ニコライ:歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲
ペイジ夫人:女房は陽気で、身持ちがいい。
MISTRESS PAGE:Wives may be merry and yet honest too.
のっけから問題発言と現代では受け取られてしまいかねないが、この歌劇の原作となったウィリアム・シェークスピアの戯曲「ウィンザーの陽気な女房たち」の台詞でタイトルにある「陽気」を表した言葉である。発するのは、太っちょの騎士フォルスタッフ(ファルスタッフ)からうぬぼれもはなはだしく惚れられていると大いなる勘違いをされたペイジ夫人(ライヒ夫人)で、当時の中産階級の典型として描かれている。中産階級とは言え、この台詞はこの戯曲では数少ない韻文で書かれており、ペイジ夫人の社会的身分が決して低くないことを示している。
韻文とは、日本語で言えば七五調などのように一定の決まりを持って発音される文章で、英語の詩は基本的に必ず韻文で書かれなければいけない。上手に朗読すれば、まるで音楽のように心地よく響く。
さて話を音楽に戻そう。
本日、ウィーンにちなんだ演奏会の幕開けに演奏されるのは、ドイツ生まれでウィーンで活躍したオットー・ニコライの唯一と言っていい人気作品、歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」の序曲である。カール・オットー・エーレンフリート・ニコライは1810年6月9日にプロイセン王国のケーニヒスベルクに生まれた。ケーニヒスベルクは現在ロシアに属し、カリーニングラードと呼ばれている北海沿岸の都市である。ケーニヒスベルクと言えば、一筆書き問題で有名なあの都市である。
―えっ、知らないって。曲とは関係ないので興味のある向きは帰ってから調べてみてほしい。
音楽家であった父の下で幼少から天与の才を見せたが、父親の愛情を感じられず、出奔。ベルリンで教会音楽を学ぶ。メンデルスゾーンがバッハのマタイ受難曲を復活演奏したジングアカデミーで、1831年3月にイエスのパートを歌った。
1833年には交響曲第1番を初演するなど、成功を収めた後、1840年代にウィーンへ活動の場を移し、ケルントナートーア劇場の楽長に就任する。1842年には現在のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の前身となるフィルハーモニー・アカデミーの最初の演奏会を開いている。その後、メンデルスゾーンの退任により空席となったベルリンの宮廷礼拝堂の楽長に推挙されるなど活躍したが、「ウィンザーの陽気な女房たち」の初演から2月後にこの世を去った。奇しくも宮廷礼拝堂の楽長に就任する予定の2日前、プロイセン王立芸術アカデミー会員に選ばれたその日であった。
シェークスピアの戯曲「ウィンザーの陽気な女房たち」は、かの偉大な劇作家の作品としては評価が低いが、この戯曲を題材にしているものは多く、有名なヴェルディの「ファルスタッフ」をはじめとして、サリエリも同じタイトルのオペラ・ブッファ(18世紀に生まれた喜劇的なオペラ)を、イギリスのヴォーン・ウィリアムズは歌劇「恋するサー・ジョン」を作曲している。ニコライとヴェルディについては面白い逸話があり、ニコライ作曲の歌劇Ilproscritto(追放されし者)は最初ヴェルディに依頼が来たが、断られてニコライに、反対に「ナブッコ」はニコライが断ったためにヴェルディに持ち込まれた。
「ウィンザーの陽気な女房たち」は、アリアや合唱曲の間を台詞でつなぐジングシュピール(ドイツ語による歌芝居や大衆演劇の一形式)として作られている。序曲は主に第3幕の素材で構成され、冒頭の静謐な音楽はウィンザーの森への場面転換で歌われる第12番「月の出」の合唱、主要部にはいると第13番の「三重唱」(フルート夫人、ライヒ夫人とファルスタッフ)や第14番の「妖精のバレエ」、ハンガリー風の音楽は第16番の「全員の踊りと合唱」からと様々な魅力的な旋律が次々に演奏され、いかにもウィーンの喜歌劇を思わせる上品で流麗な音楽が紡がれる。
初演:序曲と歌劇の抜粋は1847年4月1日ウィーンにて。全曲は1849年3月9日ベルリンの王立歌劇場(現在の国立歌劇場)にて。
楽器編成:フルート2(2番はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、シンバル付き大太鼓、弦五部