サン=サーンス:交響曲第3番ハ短調「オルガン付き」
生い立ち
サン=サーンスは1835年、パリに生まれた。生後2か月で、内務省の役人を勤める父を亡くし、母と叔母に育てられた。ピアニストであった叔母シャルロットより3歳になる前からピアノの手ほどきを受け、みるみる音楽的な才能を開花させた。わずか3歳と5か月で作曲の真似事をするようになり、5歳になるころには小さめのソナタを見事に弾きこなしたという。そして7歳の頃には聴衆を魅了するほどの腕前となる。世間は彼を「モーツァルトに匹敵する神童」と呼んだ。
サン=サーンスの才能は音楽に限ったものではなかったそうだ。
3歳のころにはすでに読み書きができ、代数の問題を解いた。7歳になるころにはラテン語・ギリシア語を読みこなしていたという。その後サン=サーンスは、音楽家として名をはせたその裏で多くの才能を発揮した。戯曲や詩、小説を書き、天文学、自然科学、考古学、哲学、民俗学など幅広い分野の著書をいくつも発表している。
話を元に戻そう。
音楽家としてのサン=サーンスは1848年、13歳の時にパリのコンセルヴァトワールに学んだ。ここで、オルガンと出会う。
3年後の1851年にはオルガンコンクールで1等賞を受賞する。惜しくもローマ賞は逃すものの、当時活躍していたオルガニストが絶賛するほどの腕前だったという。そしてこの頃、ピアニストとしても頭角を現し、演奏旅行を頻繁に行なっていた。
パリのコンセルヴァトワールを卒業したあとも、サン=サーンスは音楽家として、また作曲家として活動を続けた。引き続きピアニスト・オルガニストとして大活躍し、ベルリオーズには「彼は何もかも心得ている。足りないものは未知なる経験だけだ」と言わしめ、リストからは「世界で一番偉大なオルガニスト」と賞賛された。演奏によって生活費を稼ぎながら、その蓄えで作曲に没頭していくことになる。
その後1871年、普仏戦争敗北後、パリ・コンセルヴァトワールのロマン・ビュシーヌ教授が、フランス国内の作曲家を奨励するための協会結成に向け広く呼びかける。これに呼応しサン=サーンスは、セザール・フランクとともに「国民音楽協会」を立ち上げ、その創立者として活躍した。当時、ドイツ古典派の名曲や軽いオペレッタが主流であったフランス音楽界に一石を投じ、フランス近代の器楽曲の名曲を生み出す基礎づくりに奔走した。
人生の転機
幼きサン=サーンスにピアノを教え、事細かに世話を焼いてきたシャルロットが亡くなったのは、国民音楽協会を立ち上げた翌年、彼が37歳の年だ。ほかの女性と接触することを拒むほど、母性的に支配していた叔母。その叔母が亡くなって、初めて息子と二人きりになれた母親は、ここぞとばかりに彼を溺愛し束縛したという。いわゆる彼の半生は、叔母と母によるマザーコンプレックスの人生だったと言われている。
ちなみにモーツァルトはファザーコンプレックス、メンデルスゾーンはシスターコンプレックスと言われ、天才と呼ばれた人生の裏側には、人知れず大きな壁があったことが伺える。
やがてサン=サーンスは、母親の息詰まる愛情には耐えられなくなる。1875年、40歳の彼は、突如19歳のマリ=ロール・トリュフォという女性と電撃結婚した。当然そのことに、世間はあっと驚いた。この当時にして、21もの歳の差婚である。
やがて夫婦には、アンドレとフランソワという、二人のかわいい息子が生まれた。幸せに暮らすサン=サーンス一家。見るからに、いよいよ母親の束縛からも解放されたかのような新婚生活だった。
しかしここで、サン=サーンスに悲劇が襲う。1878年、彼が43歳の年に、二人の息子たちを事故と病気で次々と失ってしまうのだ。つかみかけた人並みの幸せが無残にも崩れ、サン=サーンスはとことん失意に明け暮れた。
3年後、サン=サーンスは思いつきのように夫婦で夏の温泉地に出かける。しかしある朝、彼は妻を置き去りにして、突然ホテルから姿を消してしまう。後の手紙によると彼は、かつて溺愛してくれた母のもとへと帰ったという。子供という、鎹かすがいが外れた夫婦の愛情をつなぎとめるものは、もはや何もなかった。そんな彼を慰めるものは、かつての母性的な支配だったのだ。しかし、7年後にその母親も亡くなる。サン=サーンスは、いよいよ悲しみに明け暮れたという。
そんな中でも作曲活動は精力的にこなした。これらの功績が名声を高め、1892年、57歳の時にケンブリッジ大学から音楽博士の称号を贈られ、1913年、78歳にはフランスの最高の勲章である、大十字章グラン・クロワを贈呈された。
1921年12月16日、86歳のサン=サーンスは、取材のために訪れたアルジェリアで肺炎に倒れ、帰らぬ人となった。葬儀は、彼の多大なる功績をたたえて、フランス音楽家の中で唯一となる国葬で執り行われたという。
交響曲第3番
本日お送りする交響曲第3番は、1885年、妻と離別し母親のもとに身を置いた激動の時代に書き始められた作品である。混乱の人生にありながら、新しい何かを創造しようとどれほど曲づくりに執着したかは、内容の凄さからうかがい知れる。
丁度この年の夏、ロンドンのロイヤルフィルハーモニー協会が、次シーズン用に新しい曲に取り組みたいと、ドリーブ、マスネ、サン=サーンスに作曲を依頼した。その依頼を受けて書かれたものだ。提示された報酬は30ポンド。その年の冬から翌1886年の4月末にかけて作曲された。
初演は、完成から半月後の5月19日。ロンドンフィルハーモニーの演奏で行われ、まずまずの成功を見た。大成功を収めたのは、翌年1月の故郷パリでの初演だ。雑誌「ル・メネストレル」はこの演奏会について「ブラヴォが終わらないのではないかと思われるほど聴衆が熱狂した」と記している。この曲の成功によりサン=サーンスは「フランスのベートーヴェン」と称えられることとなった。
さて、普通の交響曲は4楽章で構成される。しかしこの交響曲第3番は、2楽章構成と珍しい形を持つ。従って本日も楽章間の休みは中間に一回だけである。ただし、音楽的には一つの楽章が前半と後半の2部に分かれており、1曲で合計4部構成になっている組み立てが交響曲の体を成す。
第1楽章の第1部は、アダージョの序奏とアレグロ・モデラートの主部で構成されている。この第1部に、のちの各部、各楽章の主題のほとんどが現れる。第2部はポーコ・アダージョ。オルガンの音色に導かれて美しいメロディが奏でられる。
第2楽章の第1部はスケルツォに相当する部分。劇的な性格を持つ主題がアレグロ・モデラートで刻み付けられる。そして第2部は有名なオルガンの強奏で幕を開け、主題をはなやかに昇華させていく。ピアノのアルペジオも鳥肌もので、かつて弾きこなしてきた鍵盤の競演は、まるで彼の人生を見るかのようだ。ラストの興奮極まったフェルマータの和音は、もう筆舌に尽くしがたい。
サン=サーンスは、番号のない2曲も含めて、合計5曲の交響曲を作曲した。そのうち4曲がごく若い時期に書かれたもので、本日演奏する第3交響曲だけが51歳という円熟を迎えたときの作品である。
彼自身、この作品に「私のすべてをつぎ込んだ」と話しているほどの入れ込みようだった。なるほどその後の人生で、もう交響曲を書くことはなかった。