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座談会 新響のルーツを探る

新交響楽団は2016年に創立60周年を迎えました。今回は新響OBとベテラン団員を囲んで、人間でいえば還暦を迎えた今だから話せることや、音楽監督・芥川也寸志の思い出など、大いに語っていただきました。


出席者  戸田昌廣(トロンボーンOB)、都河和彦(ヴァイオリンOB)、秋山初瀬(ヴァイオリン)、新山克三(チェロ)、桜井哲雄(オーボエ、写真撮影)、大原久子(運営委員長、ホルン)、土田恭四郎(団長、テューバ)


■今だから語る東京労音からの独立事件


─ 新響の歴史について順を追って伺いたいと思います。まずは60年代の東京労音からの独立について
お聞かせください。1956年に芥川也寸志が東京労音新交響楽団を設立し、1966年に東京労音から独立、
現在の新交響楽団となったわけですが。


戸田 この事件が新響の将来を決定づけ、今日までその精神が続いていると思います。ご存じのとおり創立当時の新響は東京労音(以下労音)に所属していました。まず時代背景から申し上げますと、当時のソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)はスターリンからフルシチョフの時代になり、スターリン批判を行って平和共存へと路線変更をしたんです。それが原因で平和共存路線を受け入れられない中国とソ連が喧嘩をはじめました。当時の中国はソ連のことを「修正主義」と呼び、ソ連は中国共産党のことを「教条主義」と呼んで、互いに非難し合っていました。一方日本の共産党は中国寄りで、社会党はソ連寄りでした。労音は会員制を基本に運営される音楽鑑賞団体で、その代表的な音楽活動はうたごえ運動でした。労音の中では共産党が勢力を握っていたので、新響はまさに共産党の文化サークルだったのです。でも当時の我々はそういった事情をよく理解していませんでした。私も新響に入る前に労音の会員になっていたんですよ。だってたった1000円でいろいろな演奏家の演奏が聴けたのですから。その後、芥川先生が共産党ではない方向へと動き出しはじめたのです。上野の東京文化会館に練習場が移ってからすぐの頃、芥川先生は長期間アメリカへミュージカルの勉強をしに行き、「南太平洋」や「回転木馬」などの楽譜を持ち帰って来ました。帰国後に労音の事務局へ行ったら「なんだ、アメリカかぶれして」と、とても批判的な言葉を聞き、えっ、と驚きました。労音の中ではだんだんと芥川也寸志が邪魔になってきて、何とか彼を労音から追い出す手はないかと思い始めたようでした。当時芥川先生は「労音との対立は団員の問題ではない、政治的な問題だ」としきりに言っていました。でも私たちには政治の問題と言われてもよく分からなかった。まだ若造だったし、勉強してもさっぱり理解出来なかった。
大原 大学には必ずそういう組織がありましたよね。
新山 だから今の日本共産党とは全然違う、まったく別物。議会政治とか認めないんだからね。
戸田 私は労音の会員になっていたけれど、組織の中にいても分からなかった。最初に違和感を抱いたのは、ベートーヴェンの第9を東京労音合唱団と一緒に演奏した時かな。その時にまったくピントはずれなことを言ってきたのです。たとえば「芥川也寸志は自分のテンポで振っているけど、こちらは労働者のアマチュアだからテンポなどは話し合って決めてもらいたい」とか。オーケストラではそんなことは考えられないよね。
新山 話し合って決めることではないよね。
戸田 ああ、これはかなりおかしい、不思議だなと。
新山 それから少人数でアンサンブルを組んで、工場にオルグに行けって言われてね。工場に行って労働者の前でロシア民謡などを演奏したりして。
戸田 要するに文化工作隊なんですよね。共産党の宣伝をするために中国でもやっているでしょう。60年安保闘争の前後はそういう時代だったところに新響がいて、芥川也寸志という邪魔者が出てきて、どうしたら潰せるかということになってしまった。それでいろいろ考えた結果、団員は芥川先生についていくということではなくて、労音のやっていることは、ちょっと変だよね、肌に合わないねと。
新山 もう嫌になっちゃった。労音の上層部からの圧力が。工場行けとか、中国の曲をやれとか。
戸田 そこで僕たちは労音相手に2回、3回と大規模な対話集会をやったんです。当時団員は250人いました。第1オーケストラ、第2オーケストラ、第3オーケストラと吹奏楽、4つの団体に分かれていて250人。
大原 どうやって団員が集まっていったのでしょ うか。
新山 やっぱり労音オーケストラということが大きかったね。
戸田 労音を通して募集したのに加えて、朝日新聞に募集広告3行記事でポンと出したの。そうしたら労音を知らない人も、上野の東京文化会館に集まってきたわけ。
新山 芥川さんも最初の頃は「誰でもいいから皆で集まって一緒にやりましょう」と言っていたよね。
戸田 ここが芥川先生の凄いところなのですが、始まって4、5年くらいは皆で一緒にやっていたんです。例えば昨日フルートを始めた人も、ずっとやってる人も同じところでやるわけですよ。そうすると上手な人が嫌になって辞めてしまい、オケがまったく上達しなくなっちゃった。そこで芥川先生はダーウィンの進化論を持ち出して、当時の労音の役員を説得しはじめたのです。今では入団オーディションなんて当たり前でしょう。当時は団員を上下に分けるなんてとんでもない事だったのです。今の新響は分奏やパート練習をしていますよね。これだって考えられないことでした。


─ 分かれて練習するのもだめだったのですか。


戸田 オーケストラというのは全員でやるからオーケストラだって。信じられないでしょう。そういう時代だったんですよ。
大原 でもだんだんと欲が出てきたんですね。
新山 そう、上達してくるにつれて欲が出てきた。
大原 団員を4つに分けたのは芥川さんでしょうか。
戸田 そうです。最初は2つに分かれていました。そうしたら各々の実力に合うところが出来て、さらに増えて3つのオーケストラになりました。
大原 分けたら逆に団員が増えていったのですね。
戸田 もちろん。あっという間に増えちゃった。アメーバが増えるように(笑)。そして皆が労音とは合わないね、と思い始めてきました。芥川先生の言ったことはこういうことだったのか、と徐々に分かるようになってきたのです。じゃあ我々はどうするか。労音をとるか、独立して自力でやっていくか。その結果、自分から飛び出すのはやめよう、ぎりぎりまで待とうということになりました。結果的に1966年3月に追い出されるという形で独立したのです。


─ 新響としてはどのようにして意思決定したのでしょうか。


新山 それこそ今でもやっている総会で決めたんだよ。
戸田 総会の日は第3オーケストラの練習として東京文化会館をとってあったところへ全員集合しました。臨時総会をやるからと言って集まってもらったのです。夜の6時か6時半頃に行ったら、マスコミがいてね。マスコミが大勢押しかけて来たんですよ。「すごい、何だこれは」と驚きました。来なかったのは毎日新聞社くらいでしたか。そこで大きな事件として扱われた結果、労音というのはこういう団体だったのかと世間にばれてしまったのです。それから徐々に労音の会員数が減っていき、経団連と商工会議所が作った東京音協(東京音楽文化協会)などの新たな団体が出来たりしました。


─ でも、そのままなんとなく労音についていったら、お金は出してくれるし、楽ではあったと思うんですよ。


新山 確かに今から思えば楽だったよね。
戸田 組織としてはよく出来ていたと思いますよ。


─ それでも、どうしても独立したかったのですよね。
戸田 それはね、やっぱりみんな音楽好きだったということかな。独立した当時はお金も何もない。まずはティンパニからだと、芥川先生が20万円をぽんとポケットマネーから出してくれました。だって楽譜から楽器から、何から何まで全部労音の物だったから。でも何だかんだ言っても4つの団体がぎりぎりの状態とはいえ活動していったのだから、その時の選択は正しかった、間違ってはいなかったと思います。


■ソ連演奏旅行 ~鉄のカーテンの向こう側へ~ 


─ 独立した翌年の1967年にソ連へ演奏旅行に行かれたんですよね。


戸田 芥川先生と新響が労音から独立したことによって、うたごえ運動や共産党などからは完全に縁が切れたんですよ。ちょうどその頃、日本はソ連と文化交流を始めていました。まだモスクワへの直行便がない時代です。そして芥川先生が日ソ青年友情委員会の日本側の会長をやっていた縁で、ソ連へ行けることになったのです。
秋山 全ソ青年団体委員会からの招待ということだったので、ソ連に着いてからの諸費用はすべてソ連側が負担してくれました。その上にお小遣いとして1人につき40ルーブルほど頂けたんです。ナホトカ往復の船代のみ団員の個人負担でした。
戸田 負担額は6万円くらいでしたか。
新山 当時の初任給が3万円から4万円の時代だから高いよね。
秋山 まず船でナホトカに着いて、すぐにシベリア鉄道でハバロフスクへ行きました。ハバロフスクで演奏して、イルクーツクでも演奏して。バイカル湖観光の後、イルクーツクから飛行機でモスクワへ移動したのです。当時はプロペラ機だったんですよ。モスクワで何回か演奏した後、レニングラード(現サンクトペテルブルク)へ行ってそこでも演奏しました。レニングラードではレニングラード・フィル(現サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団)を聴くことが出来たんです。
戸田 私が凄いと思うのは、演奏旅行の1967年はソヴィエト連邦革命50周年の年でブレジネフが書記長、それこそソ連が一番勢いのあった時期に行ったということです。レニングラードに着いた日の午前中は記者会見で、夜は市内観光の予定でした。記者会見の新響サイドは芥川先生、副団長の仙名さん(副指揮者兼ファゴットOB)と私の3人でしたが、会見が終了した後に「今日はレニングラード・フィルのシーズン初日だ」と耳にしたんです。「指揮者は誰」という話になって、ムラヴィンスキーの指揮でショスタコーヴィチの交響曲第5番と第6番をやると。「先生、夜の観光はなしにしましょうよ」と盛んに言ったら、ソ連側が調べてくれたのです。でもあいにく満席でした。そうしたら凄いよ、特別に舞台の両サイドに椅子を並べて席を作ってくれたんです。60名のメンバー全員がそこで聴くことができました。ソヴィエト共産党の力には驚きましたね。とにかく大名旅行でした。
秋山 渡航の前に、芥川さんが団員の勤め先宛てに「訪ソ参加要請書」を出してくれましたよね。
土田 当時の会社だとOKを出さないところもありそうですね。
戸田 旧富士銀行の行員が2人いたけれど、1人は行けなかった。
桜井 あと新響も事務的で、パート内の定員を超えると行けなかったりした。都河さんは行けなかったよね。
戸田 パスポートとかビザの作成とか凄く大変なのよ。今よりもずっと大変だった。


─ ソ連が鉄のカーテンと言われていた頃ですよね。


桜井 説明会の時に石川嘉一さん(チェロOB)が 「ソ連に行ったら2度とアメリカに入国できないって聞いたんですけど、本当ですか」と真剣に質問していたよね。
戸田 渡航履歴があるだけでアカのレッテルを貼られた。
新山 その頃中国に1回行ったことがあるけど、パスポートに中国のスタンプが押してあるだけでアメリカへは行けなかったね。パスポートを取り直さないとダメだった。


■画期的だった日本の交響作品展


─ 70年代以降の話に移ろうと思います。1975年にストラヴィンスキー三部作の一挙上演、翌年1976年
が創立20周年で、その後10年に及ぶ日本の交響作品展がスタートします。


戸田 当時の新響幹事は指揮者、代表、運営委員長、技術委員長と事務局長の5人でした。私が代表、太田さん(チェロOB)が事務局長で、都河さんが技術委員長でコンサートマスター、運営委員長が故橋谷さん(コントラバスOB)だったところへ、芥川先生が「来年の20周年の時には日本の作品やろうよ」と言ってきた。私たち幹事は「よし、それでいきましょう」と盛り上がったのですが、団員にポロっと話したら猛反対にあっちゃった。そんな訳の分からない代物は嫌だ、やりたくないってね。そんなものを演奏するためにこのオケに入ったんじゃない、ブラームスやベートーヴェンがやりたいんだ、とか。会場も上野の文化会館を2回分しか取ってなかった。でも理事会では「やっぱりやろう、団員を口説こう」と。それで作戦を組んで、オルグをしたんです。


─ またオルグですね(笑)。


戸田 楽器別にやったら偏ってしまうので、居住地別にやりました。電車の路線ごとに集まったけれど、なかなか上手くいかなくてね。でもこの流れが変わったこととして印象深いのは、鹿島の合宿でのミーティングの時にアメリカ大使館勤務のマーサ・デヴィット(チェロOB)が言った言葉です。「私は世界中あちこちへ行くけれども、日本にいる時は日本の曲をやりたい。ベートーヴェンやブラームスはどこへ行っても演奏できるけれども、日本の作品を日本で演奏できたら最高です」と発言したの。そうしたら皆が「それ、いいね」と気持ちが傾いていったんですね。こうして日本の交響作品展が実現し、その後10年間シリーズ化しました。当時はプロオケでも邦人作品をほとんど演奏しませんでした。
土田 電車の吊り広告でこの時の新響のポスターを見たことは、今でも覚えています。まだ学生時代の頃でしたが。
大原 「日本人は日本人の作曲家に冷たくはないか」というようなキャッチフレーズでしたよね。


─ プロオケでさえ取り上げなかった邦人作品ですから、もちろん参考音源などはなかったわけですよね。どうやって曲を作り上げていったのでしょうか。


戸田 それは芥川先生が全部やってくれたんだよ。こっちは全然分からないんだから(笑)。
新山 例えば松村禎三の「前奏曲」とか、まったく分からないわけよ。チェロのパート譜しか見てないわけだから、他パートが何をやっているのかさっぱり分からないんだよね。それでも芥川先生と一生懸命、時間をかけて練習を重ねていったら、松村禎三さんが演奏会本番に来て、「私はこういう曲を作ろうと思っていた」と言ってくれたんだよね。


─ まさに作曲家が思っていた通りの演奏だったということですね。当時はどんな練習をしていたのでしょうか。今はまず曲を最初から最後まで通すところから始めますが。


新山 当時は通らないわけよ。まず通らない。
戸田 だから指揮者に言われたとおりにやるしか ない。


─ 日本の交響作品展が評価されて、1977年に鳥井音楽賞(現サントリー音楽賞)を受賞したわけですが。


都河 鳥井音楽賞候補として決選に新響が残った時、芥川先生は審査委員でした。だから「私は当事者ですから席を外します」と言われて、投票には加わらなかったんだよね。
桜井 席を外すことによって、逆にプレッシャーをかけたのかもよ(笑)


─ 芥川先生ご自身は自分の曲をあまり演奏しませんでしたよね。


都河 個展は1986年の創立30周年の時が初めてです。この「芥川也寸志交響作品展」が交響作品展シ
リーズの最後でした。
土田 そうですね、あれが交響作品展の10回目です。10年目では是非とも先生の個展やりましょうという
ことになったのですが、先生はずっと固辞されていました。でも創立30周年だし、シリーズ最後だからということで、渋々引き受けてくれたんです。
戸田 そう、我々と「絃楽のための三楽章」をやった時も渋々だったよ。自分の作品を新響の演奏会でやるのを遠慮していたのかな。あと師匠の伊福部さんをはじめ、他の作曲家の方が優先だと思っていたのかも。
秋山 自分の作品をやりたいがために新響を振っている、と思われるのが嫌だったのかもしれませんね。
戸田 芥川さんの美学だよね。
大原 30周年の時は誰が説得したんですか。
土田 その時の委員会のメンバーだね。理事長が松木さん(ヴァイオリンOB)、運営委員長が藤井章太郎さん(フルート)、技術委員長でコンサートマスターが故白木さん、インスペクターが柳澤さん(ヴィオラ)。
大原 その当時は都河さんもコンサートマスターでしたよね。
都河 そうでしたが、私自身が説得に行った記憶はないなぁ。


■交響曲第1番、そしてこれから


─ 今回は交響曲第1番を取り上げているのですが、ちょっとショスタコーヴィチやプロコフィエフに似
たところがでてきますよね。


都河 とにかく先生はソ連の作曲家が好きでし たね。
戸田 新響を作る前の1954年に、まだ国交のないソ連に単身ウィーン経由で密入国したくらいだから。
新山 その時にショスタコーヴィチにも会っているんだよ。
戸田 一緒に撮った写真があるよね。
大原 演奏していると「本当にショスタコが大好きなんだろうなぁ」と思います。
土田 ショスタコ、プロコ、そして時々伊福部ね。
新山 この曲の第1楽章を弾いていると涙が出そうになる、本当に悲しくなるんです。青山斎場での先
生のお葬式で第1楽章が流れてたんだよね。
土田 流れてましたね。しかも新響の演奏だった。
新山 そう、新響の演奏。
土田 というか当時は音源がそれしかなかったから。


─ 最後に、現在の新響に対して思うところがあれば伺いたいのですが。


戸田 まぁよくやるよね、という感じかな。それに尽きるよ。昔から「新響の常識は、世の中の非常識」と言われていたけれど、今でもそういうところはありますね。
都河 でも最近の新響はすごく上手いんだけど、なんかパワーがないというか、爆発力がないというか。
新山 芥川さんはよく「新響は下手なプロのようにはならないでくれ」と言っていたね。技術ばかり求めて、熱のない演奏はしちゃいけないよって。
都河 今はちょっとそういう感じがするよね。
大原 音程とか、フレーズの縦の線を合わせるのは手段であって目的ではない、と私はいつも言っていますし、もっと浸透させたいと思っています。でもその両立がなかなか難しくて。新響は真面目な団体なので、音程や縦の線を合わせることも目的の1つなんですよ。
新山 70年代の新響はとにかく下手くそだったけれども、熱のある演奏をやってたよ。あと新響は音がうるさいってよく言われていた。
土田 音がうるさいというのは、雑音が大きいという事でもあった。新響はガチャガチャ弾く、とプロの先生方からよく指摘されていたよね。
戸田 私は娘や孫たちが海外にいるから向こうで演奏会を聴く事が多いのですが、ヨーロッパやアメリ
カのオケは決してうるさくないんです。日本の国民性かもしれませんが、プロオケを含めた日本のオケは、弦楽器の弓に圧力がかかりすぎて大きい音じゃなくてうるさい音になっちゃう。音が「大きい」と「うるさい、でかい」とでは大違いで、日本人の解釈が間違っているのではないかと思うことがあります。あと、一昨年クロアチアへ孫が参加したジュニア・チェロ・コンクールを聴きに行ったのですが、その時は中国の小学生が1位になりました。その子は10回やったら10回とも同じように弾けるなと思った。新響も何度やっても同じような演奏をする、というのでは面白くないと思うよ。
大原 それは飯守先生や矢崎先生、湯浅先生をはじめ、どの指揮者にも言われます。本番は違うのだか
らねって。確かに少し前までの新響は、練習で体に染みこませたものを本番で披露するというのが、長
年のスタイルだったと思います。でも今はそうではなくて、本番は瞬間芸術なのだからその場その時の空気でやろうよ、というのが最近の主流になってきています。最近おつき合いさせていただいている指揮者はそういう考え方の方々が多いですね。
戸田 それは良いことだね。「おっ、そうくるか、じゃあこっちはこうやってやろう」って指揮者とやりあっていくのが良い演奏だよね。そうやっていくうちに音も変わっていくと思います。


─ 今日は遅くまでありがとうございました。


土田 労音時代やソ連演奏旅行の話はもう10回以上戸田さんから伺っていますが、毎回新しいお話が出
てきて面白いよね。それだけ奥が深くて、何度聞いても飽きない。いろいろあったんだなと思うと、とても感慨深いです。
都河 新響60周年って言うけど、大したことではないよ。もっと古いオケは他にもたくさんあるんだから。


─ 新響もまだまだこれから、ということですね。この言葉を噛み締めながら歩んでいきたいと思います。


2015年11月7日
司会・進行:村原大介(ヴィオラ)
聴き手:朝倉 優(ヴァイオリン)、伊藤真理子(ヴァイオリン)
写真撮影:桜井哲雄(オーボエ)
編集・構成:藤井 泉(ピアノ)

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