プロコフィエフ:交響曲第5番変ロ長調
新天地を求めて
その作曲家にとって、作品番号100となる交響曲は非常に重要な意味を持っていた。時は第二次世界大戦末期。彼の祖国は、ナチス・ドイツを相手に熾烈な戦闘を続けている。「誰もが祖国のために全力を尽くして戦っている時、自分も何か偉大な仕事に取り組まなければならないと感じた」と本人が回想しているように、祖国愛に駆り立てられ、意欲的に作曲に取り組んだ。もちろん、100という節目となる数字も、その意気込みを後押ししたことは想像に難くない。
作曲家の名前は、セルゲイ・セルゲーヴィチ・プロコフィエフ。その代表作の一つである交響曲第5番について詳しく述べる前に、それまでの彼の足跡をたどってみたい。
彼は1891年4月、旧ロシア帝国のウクライナ(現在は独立国)南部に生を享けた。幼少よりピアノに親しみ、作曲では驚くべき神童ぶりを発揮。13歳でペテルブルク音楽院に入学する。卒業後は、気鋭の作曲家・ピアニストとして頭角を現していくが、ロシア革命前後から、彼を取り巻く環境に変化が生じる。
旅行で訪れたヨーロッパでは、ロシア・バレエ団を率いるセルゲイ・ディアギレフに出会い、才能を認められ、作曲を依頼された。西欧でも自分の力が認められるという手応えを掴んだのである。そして、1917年にロシア革命が勃発。政治混乱の中では思うような作曲活動ができないと考えたプロコフィエフは、アメリカに渡ることを決意する。当時ヨーロッパは、まだ第一次世界大戦の戦火の中にあり、安全に活動ができるアメリカが彼の新しい天地となったのである。「当時のロシアでは音楽など無用のものだったが、アメリカに行けば学ぶことも多いだろうし、同時に人々が私の音楽に興味を持つだろうと信じていた」と彼は語る。
こうして、翌1918年5月、アメリカへ向けて出発。当初その渡航は亡命というような大袈裟なものではなく、本人は2~3ヶ月で帰国するつもりだったというが、実際に祖国への本格的な帰還を果たすのは、17年後のこととなる。
ニューヨークからパリへ
プロコフィエフは、ニューヨークを拠点に音楽活動を行い、その間、ピアノ協奏曲第3番や歌劇「三つのオレンジへの恋」といった名曲を生み出しているが、アメリカ国内での評価は必ずしも芳しいものではなかったようだ。そして1922年、本格的な活動の拠点をヨーロッパに求めることを決断する。それまでも度々仕事でパリやロンドンを訪れており、作品も高く評価されていたので、それは自然な成り行きだったのだろう。1922年3月から約1年半を南ドイツのエッタールという風光明媚な山村で過ごし、1923年10月、いよいよパリに拠点を移すことになる。
その頃のパリは、まさに芸術の最高峰が集う、世界における文化の中心地。ここでプロコフィエフは、以前から親交のあったディアギレフのロシア・バレエ団との仕事に力を入れる。当時のロシア・バレエ団は、作曲にストラヴィンスキーやラヴェル、美術には画家のピカソやマティス、ルオー、衣装デザイナーのココ・シャネル、台本はジャン・コクトーが受け持つという、驚くべき“オールスター軍団”。プロコフィエフは、そこで「鋼鉄の歩み」や「放蕩息子」といったバレエ音楽を作曲し、絶対君主であったディアギレフから“私の二番目の息子”と可愛がられた。ちなみに、一番目の息子はストラヴィンスキーである。
ラヴェルとプロコフィエフ
このように、パリでの音楽活動は、非常に刺激に満ちて充実したものであったが、ここで本日の演奏会の前半を飾る作曲家、ラヴェルとの接点に少し触れてみたい。
二人の出会いは、プロコフィエフがパリに活動拠点を移す前の1920年。パリで催されたある音楽会で、彼は小柄なロマンスグレーの紳士を紹介された。すでにフランス楽壇の重鎮であったモーリス・ラヴェルである。出会いを光栄に思ったプロコフィエフは、最大の尊敬を込めてラヴェルの手を握ろうとしたが、ラヴェルは驚いて手を引っ込めてしまう。そのシャイな作曲家は、過剰に敬われることが大嫌いだったのである。
その後二人が特別な親交を結んだという記録はないが、後年プロコフィエフは、ラヴェルの訃報に接し、彼に対する思いを綴っている。「いま電報がラヴェルの死の悲しい知らせを運んできた。世界は時代の最も偉大な作曲家の一人を失った」とその手記は始まり、「戦争直後のフランスの若い音楽家たち…オネゲル、ミヨー、プーランク、そして他の数人…が『ラヴェルの音楽はもう時代遅れで、新しい作曲家と新しい音楽言語が舞台に現れた』と宣言したことがあった。年月が過ぎ、新しい作曲家たちはフランス楽壇でそれぞれにポジションを得たが、ラヴェルはいまだに重要なフランス人作曲家の一人であり、今の時代で最も優れた音楽家の一人であり続けている」と結んでいる。
ラヴェルは、「作曲家は創作に際して個人と国民意識、つまり民族性の両方を意識する必要がある」という考え方を持っており、この点は音楽に民族性を強く打ち出したプロコフィエフとの大きな共通点であろう。
ふたたび祖国へ
1920年代後半になると、プロコフィエフはソビエト連邦と名前を変えた祖国を度々訪れ、作品も高い評価を得るようになっていた。その手応えもあり、これまでに培った作曲技術や音楽経験、最先端芸術のエッセンスを祖国の人々のために生かす時が来たのではないか、と考えるようになった。
その思いを後押ししたのがセルゲイ・ラフマニノフの言葉だったといわれる。たまたま大西洋横断航路で同じ船に乗り合わせたラフマニノフは、彼にしみじみと語ったという。「私は再び祖国の地を踏むことはないだろう。私や私の音楽は、ソビエトでは誰も必要としまい。いま帰ったところで『何者か?』と問われるだけだ。もう、若者に道をあける番だ。私は、あの世で若い頃の過ちを後悔することになるだろう」。祖国から求められている時に、そして祖国に貢献できるうちに帰国すべきではないか、とプロコフィエフは強く思うようになったのである。
こうして、パリとモスクワを行き来する生活に終止符を打ち、1935年、44歳になったプロコフィエフは、家族を連れてモスクワへ正式に活動の拠点を移した。
祖国への帰還後も彼は意欲的な作曲活動を続け、1936年には、最高傑作ともいえるバレエ音楽「ロミオとジュリエット」や、数ある作品の中で最もよく知られている「ピーターと狼」を完成。1939年には、カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」を世に送り出すなど、作曲家としての充実期を迎えた。
自由で幸福な人間への讃歌
そのような時期の集大成ともいえる曲が、交響曲第5番である。彼の意気込みは冒頭に記した通りであるが、この曲の特徴は、高度な作曲技法を駆使し、溢れんばかりの多彩なモチーフが縦横無尽に展開されることと同時に、曲に祖国の人々への思いが込められていることだろう。このナショナリズムは、当時のソビエト政府から強要されたものではなく、彼の心の中から自然に湧き出てきたものだった。彼自身も手記の中で次のように述べている。
「私の第5交響曲は、自由で幸せな人間、その大きな力、その純粋で高貴な魂への讃歌の意味を持っている。だが、私は意識してこのテーマを選んだとは言えない。それは私の中に生まれ、表現されることを強く要求していたのである。音楽は私の中で熟し、ついには魂を溢れさせるものとなった」。この曲を聴いて、どこかメカニカルな印象を持たれる方は多いかもしれないが、盛り込まれているのは至ってヒューマンなテーマなのである。
彼は永遠に勝利したのか
交響曲第5番は1944年に、わずか2ヶ月間で作曲され、翌1945年1月13日にモスクワ音楽院の大ホールにおいて、本人の指揮によって初演された。その演奏会は、20発の祝砲が鳴り渡った直後に開始され、ソ連全域にラジオ中継されるという、国民的記念行事の感を呈するものだった。
後に世界で最も優れたピアニストの一人となるスヴャトスラフ・リヒテルは、この演奏会に立ち会った印象を回想している。「この交響曲の中で、彼は自分の才能のすべてを出していた。それと同時に、そこには時間と歴史、戦争、愛国主義、それらすべての勝利とプロコフィエフ自身の勝利があった。彼は以前から常に勝利していたが、ここにおいて芸術家として永遠に勝利したのだ」。勝利という言葉を繰り返す手放しの称賛であるが、その言葉からは29歳のリヒテルの感動と興奮が伝わってくる。
このように、第5交響曲は大きな拍手をもって世に迎えられたが、初演直後の1月末に彼は階段から転落して後頭部を強打。意識不明のまま病院に搬送されるという不幸に見舞われている。退院後は以前と同じように作曲活動を続けるが、次第に病気がちになり、1949年の夏以降は、1日30分しか作曲活動が許可されないような病状に陥ってしまう。しかし、限られた時間の中でも作曲をやめることはなく、1953年3月に61歳で没する直前まで、その意欲は衰えなかったという。
リヒテルが称えたように、彼は永遠に勝利したのだろうか。それは、彼が生み出した数多くの作品が、いま世界中のオーケストラやソリスト、バレエ団、歌劇場などの重要なレパートリーを占めていることから客観的に肯定できるだろう。しかし、彼は自分自身の勝利は望んでいなかったのかもしれない。最後にもう一度、彼の手記を引用して終わりたい。
「作曲家は詩人や彫刻家、画家とまったく同じように、人間、人類に仕える義務がある。人間の生活を美しくし、そして守らねばならない。それには、まず作曲家自身がよき市民でなければならない。そうすれば、自ずとその芸術は人々の生活を称え、人々を輝かしい未来に導くだろう。それが芸術の不変の掟だと私は思う」。
■第1楽章
アンダンテ、ソナタ形式。フルートとファゴットが奏でる緩やかな旋律(譜例1)で曲は始まる。この第1主題はヴァイオリンに歌い継がれ、オーケストラ全体を支配する。低音部の新たな楽想を交えて曲は展開し、フルートとオーボエによる、やや速度を上げた第2主題が始まる。その後、展開部では多数の楽想が対位法的に巧みに組み合わされる。そして、金管楽器を主体に第1主題が壮大に回想され、重々しく終わる。
■第2楽章
アレグロ・マルカートのスケルツォ的楽章。ヴァイオリンの刻みに乗ってクラリネットが軽妙な主題(譜例2)を演奏する。中間部では、ヴィオラとクラリネットが期待感に満ちた旋律を奏で、それに他の木管楽器が加わって、展開しながら盛り上がりを見せる。その後、トランペットがスタッカートを引きずるように演奏する主題の変奏を経て、曲はテンションを上げ、断ち切られるように終わる。
■第3楽章
透明な美しさをたたえたアダージョ。弦の分散和音進行を背景に、クラリネット、フルートとファゴット、ヴァイオリンと、叙情的な旋律が受け継がれていく。特にヴァイオリンの高音部などは、『ロミオとジュリエット』によく似た清澄さを醸し出している。途中、葬送行進曲を思わせる部分や、凶暴さをも感じさせる強奏部を経て、冒頭の主題が戻り、静かに閉じる。
■第4楽章
アレグロ・ジョコーソ。フルートとファゴットによる楽句で導入部が始まり、チェロが第1楽章の第1主題を朗々と回想した後、クラリネットが浮き立つようなメロディ(譜例3)を歌う主部に移る。中間部では、低音弦楽器がコラール風の荘重な主題(譜例4)を奏で始め、それがフーガのように金管楽器などに展開される。その後、長大なコーダとなり、緊張感をもって盛り上がりを見せた後、突然弦楽器がソロの集団となる。そして、最後の小節で全奏となって、華々しく曲を閉じる。
初演:1945年1月13日 モスクワ音楽院大ホールにて、作曲者自身の指揮による
楽器編成:ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、小クラリネット、バスクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、トライアングル、シンバル、タンブリン、ウッドブロック、小太鼓、大太鼓、タムタム、ピアノ、ハープ、弦五部
参考文献
『プロコフィエフ自伝/随想集』(音楽之友社)
『プロコフィエフその作品と生涯』サフキーナ著(新読書社)
『プロコフィエフ音楽はだれのために?』ひのまどか著(リブリオ出版)
『作曲家別名曲解説ライブラリープロコフィエフ』(音楽之友社)