エルガー:交響曲第2番 変ホ長調
音楽愛好家にとってロンドンの夏の風物詩と言えば伝統的な音楽行事であるPromsが思い浮かぶでしょう。Promsはクラシック音楽を普段聴きに来ない人でも、チケットが安くて、より親しみやすい雰囲気であれば魅力を感じてくれるのではないかと、ロバート・ニューマンが1895年に企画した音楽祭が現在に引継がれているものです。
Promsの醍醐味はイギリス内外から集まる実力派音楽家達の演奏に夏の短い間に集中して触れられ、それもチケットが買い求めやすい価格であることです。そして、Promsで最も有名なのが最終日の“Last Night of the Proms”です。お祭り騒ぎの終焉にふさわしいプログラム構成(簡単に言うとイギリス人受けする曲が中心)で会場は興奮状態に包まれます。ドレスコードも男性がタキシードと女性がイヴニングドレスと華やかな会場となりますが、演奏会自体はとてもフランクで、オーケストラと一緒に歌ったり、会場で国旗を振り回したり、紙飛行機や風船を飛ばしたり、クラッカーを鳴らしたりと何でもありです。そして、このLast Night of the Promsに必ず演奏される曲がエルガーの「威風堂々第1番」です。この曲は初演の時に3回もアンコール演奏をしたほどイギリス国民の心を魅了している曲で、「第二の国歌」と言われているほどです。国王エドワード7世からも賞賛され、国王は中間部の旋律に歌詞をつけたらどうかとアドヴァイスを与えられたことから、この曲に「Land of Hope and Glory(希望と栄光の国)」の歌詞がつけられLast night of the Promsでも大合唱されます。現在ではProms in the Park と言ってハイドパークやイギリス各地の公園でProms最終日に野外コンサートを行ない、中継を使って本拠地ロイヤル・ アルバートホールと同時刻にこの曲を大合唱しています。
このようにイギリス国民に愛されているエルガーは、1857年に日本でお馴染みウスターソースの発祥地であるウスターで生まれています。父親が楽器店を経営しつつ教会のオルガニストでもあり、その影響もあってエルガーは小さいころから音楽に目覚め幼少の頃から作曲も手掛けています。しかし、経済的な事情で音楽専門教育を受ける機会に恵まれず、父親の楽器店で経理を手伝いながら独学で音楽を勉強していました。若い頃に仲間とオーケストラを設立し、そこではファゴットを吹いていましたが、やがてヴァイオリン修行をしにロンドンへ行き、その後、ウスターへ戻りヴァイオリン・ピアノ教師として収入を得るようになりました。
1986年、エルガー29歳の時にその後の人生に深く関わる人に出会います。エルガーのピアノ教室にキャロライン・アリス・ロバーツが入門してきたのです。この女性こそエルガーの才能を最後まで信じ献身的に支え続ける妻となった人でした。1888年に二人は婚約し、その記念としてエルガーは「愛の挨拶」を作曲しアリスに捧げています。この「愛の挨拶」は今日も名曲として知られていますが、この曲で大金は手に入らなかったようです。というのも、この楽譜は買取りだったので、エルガーは出版元のショット社から5ポンドの報酬を受けたのみで大儲けしたのはショット社であったとのことです。
エルガーの野望は一流の作曲家として世に知られることでしたが、なかなか作品が売れず苦しい生活が続いていました。ようやくエルガーが作曲家として知られるようになったのは実に42歳の時、1899年に作曲した「エニグマ変奏曲」の大成功によります。その後1901年に作曲した「威風堂々第1番」が前述の通りイギリス人の心を捉え、気付くと世界的な有名作曲家となっており、1904年には王室からナイト爵位を授かるまでになりました。そして1908年に「交響曲第1番」を発表すると、この曲は瞬く間に世界へ知られるようになりイギリスを代表する交響曲となりました。
この「交響曲第1番」よりも前に着手されていた交響曲があり、それはスーダンで戦死した名将ゴードン将軍の英雄伝を基にした「ゴードン交響曲」です。この曲は結局陽の目を見ることはなかったのですが、エルガーはこの曲を流用して「交響曲第2番」を「交響曲第1番」の3年後に書き上げました。
元々はゴードン将軍へ捧げる曲だったはずの「交響曲第2番」は一転して敬愛していた英国王エドワード7世に捧げられています。英雄交響曲でお馴染みのベートーヴェン交響曲第3番も元々はナポレオンに捧げようとしましたが、ナポレオンが皇帝に即位すると撤回しています。また二つの曲とも変ホ長調であること、第2楽章が葬送行進曲であることなど構成が似ていることから、この「交響曲第2番」はエルガーの「英雄交響曲」とも呼ばれています。
この曲は完成前に国王が崩御されたため、国王の追悼に捧げられることになりました。国王は音楽の偉大なパトロンでありエルガーの才能を愛しており、エルガーをバッキンガム宮殿の晩餐会にも招いていました。この曲は国王の追悼に捧げられてはいますが、曲自体は追悼のための挽歌ではなく、エドワード7世の平和で繁栄した栄光の時代の叙事詩、回顧といった性格の曲となっています。一方で、この曲はエルガー自身の生涯を表している曲でもあります。それはエルガーが友人に宛てた手紙にこのように書いてあることで分かります。“私は協奏曲、交響曲第2番、そしてオデ(合唱曲「ミュージック・メイカーズ」の歌詞に採られた、アーサー・オショーネシーの詩「Ode」を指す)に自分の魂を書き出した。そして知っているよね、この三つの作品に自分自身を表したことを”
1911年5月24日に行われた「交響曲第2番」の初演は残念ながら失敗に終わっています。演奏が終わった瞬間、観客は呆気にとられたかのように静かで拍手もほとんど起こらなかったそうです。これに対してエルガーは「一体どうしたのだ。皆詰め物をした豚の置物みたいだ。」と感想を述べています。しかしながら、初演から9年後の1920年にエイドリアン・ボールドの指揮によって行われた演奏は大成功を収め、この作品の真の価値が認められました。
今日でもこの「交響曲第2番」はエルガーの最高傑作の一つとして重要なレパートリーに定着しています。
1920年のエイドリアン・ボールド指揮によって演奏された「交響曲第2番」は妻アリスにとってこの世で聴いた最後のコンサートとなってしまいます。数年前から体調が思わしくなかったアリスは、このコンサートの数週間後にエルガーの腕に抱かれて静かに息を引き取りました。アリスを失ったエルガーは創作意欲に陰りが見え始め、その後は特に目立った作品は残していません。1932年にBBCはエルガーに「交響曲第3番」の作曲を委嘱しますが、体調が思わしくなく筆は進みませんでした。そして1933年に体調が更に悪化し入院しますが、その時に大腸癌が既に手遅れの状態であることが判明します。「交響曲第3番」は未完のまま1934年2月23日、エルガーは76歳の生涯を閉じました。
本日演奏する「交響曲第2番」の自筆スコアには謎かけ好きなエルガーが三つの書き込みをしています。一つはスコアの冒頭に書き込んである英国ロマン派の詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(1792-1822)の詩の一節です。
Rarely, rarely comest thou, Spirit of Delight!
(めったに、めったに汝は来ない、歓びの精霊よ!)
この書き込みの意味については今日なお論議が続いているのですが、この詩の最後の詩句を調べたところ、厚い友情で結ばれていた亡き国王への想いが表れているのではないかと思われてならない詩句でした。
Spirit, I love thee-Thou art love and life! O come! Make once more my heart thy home!
(精霊よ、汝を愛している! 汝は愛であり、生命だ!戻って来て、もう一度この胸に宿っておくれ!)
二つ目の書き込みはスコアの最後にあるVenice/Tintagelです。いずれも作曲当時エルガー夫妻が訪れた地名で、この曲を作曲する上で何らかの影響を受けた場所と考えられます。ヴェニス(ヴェネツィア)は、同地のサン・マルコ大聖堂の礼拝堂が第二楽章を作曲する際のイメージとしてあったと言われています。またティンタジェルはイギリス最西部コーンウォール地方の街ですが、エルガーが敬愛していた女性、アリス・ステュワート・ワートリー(エルガーはウィンドフラワーと呼んでおり、妻アリスも公認していた女性)が保養していた地です。そのアリスにエルガー夫妻は会いに行っており、エルガーが「この曲はあなたの交響曲なのです。」と手紙にも書くほどアリスの影響を受けたことをスコアに書き残したのではないかと思われます。
そして三つ目はHans himself!の書き込みです。これはエルガーのよき友であり交響曲第1番の初演を手掛けてくれた指揮者ハンス・リヒター(1843-1916)のことです。この曲の初演もリヒターに指揮して貰いたくて書込みをしたのだと思われます。
楽曲は4楽章形式で第1楽章はアレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・ノビルメンテ。「ノビルメンテ」はエルガーが好んで使った発想標語ですが、上品に、気高くと言う意味です。「威風堂々第1番」のトリオ同様、高貴な気品に溢れエルガーの作風を感じられるものになっています。第2楽章はラルゲット、「交響曲第1番」と異なり緩徐楽章となっています(交響曲第1番は第3楽章が緩徐楽章)。葬送行進曲のリズムを持つこの楽章は、エドワード7世が崩御した後に作曲されたとも言われていますが、否定的な意見が多いです。第3楽章はロンド─プレスト。曲の途中に第1楽章のチェロ主題が帰ってくる面白い構成になっています。第4楽章はモデラート・エ・マエストーソ。エルガーらしい荘厳な主題で始まりますが、終わりはエレジー風のコーダで第1楽章の冒頭の主題と第4楽章の冒頭の主題とが回想されると曲は次第に弱まり静寂な終わりを迎えます。
初演:1911年5月24日 ロンドン音楽祭にて
エルガー自身の指揮、クィーンズホール管弦楽団により演奏
楽器編成:フルート3(3番はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、Esクラリネット、バスクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバル、タンブリン、ハープ2、弦五部
参考文献
『エドワード・エルガー 希望と栄光の国』 水越健一著(武田書店)
『最新名曲解説全集2交響曲II』(音楽之友社)