想」と名付けられた「花園」があるに違いない。そこには、燦々と輝く天上の光を浴びて、ブルックナーのハンカチの如く、カラフルでポップな色とりどりの花が一面に咲き乱れており、ブルックナーが独特な風貌で歩いている。刻々と変わる調性と音響を表現するように、スキップしたり、立ち止まったりしながら、子供や女性に捧げるための花を摘み、静かに瞑想している姿が見えるようである。


注)新交響楽団第209回演奏会プログラム「ブルックナー:交響曲第9番〈永遠のゲネラル・パウゼ〉」及び第220回演奏会プログラム「ブルックナー:交響曲第5番〈真のブルックナー:厳格な技法とファンタジーの融合〉」も併せて参照していただきたい。
(新響ホームページから「過去の演奏会」を選択し第209回演奏会及び第220回演奏会の詳細にあり)
http://www.shinkyo.com/concert/p209-3.html
http://www.shinkyo.com/concert/p220-2.html


初演:1883年2月11日ヴィーン楽友協会ホール、ヴィルヘルム・ヤーン指揮ヴィーン・フィルハーモニー(第2楽章、第3楽章のみ初演)
1899年2月26日ヴィーン楽友協会ホール、グスタフ・マーラー指揮ヴィーン・フィルハーモニー(大幅なカットとオーケストレーションの変更あり)1901年3月14日シュトゥットガルト宮廷劇場、カール・ポーリヒ指揮 シュトゥットガルト宮廷楽団(全曲)
日本初演:1955年3月15日日比谷公会堂、ニクラウス・エッシュバッハー指揮 NHK交響楽団


楽器編成:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ1、ティンパニ、弦五部


参考文献
『ブルックナー ―カラー版作曲家の生涯―』土田英三郎(新潮社)
『ブルックナー ―聖なる野人―』ヴェルナーヴォルフ、喜多尾道冬・仲間雄三訳(音楽之友社)
『作曲家別名曲解説ライブラリー⑤ ブルックナー』音楽之友社編(同社)
『アントン・ブルックナー 魂の山嶺』田代櫂(春秋社)

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