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マーラー、ラヴェルそしてプルースト

矢崎 彦太郎


 マーラー(1860-1911)はパリと相性が悪かった。1900年、ヴィーン・フィルハーモニー初の外国旅行に同行して、第5回パリ万国博覧会コンサートの指揮を執ったが、事前の宣伝は殆ど行われず、数少ないポスターには、故意か偶然か、マーラーの名前が“Malheur”と印刷されていた(フランス語で“malheur”は不幸の意味)。シャトレ座で6月18日に開かれた第1回コンサートのプログラムには“Mahler”と正しく表記されていたが、企画全体が杜撰で、ヴィーンへ帰る旅費すら危ぶまれる始末。マーラーは金策に走り、ロチルドゥ(Rothschild)(注1)伯爵に泣きついて必要な財源をやっと確保したらしい。当然の帰結として、モーツァルトの交響曲第40番、ベートーヴェンの交響曲第5番等を組んだ演奏会の聴衆は少ない。会場をトロカデロ宮に移してベルリオーズの〈幻想〉をメインに据えた第2回、ベートーヴェンの〈英雄〉、シューベルトの〈未完成〉等を演奏した第3回と徐々に客の入りが増え、オーケストラは無事ヴィーンに戻れた。心労が嵩じたマーラーはオーストリア南部山岳地帯のケルンテン州へ逃げ帰り、第4交響曲の仕上げに取りかかる。今日から見れば思いも及ばない難行苦行の珍道中になったとはいえ、個人的にはパリのオーストリア大使館で、強力な政治家として名を馳せていたジョルジュ・クレマンソー(注2) の弟に、ヴィーンから嫁いだソフィーとベルタの姉妹を紹介される運にめぐりあった。ベルタは解剖学者のツッケルカンドル夫人としてヴィーンの芸術サロンを主宰し、このサロンでマーラーは19歳若いアルマ・マリア・シンドラー(1879-1964)と出会って1902年に結婚した。次にパリを訪れた1910年はコロンヌ管弦楽団と交響曲第2番のフランス初演に臨んだものの、第2楽章の途中でドビュッシー、デュカ、ピエルネといったパリ楽壇の重鎮が退席するという屈辱を味わった。翌1911年、ニューヨークで連鎖球菌に感染して、4月にヨーロッパへ戻る。パリで血清療法を試みるが不首尾に終わり、ヴィーンの病院に移送されて6日後の5月18日に帰らぬ人となった。


 ラヴェル(1875-1937)もヴィーンでは疎外感に苛まれた。〈ダフニスとクロエ〉の素晴らしい演奏に接したヴェーベルンは、指揮者のアンセルメに「木管楽器を何故4本も使うのだろうか。ベートーヴェンは2本ずつで充分力強い音を出せたのに」と冷たく嫌みを言った。ウインナ・ワルツへのオマージュとして書かれた〈ラ・ヴァルス〉は管弦楽版に先立ち1920年10月23日にヴィーン・コンツェルトハウス小ホールで、ラヴェル自身とカゼッラ(注3)による2台ピアノ版が初演された。この時ラヴェルは、未亡人になっていたアルマ・マーラーの許に滞在したが、彼女はラヴェルのことを「ナルシストで、背は低いが均整がとれている軟弱な美男子」と評した。1937年にラヴェルが亡くなった時には「ドビュッシーやストラヴィンスキーの方が個性が強く独創的だが、ラヴェルはポピュラーな巨匠となった。2つの太陽の間にある月のように」と述懐している。17年間で点数が多少上がったというべきであろう。


 マーラーはラヴェルより15歳年上であるが、ともに19世紀末の風潮の中を生きた。ヴィーン分離派(Sezession)やアール・ヌーヴォー真っ盛りのベル・エポック時代である。政治的には普仏戦争(1870-71)と第一次世界大戦(1914-18)の間で大きな争いは無かったが、フランスだけではなくヨーロッパの世論を二分したドレフュス事件(1894-1906)(注4) 等、爛熟した文化と不安定な世相は表裏一体であった。その雰囲気はマルセル・プルースト(1871-1922)が著した〈失われた時を求めて〉に克明に描かれている。文学だけでなく美術・音楽にも造詣が深かったプルーストは、作中に小説家のベルゴット、画家のエルスティール、作曲家のヴァントゥイユを登場させて芸術論を展開する。「もし言語の発明、言葉の形成、観念の分析がなかったら、音楽だけが魂のコミュニケーションを可能にする唯一の例となったに違いない(第5篇〈囚われの女〉)」と宣言した彼の著作でマーラーについて言及している箇所はないが、プルーストに昔の記憶を蘇えらせたマドレーヌの香りは、マーラーの軍楽隊と民謡の響きに相当し、子供時代を回顧する心情はラヴェルに〈マ・メール・ロワ〉や〈子供と魔法〉を書かせた。美しい表現の狭間に、ノスタルジックで淡い終末観が漂っている。それは彼等3人の作品が持つ自伝的傾向と時間意識という共通項に根ざしているからではないだろうか。尚、第7篇〈見出された時〉には、ラヴェルが「パレストリーナ(注5) のように美しいが、理解するのが難しい曲」と実名で紹介されている。


 ヴィーンは1972年にヨーロッパへ渡った私が最初に住んだ町だ。路面電車が走る傍らの広大な工事現場から砂埃が舞い、戦争で多くの成年男性が失われたので太ったオバさん達ばかり目立って20年はタイムスリップした上に、ヴィーン訛りドイツ語の悠長なリズムは時計の針もゆっくり進むように感じられて、正に“gemütlich”(注6) という言葉でしか形容できない博物館的な佇まい。美術史美術館で初めてフェルメールと出会って感激し、高等音楽院の学生は、かつてマーラーが監督だった国立歌劇場の立見席に1シリング(約13円)で入れたので毎日通った。さすがに〈パルジファル〉の後では膝が笑って階段を下りるのに苦労したが。シェーンベルクやベルク、ヴェーベルンがとてもロマンティックに響くのを聴いて、〈トリスタンとイゾルデ〉との結びつきを実感したのもヴィーンだった。今回のプログラムは、ヨーロッパに於ける私の原点と35年以上住んでいるパリを総括している。芸術作品こそ「失われた時」を見出す唯一の手段なのだから。


注1:ロスチャイルド家。ヨーロッパのユダヤ系財閥、貴族。「ロスチャイルド」は英語読み。フランス語読みは「ロチルドゥ」、ドイツ語読みは「ロートシルト」。
注2:ジョルジュ・クレマンソー(1841-1929)後のフランス首相。第一次世界大戦終了時にヴェルサイユ条約に調印した。
注3:アルフレード・カゼッラ(1883-1947)イタリアの作曲家・ピアニスト・音楽教師。
注4:1894年にフランスで起きた、当時フランス陸軍参謀本部勤務の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件。
注5:ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(1525年?-1594)イタリア・ルネサンス後期の音楽家で、カトリックの宗教曲を多く残し「教会音楽の父」ともいわれる。
注6:ドイツ語。心地よい、心にかなったという意味。

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