ル・ベルヴェデールの響き
「パリから少なくとも30kmくらい離れた辺りに小さな家を探して戴けませんか?」音楽学者ジャン・マルノールの娘ジュヌヴィエーヴに宛てた1通の手紙からドラマは始まった。パリ北西郊外のルヴァロワや凱旋門近くのアパルトマンを点々としていたラヴェルは、叔父の遺産を相続して、パリの喧騒から逃れ孤独になれる近郊で、しかも望む時には友人達を呼び寄せられる範囲内に住みたいと思ったのだ。いささか身勝手なこの希望は、誰でも心の内に秘めている想いだろう。親しい友情の中にも、いくばくかの煩わしさが含まれているのは事実だ。
孤高の人かと思えば友人達と冗談を飛ばし合うのが好きな淋しがり屋、心根は優しく思いやりがあるのに表面的にはクール、脆弱な身体だが強情で決闘も辞さない熱血漢、プライドが高く楽観的でいて執念深くいつまでも思い悩み、几帳面で神経質ながら日常的な事にはルーズで無秩序といった矛盾や葛藤を抱える心情は珍らしくないかも知れないが、ラヴェルの場合は相反の振幅が大きかった。それは5回もローマ大賞に落選し、不正ではないかと疑問視された判定を繞ってパリ音楽院長が辞任に追い込まれたスキャンダルと、後年その反動かと言われたレジョン・ドヌール叙勲を彼が拒絶したスキャンダル、いわゆる二つのラヴェル事件にも現われている。
家探しを依頼した頃、彼は心身ともに疲労とストレスの極限に達していた。一つは1917年1月に最愛の母が他界した事。もう一つは1914年8月に勃発した第一次大戦である。20歳の時にヘルニアと虚弱体質で兵役免除されていたにもかかわらず、愛国心と機械好きの性格から空軍を志願したが、結局陸軍で軍用トラック運転手の任務に就いた。近代科学戦の嚆矢となった第一次大戦は、かつて人類が体験したことのない苛酷な戦いで、ラヴェルもヴェルダンの近くに於て、何度か命を落としそうになった。
連合国の反対を押し切って参戦し、独領だった青島(チンタオ)を攻略した程度の日本からは想像出来ないが、国中を戦場と化し、社会・思想・文化の変革とその痛みをヨーロッパ諸国にもたらした第1次大戦の痕跡は現在も顕著で、国連やユーロの萌芽となったのだ。大戦直前の1913年に〈春の祭典〉をシャンゼリゼ劇場で初演して怒号と罵声に包まれたストラヴィンスキーは、1918年11月11日午前11時に調印された休戦協定を祝って、同日朝に〈11楽器のためのラグタイム〉を書き上げた。終戦に伴う「祭りの日の朝」の様な楽天的気分は、戦前の印象主義・原始主義・神秘主義・表現主義を消滅させ、率直な作風や明快な協和音と節度のある形式美に衆人の目を向けさせた。この1918年にドビュッシーが56歳の生涯を閉じ、新古典主義への出発点となった〈兵士の物語〉がローザンヌで初演された事実は、新しい時代の到来を象徴している。アメリカから戻ったプロコフィエフがパリに住み、交響曲2番・3番や〈道化師〉の初演をパリで行なったのもこの頃だ。
ジュヌヴィエーヴが見つけたのは1907年に建てられた粗末な家。しかしラヴェルは、見晴らし台という意味の屋号〈ル・ベルヴェデール(Le Belvédère)〉にふさわしいバルコニーからの美しい眺めに魅せられた。イル・ドゥ・フランスの柔らかな日差しの下、地平線まで続くランブイエの森が濃緑に輝きながら広々と開けた空に接している風景は、どの部屋からも見渡せられる。彼は1921年4月16日に登記し、5月から住み始めて、1927年まで趣味に合わせて内装を徐々に整えていった。
場所はイヴリーヌ県のモンフォール=ラモリ(Montfort-l’Amaury)。パリの南西、ブーローニュの森からヴェルサイユを経由して45kmの地点。麦畑と牧草地に囲まれた185mの丘にある小さな村で、当時の人口は1500人足らず、現在でも3500人がひっそりと暮らしている。
ラヴェル自ら描いた幾何学模様の壁紙は黒、白と灰色を基調とし、161cmの小柄な体型に合わせた狭い廊下のつき当りに音楽室がある。母親の肖像画が見下ろすエラール社のグランドピアノは1909年製。タッチが軽く、クリスタルのように透明でやや硬質な響きは、音の立ち上がりが速いクリアな輪郭だ。食堂の家具の上には、ぜんまい仕掛けでさえずる小鳥や日本の版画、象牙の小箱等所狭しと並べられて〈子供と魔法〉の舞台さながら。サロンの棚は忍者屋敷のようなどんでん返しの戸になっていて、裏に隠し部屋がある。3匹のシャム猫と過ごした家の雰囲気はモンフォールへ移る前に書かれた〈マ・メール・ロワ〉の童話世界を髣髴とさせるし、椅子の背にラヴェルが描いたフルートを吹くギリシア風の少女からは〈ダフニスとクロエ〉のフルート・ソロが聞こえる。
1932年パリでタクシーに乗ったラヴェルは衝突事故に巻き込まれ、翌年後遺症とも思われる運動失調症と失語症に悩まされ始めた。1937年12月、パリのクリニック・ボワローに入院して萎縮した脳の手術を受ける。手術そのものは成功したと伝わるが、9日後の12月28日朝、62年間刻み続けたリズムに終止符が打たれた。
終の栖は、後年ラヴェル記念館となって公開され現在に至る。その管理人を1954年から70年まで務めたのは、家政婦としてプルーストの最期を看取ったセレスト・アルバレであった。1997年には修繕費用捻出のためのチャリティ・コンサートをラヴェル協会から要請されて足繁く通った。ラヴェルが息を引き取ったクリニックがあったボワロー通りは、私のアパルトマンから歩いて2分の距離。モンフォールから我が家に戻る時は、ラヴェル最後の道行きをいつも想い浮かべないではいられなかった。