チャイコフスキー:バレエ音楽「白鳥の湖」より
沿革
1875年、チャイコフスキーはモスクワのボリショイ劇場から新作バレエの音楽を依頼され、「白鳥の湖」を書き上げる。1877年の初演はオーケストラの練習が2回しかなかったことによる準備不足もあって失敗に終わったが、やがて一定の評価を得て1883年まで3回の振付改訂を伴って41回再演された。その後、1881年から実施された劇場改革の一環で、モスクワのバレエ団への経費が壊滅的に削減され、老朽化した衣装・舞台設備を新調することができなくなり打ち切られた。尚、当時の文化の中心であったサンクトペテルブルクでこの作品を改訂して上演する計画はチャイコフスキーの生前からあったが、1893年の彼の急逝により果たされなかった。
この作品に新たな息吹が与えられたのはチャイコフスキーの没直後、「眠れる森の美女」(1890年)、「くるみ割り人形」(1892年)で彼と組んで成功を収めていたマリインスキー劇場の振付家プティパが追悼演目として上演するよう提案したことに始まる。振付家イワノフの協力を得、チャイコフスキーの弟モデストが台本の一部を改訂、指揮者ドリゴが配曲変更・作曲者晩年のピアノ曲を編曲して追加するなどし、先ず第2幕のみを1894年に追悼上演、翌1895年全幕蘇演。ここに初めて真価が認められ、永遠の命が与えられた。今日に至るまで絶え間なく各国の舞台で上演されているが、その大半の基礎となっているのはこのプティパ=イワノフ版である(その他、原典譜を用いた版もある)。1900年には、全曲版から抜粋した演奏会用組曲も出版され、1901年に初演された。
あらすじ(1896年ユルゲンソーン刊スコアによる。※概ね蘇演版に沿うと思われる)
中世ドイツ、城の世継ぎジークフリート王子の成年式。村娘たちがワルツを踊る中、母である王妃に翌日の舞踏会で花嫁を選ぶよう命じられた王子は承諾し、皆はお祝いの踊りを繰り広げる。自由な独身時代への別れに気の乗らない王子は、夕空を飛ぶ白鳥の群を見て、親友達と気晴らしの狩に出かける。
深い森の湖畔に辿り着いた王子は、白鳥を見つけ、射ようとする。途端に白鳥は王冠を付けた娘の姿に変わり、「悪魔ロットバルトの魔法をかけられた王女オデットである自分は、仕える娘共々昼間は白鳥の姿にされている。誰とも愛の誓いを交わしたことのない若者が生涯愛し続けてくれるまでこの魔法は永遠に続き、誓いが破られれば白鳥達は永遠に人間の姿に戻れなくなってしまう。悪魔の破滅は、オデットへの愛のために誰かが自分を犠牲にするときだけやってくる。」と告げる。悪魔が現れ、二人の会話を聞いて姿を消す。二人はめくるめく一夜を過ごし、王子はオデットに告白して翌日の舞踏会に招くが、その時間にはオデットは白鳥の姿でおらねばならず、窓の外を飛ぶことしかできないと告げる。
翌日の舞踏会。各国から招かれた花嫁候補が踊っても意に介さない王子の前に、貴族に扮した悪魔がオデットに良く似せた娘オディールを従えて登場。騙された王子は、窓辺で必死に訴えるオデットに気づかず、オディールと永遠の愛を誓ってしまう。途端に悪魔はその正体を現して嘲笑、取り乱した王子は、人間の姿に戻ることがかなわなくなり絶望して入水しようと決意したオデットを追って森の湖畔へ向かい、許しを乞うて許される。すべての運命を受け入れたオデットと王子は相次いで命を絶ち、二人の愛によって悪魔も滅びる。オデットと王子は昇天し、天界で結ばれる。
楽曲解説
本日は、8曲を抜粋してお届けする。
導入曲
もの悲しいオーボエによる「白鳥の主題①」(譜例1)が特に印象的。バレエにライトモチーフが用いられた初めての場面と言われる。並々ならぬ関心を抱いていたワーグナーの影響であろう。そもそもこの主題は、ワーグナーのオペラ「ローエングリン」(1850年)で、白鳥の曳く小舟に乗って登場した騎士が「私の素性を問うてはならぬ」と歌う「禁断の動機」(譜例2)を、題材としている。白鳥に関わるバレエを書くにあたって、ワーグナー作品の中で最も好んだとされる「ローエングリン」を思い浮かべたのは必然だったのであろう。
第1曲 情景
王子の成年式にふさわしい分厚い全管弦楽による力強い旋律が奏され、バレエの幕開けとなる。中間部では村娘と若者達の朴訥としたミュゼット風田舎踊りがオーボエに現れ、再現部では賑やかな宴が始まる。
第2曲 ワルツ
弦楽器によるピッツィカートによる前奏に次いで、王子の求めで村娘達がワルツを踊り始める。次々と奏される豊饒な旋律に、感嘆させられる。中間部の優美なトリオを挟み、冒頭を再現して結ぶ。
第10曲 情景
悪魔が支配する湖の情景を現す、第2幕の導入曲である。「白鳥の湖」の旋律の中で、最も有名であろう「白鳥の主題②」(譜例3)がオーボエに現れる。この主題は、前述「禁断の動機」のもう1パターンの変形である。即ちチャイコフスキーは「ローエングリン」に着想を得て、2つの主題を創ったことになる。この主題はやがて増殖され、悪魔を暗示する3連符が現れる(譜例4)。
第13曲E パ・ダクシオンより
恋に落ちた王子はオデットに愛を告げ、二人は愛の踊りを踊る。木管とハープが二人を神秘的な世界に導いた後、ヴァイオリン独奏が甘美な旋律(譜例5)を歌い、続いて小刻みな木管の中で奔放な動きを繰り広げる。やがて主題はチェロ独奏に移り、ヴァイオリン独奏によるオブリガートとの絶妙なアンサンブルが、二人の熱烈な愛を象徴する。本日は、第5部(通称E)より、組曲版第4曲にも抜粋された部分を演奏する。この曲は、チャイコフスキーの初期のオペラ「ウンディーナ」(1869年)の「愛の二重唱」の流用でもある。
第20曲 ハンガリーの踊り(チャルダーシュ)
王妃主催の舞踏会では各国の舞踏団が踊る。ハンガリーの特色ある民族舞曲であるこの曲は、「チャルダーシュ」の形式に則り、テンポの遅い官能的な前半部分「ラッシャン」と、熱狂的で速い後半部分「フリシュカ」からなる。「酒場」を意味するハンガリー語「チャールダ」に由来するこの踊りは、19世紀には禁止令が出るほどヨーロッパ全土で大流行していた。
第21曲 スペインの踊り
スペインの舞踏団が踊る、カスタネットの響きが印象的な民族舞曲。「ボレロのテンポで」と指定がある。「ボレロ」は18世紀後半にスペインで始まった3拍子の踊り。
第29曲 情景・終曲
悲愴かつ雄大な旋律の中、心ならずも裏切ってしまった王子がオデットを追って湖岸に登場、ハープによるアルペジオで静まって、終曲への導入となる。チャイコフスキー第一作目のオペラ「地方長官」(1866年)の「愛の二重唱」が流用されている。「白鳥の主題②」がオーボエに現れ、「悪の半音階」の後、悲愴感に満ちて再び奏される。王子は王女に許しを乞うて許され、二人は悲しい運命を受け入れる。「悪の半音階」・「白鳥の動機②」・3連符による「悪魔の動機」が同時に奏され(譜例6)、二人は相次いで自害。金管により「白鳥の主題②」が熱情的に響き、死をも恐れぬ二人の愛が悪魔を滅ぼしたことを示す。弦楽器のトレモロとハープの幻想的な旋律の中で、昇天した二人は結ばれ、終幕となる。
調性配置
チャイコフスキーは、この作品を完成する頃には、交響曲3曲・弦楽四重奏曲3曲・ピアノ協奏曲第1番等を完成させており、作曲家としての円熟期にさしかかろうとしていた。その一端が、遠隔調と近親調の関係性をキャラクター間の関係に当てはめた調性配置の妙から見て取れる。この曲の登場人物と調性を結びつけた(Roland John Wileyの分析に依る)上で、五度圏に当てはめたものが、図1である。先ず、白鳥達(h-Moll)と王子(D-Dur)はセットになって同じ位置におり、その対極、即ち最も遠隔な調に、王子の不幸(As-Dur)と悪魔(f-Moll)がある。また、オデットの結婚の予感(Ges-Dur)の対極には悪魔(C-Dur)がいる。一方、オデット(E-Dur)、彼女の結婚の予感(fis-Moll)、白鳥達(h-Moll, A-Dur)、王子(D-Dur)は極めて近い位置におり、チャイコフスキーが調性関係を、音楽的表現の方法として意識的に用いていたことが見て取れる。尚、この方法は、作曲にあたり参考にしたとされる、彼が好んでいたバレエ「ジゼル」(1841年)において既に用いられていたもので、チャイコフスキーがこの分野の伝統に則って作曲を行ったということが分かる。
全曲版初演:1877年2月20日、ライジンガー振付、リャーボフ指揮、ボリショイ劇場による。主役オデット=オディールはカルパコワ。
組曲版初演:1901年9月1日、ウッド指揮、ロンドン・クイーンズ・オーケストラにより、ロンドン・クイーンズ・ホールにて。
楽器編成:ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、コルネット2、トランペット2、
トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、タンブリン、シンバル、カスタネット、タムタム、トライアングル、グロッケンシュピール、ハープ、弦五部
参考文献
『ミニチュアスコア チャイコフスキー バレエ組曲 白鳥の湖 作品20』(音楽之友社)
『TCHAIKOVSKY,S BALLETS』Roland John Wiley著(CLARENDON PRESS・OXFORD)
『チャイコフスキーの音符たち 池辺晋一郎の「新チャイコフスキー考」』池辺晋一郎著(音楽之友社)
『作曲家別名曲解説ライブラリー チャイコフスキー』(音楽之友社)
『作曲家 人と作品シリーズ チャイコフスキー』伊藤恵子著(音楽之友社)
『永遠の「白鳥の湖」チャイコフスキーとバレエ音楽』森田稔著(新書館)