ラヴェル:道化師の朝の歌
「鏡」とは
この作品は1904年から1905年にかけて作曲されたピアノのための組曲「鏡」の第4曲目にあたる。「鏡」は「夜蛾」「悲しげな鳥たち」「海原の小舟」「道化師の朝の歌」「鐘の谷」という極めて審美的で絵画的な、そして謎めいたタイトルの5つの小品から成り立つ。
そもそも「鏡」というタイトル自体が想像力をかきたてる。個人的ではあるが「5つの映像(イマージュ)を映し出す鏡」とも「客観的な現実の反映」とも受け取れる。またラヴェルは作品をまず鍵盤楽器で発表し、のちに改作することを好んだ。実際に彼の作品のほぼ半数は何らかの方法で作り変えられている。この「鏡」も、「海原の小舟」と「道化師の朝の歌」の2曲がラヴェル自身によって管弦楽化された。
ラヴェルとスペイン
5曲のうち「道化師の朝の歌」のみタイトルが“Alborada del gracioso”とスペイン語表記になっている(他4曲はフランス語)。特に日本では「道化師」と訳される“gracioso”の翻訳に関しては各国共通の悩みの種のようで、英訳では“Jester”や“clown”、または“comedian”など様々である。これに対してマルグリット・ロン(注1)は著作『ラヴェル-回想のピアノ-』の中で次のように述べている。
「“gracioso”という用語は、フランス語にはこれに相当する言葉がなく、“bouffon”というのは大分意味がずれている。グラシオーソには民衆の思想を表す民族性がある。これらはスペインの黄金世紀の演劇の喜劇役者であり、コントラストの効果をあげるためのもので、一種の反ヒーローである。だが作家次第で、心理的に実に多様な現れ方をしている。」
同じくアルフレッド・コルトー(注2)も著作『フランス・ピアノ音楽2』の中で、「“gracioso”にはこれに置き換え得るフランス語が見当たらない」と指摘している。題名に関してラヴェルは多くを語っていないが、スペイン語で記すことが作曲家自身、一番ぴったりとする感覚であったのだろうか。ここではまずラヴェルの生い立ちについて簡単にふれておきたい。ラヴェルの死の翌年に出版された『自伝素描』(注3)の中で、作曲家自身は次のように語っている。
「1875年3月7日、サン=ジャン=ド=リューズに隣り合わせたバス=ピレネの町シブールで、私は生まれた。父は、レマン湖のスイス側の岸にあるヴェルソワの出で、土木技師だった。母は、バスク地方の古い家柄に属していた。3か月のとき、シブールを離れてパリに行き、以後ずっとそこに住んだ。」
また、スペインの作曲家マヌエル・デ・ファリャは、ラヴェルの管弦楽組曲「スペイン狂詩曲」を聴いた際に次のように述べている(注4)。
「私は狂詩曲のスペイン的な性格に驚かされた。しかしラヴェル自身が認めるように、彼は国境近くの生まれで、わがスペインとは隣人関係しかもっていないことを知っているというのに、私はこの音楽家の鋭敏で正統的なスペイン的特質をどうしたら説明できるのだろうか。だが、私はすぐにこの疑問を解決した。ラヴェルのスペインは母を通して理想的に感じ取られたスペインなのである。私は彼女がすばらしいスペイン語で語る洗練された会話にうっとりしながら、マドリッドで過ごした彼女の若き日の思い出話を聞いたものだった。」
ラヴェルの生まれたシブールは、フランス南西部のスペインに近いバスク地方に位置する。そしてそのバスクの古い家柄に属するシブール生まれの母親を持ったことにより、作品の題材が、例えば歌劇「スペインの時」や「スペイン狂詩曲」のようにスペインそのものであったり、作風にスペイン的抒情性が見受けられるのは極めて自然なことのように思える。
楽曲について
ここでは原曲のピアノ版と比較しながら記したい。まず冒頭部分であるが、ピアノ版では「乾いた響きで、アルペジオは詰めて短く」と指定されている。またラヴェルの全ピアノ作品を作曲者自身から直接助言を受けたヴラード・ペルルミュテールによる校訂版では「ギターのつまびき音のように」と補足されている。まさにギター音楽を連想させる冒頭部分だが、オーケストラ版ではハープと中間部の主役を担うファゴット、そして弦楽器のピッツィカートに分割して奏され、よりコミカルな雰囲気を醸し出している。この序奏に導かれて主要主題がオーボエからコールアングレ、クラリネットと受け渡される(譜例1)。
序奏から引用された3連符を伴った旋律はスペイン風にも聴こえる。オーケストラ全体で奏した後、リズム部分にカスタネットが登場する。この瞬間、たとえここまで何の予備知識が無く聴いたとしても、スペインが舞台であることを確信するだろう。そこにはスペインの太陽に照らされた乾いた空気や、街のざわめきが感じられる。そして時折、仮面をつけた道化師の姿が見え隠れする。あくまで私見ではあるが、道化師は「鏡」に映った自分自身の姿とも受けとれる。
中間部はラヴェルが「より遅く、表情をよくつけて語るように」と指示した右手による息の長い単旋律から始まる(譜例2)。
オーケストラ版では第1ファゴットにゆだねられ、より表情に富んだ語りとなっている。あたかも歌劇(オペラ)の叙唱(レチタティーヴォ)のような道化師の語りは、朝の歌(オーバード)とも恋の嘆きとも受け取れる。これに呼応するようにスペイン風リズムの協和音の響きが交錯し、重なり合いながら中間部のクライマックスを形成する。
再現部では今までの憂愁などなかったかのように場面転換される。ここでは主要主題(譜例1)は後回しにされ、急速な連打音やダブル・グリッサンドなどの繊細かつ高度なピアノ技巧が展開される。オーケストラ版ではこのダブル・グリッサンド部分の最後に、ピアノ版には存在しない木管楽器のフラッター奏法による新たな4小節が追加されている。最後に主要主題が部分的に想起され、華やかな幕切れとなる。
[注記]
注1:1874-1966年。20世紀前半のフランスを代表するピアニスト・ピアノ教育者。
注2:1877-1962年。20世紀前半のフランスを代表するピアニスト、指揮者、教育者、著述家。
注3:1938年に出版された「ルヴュ・ミュジカル」誌のモーリス・ラヴェル特別記念号に掲載された。内容は1928年にロラン=マニュエル(フランスの作曲家・音楽学者・音楽評論家)が聞き取りしたものにもとづく。
注4:出典『On Music and Musicians』マヌエル・デ・ファリャ著(Marion Boyars, 1979)
ピアノ初演:1906年1月6日 パリのサル・エラールに於ける国民音楽協会演奏会にて、リカルド・ピニェスによる
管弦楽編曲版初演:1919年5月17日 パリにて、ルネ・バトン指揮、パドルー管弦楽団による
楽器編成:ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、タンブリン、シンバル、トライアングル、クロタル(アンティク・シンバル)、カスタネット、木琴、ハープ2、弦五部
参考文献
『ラヴェル-回想のピアノ-』マルグリット・ロン著、ピエール・ロモニエ編 北原道彦・藤村久美子共訳(音楽之友社)
『フランス・ピアノ音楽2』アルフレッド・コルトー著、安川定男・安川加寿子共訳(音楽之友社)
『作曲家別名曲解説ライブラリー11 ラヴェル』音楽之友社編(音楽之友社)
『ラヴェル-生涯と作品-』アービー・オレンシュタイン著、井上さつき訳(音楽之友社)
『ラヴェル』ウラディミール・ジャンケレヴィッチ著、福田達夫訳(白水社)
『ラヴェルピアノ曲集、鏡』モーリス・ラヴェル作曲、ヴラード・ペルルミュテール校訂・監修、岡崎順子注釈・訳(音楽之友社)
「フランス音楽の彩と翳Vol.6 スペイン!!」矢崎彦太郎
http://www.ses-amis.net/cms/ombres-et-lumieres/25/