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マーラー:交響曲第2番 ハ短調「復活」

山口 裕之(ホルン)


 グスタフ・マーラー (1860-1911) は、現代のわれわれにとって、10ないし11曲の壮大な交響曲と重要な歌曲集の作曲家である。だが、同時代の多くの人たちにとってマーラーは、作曲家というよりもむしろ、1897年から1907年の10年のあいだヨーロッパ音楽界の頂点に位置するウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)に君臨した指揮者・音楽監督であったといえるだろう。しかし、交響曲第2番の作曲とかかわっていた1888年から1894年、つまり彼が28歳から34歳の時期には、さまざまな歌劇場で指揮者として頭角を表しつつあったものの、マーラーはまだそのような輝かしい地位からは遠く離れたところにあった。
 18歳になる年にウィーン音楽院(ピアノ、ついで作曲)を卒業したのち、マーラーは、ライバッハ(現在はスロヴェニアの首都リュブリャーナ)、オルミュッツ(現在、スロヴァキアのオルモウツ)、カッセル(ヘッセン大公国の首都の一つだったが、プロイセン王国に併合)、プラハ、ライプツィヒ、ブダペスト、ハンブルク等、さまざまな都市の劇場の楽長を短期間のうちに歴任してゆく。ちなみに、交響曲第2番の作曲とかかわっているのは、ライプツィヒからハンブルク時代にいたるかなり充実した時期にあたる。上昇志向のきわめて強いマーラーにとって、こういったポストの遍歴は、音楽家としてより優れた活動の場を求める過程であった。しかしそれとともに、ハプスブルク帝国内およびドイツ(成立後間もないドイツ帝国)で、このような多言語・多民族・多文化的空間のなかに身を置いて経験を積み重ねていったことは、マーラーの音楽そのものとも深く結びついているように思われる。
 このことにさらに深くかかわっているのは、マーラーの出自である。マーラーは、1860年、チェコの東方の地域モラヴィアに近いボヘミアの小村カリシュト(現在、チェコ共和国のカリシチェ)で、ユダヤ人の両親のもとに生まれているが、まさにこの年にハプスブルク帝国でのユダヤ人の居住地の移動が認められた機会を利用して、家族はボヘミアとの境界に近いモラヴィアの商業都市イーグラウ(現在、チェコのイフラヴァ)にすぐさま居を移す。マーラーの音楽のなかにさまざまなかたちで現れる少年時代の自然の思い出は、このイーグラウと結びついて いる。
 この時代にはハプスブルク帝国内の諸地域で、それぞれの民族と言語に基づいたナショナリズムが盛り上がりを見せる一方、マーラーが少年時代を過ごしたイーグラウのようなモラヴィアの重要な都市では、ハプスブルク帝国の中心に座すオーストリア王国──民族的にはドイツ人であり、そしてドイツ語が話されるオーストリア王国──、とりわけその首都ウィーンに対する強い憧れがあった。モラヴィアの言語はボヘミアと同じくチェコ語であるが、イーグラウではドイツ人(民族的な意味での)が多く移り住み、いわば支配者の言語としてのドイツ語が広く話されていた。酒造業を主な生業としていたマーラーの父親は、商業的な意味でもドイツ語を用い、またドイツ語圏文化の教養を身につけることにも腐心していたようだ。マーラーはそのような家族の教育のもと、イーグラウのドイツ人ギムナジウムで学んでいる。
 ユダヤ人がヨーロッパのキリスト教社会の中でそれなりの社会的地位を獲得してゆくためには、伝統的なユダヤの生活習慣をある程度脱して、ヨーロッパ社会に「同化」してゆくことが不可欠だった。マーラーの両親はすでにそういった同化ユダヤ人として生活していたことになる。しかし、それと同時に、マーラーの家族は、カリシュトやイーグラウでのユダヤ人コミュニティとのつながりを保ち続けていた。マーラー自身も、イーグラウのシナゴーグ(ユダヤ教会)に通い、13歳のときにはバル・ミツヴァ(ユダヤ教の成人の祝い、キリスト教でいえば堅信礼にあたるか)を受けている。そしてまた同時に、15歳からの3年間を音楽の勉強のために過ごしたウィーンをはじめとして、ハプスブルク帝国内でのカトリック的環境において、あるいはライプツィヒやハンブルクなど、プロテスタンティズムが支配的な地域において、異なる性格のキリスト教文化をごく自然なものとして身につけている。反ユダヤ主義が強烈に作用していた、カトリックの街ウィーンで、1897年にユダヤ人のマーラーがウィーン宮廷歌劇場の音楽監督のポストに就任するための一種の下工作として、マーラーは彼の支持者たちの説得によってユダヤ教からカトリックに改宗している(そうだとしても、ユダヤ人がウィーン文化のトップの座につくということは、同時代のウィーンの人々にとってはほとんどありえないことだった)。最終楽章に「復活」という主題を掲げた交響曲第2番はそれより以前に作曲されたものだが、だからこそいっそう、この交響曲には、マーラーの音楽に広く見られるさまざまな文化的混淆状態(ドイツ・ロマン主義の異なる要素、自然や軍楽隊の音など少年時代の記憶、さまざまな文化に根ざす民謡など)とともに、ある種の不思議な宗教的混淆状態が存在しているといえるかもしれない。
 さしあたり素朴な疑問として感じられるのは、伝統的なユダヤ教の文化的伝統からはほとんど離れていたとはいえ、ユダヤ教のうちにあったマーラーが、なぜ「復活」というテーマを取り上げているのかということである。そしてまた、作曲にかかわっていた時点では、カトリックの牙城ともいえるウィーンと直接の関係はないとはいえ、マーラーがハプスブルク帝国内のカトリック的伝統と馴染んでいた文化的環境を考えるとき、ルター派のコラールを思わせる音楽をこの交響曲のなかで(第4、5楽章)用いていることは、本来ならばそれほど自明のことではない。こういったことも念頭に置きつつ、それぞれの楽章についてふれてゆきたい。


第1楽章
 この楽章は、もともと「葬礼」という標題をもつ交響詩として1888年に完成していた(ライプツィヒ時代)。こういった経緯のため、実際にマーラーが交響曲第2番に集中していたのは1893年と1894年(ハンブルク時代)の夏の休暇の時期であったにもかかわらず、この交響曲の成立時期はしばしば1887年から1894年の7年間にわたるかのように見られることがある。後に述べるように、「復活」という主題がこの交響曲に組み込まれたのは、作曲の最後の段階になってからなので、交響詩「葬礼」の作曲時点ではまだ、マーラーが取り憑かれていた「死」への想念に対する回答としての「復活」が想定されていたわけではない。第5楽章の完成後に、初演は不成功に終わったこの交響詩は、交響曲第2番の第1楽章として書き直されることになる。
 ちなみに、マーラーは1891年にこの「葬礼」を、彼が敬愛する指揮者ハンス・フォン・ビューローの前でピアノによって演奏したが、そのときには指揮者としてのマーラーを高く評価していたこの偉大な指揮者にこの音楽を理解してもらえず、きわめて辛辣な言葉を聞かされることになったために、マーラーはひどく落胆したようだ。


第2楽章
 第2楽章と第3楽章は(あるいは第4楽章も加えて)、後年、マーラー自身の言葉によって「間奏曲」の性格をもつものと位置づけられている。第2楽章は、ゆったりとくつろいだレントラー(3拍子の民謡的な舞曲)の性格をもつ曲想によって始まり、マーラーはこの楽章を「もはや失われてしまった無邪気さへの哀愁に満ちた追憶」と説明している。A1-B1-A2-B2-A3-コーダという単純な形式による。


第3楽章
 もう一つの「間奏曲」である第3楽章は、まったく異なる性格をもっている。マーラーはドイツ・ロマン主義の二人の作家、アルニムとブレンターノによる詩集『少年の魔法の角笛』に惹かれ、この民謡的な詩集から20曲以上の歌曲、あるいは交響曲の楽章を作曲している。マーラーの第2番から第4番までの交響曲は、詩集『少年の魔法の角笛』と密接に結びついているが、この第3楽章は、詩集の第1巻に含まれる「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」と題される詩に作曲された歌曲(これはマーラーの歌曲集『少年の魔法の角笛』のうちに含まれる)の音楽をスケルツォの主部としてそのまま用いている。マーラーはこの曲の楽想が、子ども時代のボヘミアの音楽の記憶と結びついていると語っている。この詩集には、さまざまな性格の民謡が含まれているが、聖人がいわば「馬の耳に念仏」のように魚に説教する様子を諷刺的に描いたこの詩は、マーラーの音楽にしばしば現れる諧謔的なアイロニーに合致するものであり、マーラーはこの音楽にかなり満足していたようだ。


第4楽章
 スケルツォの第3楽章が不気味に終わった後、アルトのソロにより「原光」と題された楽章が始まる。この曲は、マーラーのすべての交響曲のなかでも初めて声楽が用いられた楽章であり、またこの交響曲第2番全体のなかでも「復活」が歌われる最終楽章へと音楽が橋渡しされてゆく転換点となっている。「原光」と題されたテクストは、詩集『少年の魔法の角笛』第2巻からとられたものだが、マーラーはこのテクスト(部分的に変更が加えられている)に対して、いくつかの詩行ごとにかなり性格の異なる音楽を与えている。
 「ああ、小さな赤いバラ」という最初の印象的な言葉に続き、金管楽器によるコラール風の音楽が現れる。深い瞑想と宗教性をもつ音楽がさらに続いたのち、「私が広い道を歩いていたら」という詩行から突然、素朴な民謡風の音楽に転じる。天使は「私」にこちらにきてはいけないというのだが、その「私」はまだ子どもであるようにも感じられる。「私」は神さまのもとに行くことを望んでいるのだけれど、天使が指示しているように、まだその時ではないのかもしれない。しかし、「私」は天国での生活を幸せに満ちたものとして思い描いている。このように無垢な子どもが天国の至福のなかで歌う様子は、同様に『少年の不思議な角笛』の詩を取り入れている交響曲第3番や第4番、またゲーテの『ファウスト 第二部』をテクストとする交響曲第8番にも見られるように、マーラーの音楽のなかでも特徴的な要素である。しかし、この民謡風の曲調は、神のもとにいたることを切望する言葉とともに、次第に崇高なものへの憧れに満ちた、その意味できわめてロマン主義的な音楽へと移り変わってゆく。
 ところで、この詩にはなぜ「原光 (Urlicht)」という標題がつけられているのだろうか。ドイツ語に特有のこのur-という言葉は、ある事物(この場合は「光Licht」)の根源的、原初的な状態を示すものである。「原光」というタイトルは哲学的な意味合いさえ感じさせるが、これはマーラーによって付けられたものではなく、もとの詩集でもこの標題が与えられている。直接的にはもちろん最後の二つの詩行のなかにあらわれる、神の「光」を指しているだろう。しかし、それとともに、道行く「私」が出会った野に咲く小さな赤いバラの花を目にして、すべての光の源であるようなイメージがその小さなバラに重ね合わされているのだろう。この楽章の冒頭の「ああ、小さな赤いバラ」という言葉は、そのようなイメージとして音楽のなかに浮かび上がる。


第5楽章
 マーラーはこの第5楽章をどのようなものとするか、最初なかなか構想が固まらなかったようだ。一転してイメージが収斂していったのは、1894年に亡くなったハンス・フォン・ビューローの葬儀がハンブルクの聖ミヒャエリス教会で行われた際に、18世紀ドイツの詩人クロップシュトックによる「復活」がコラールで歌われたことに強い感銘を受けたからだと、マーラー自身が後年書簡のなかで述べている。しかし、このよく知られたエピソードによってのみ、この楽章の性格を考えないほうがよいかもしれない。クロップシュトックの5つの連からなる詩のうち、葬儀で用いられたのは最初の3つの連であり、マーラーが交響曲第2番第5楽章に用いたのはさらにそのうちのはじめの2つだけである。「ああ信じるのだ、わが心よ」から始まるテクストは、マーラー自身が書いたものであり、第5楽章の作曲中に送られた書簡をみても(「第5楽章は壮大で、合唱によって終わりますが、その歌詞は小生の作です」)、むしろマーラー自身のテクストにこそ、彼の思想が集約されているといえるだろう。
 キリスト教において「復活」という場合、なによりもイエス・キリストの復活が連想される。しかし、このクロップシュトックの詩のなかで深い信仰心と感情によってうたわれているのは、死者が復活し、神の国に入ることへの希望と喜びである。このことは最後の審判の日に起こることとされる。だからこそ、約35分かかる第5楽章のなかでおよそ20分もたって、ようやくクロップシュトックの「復活する、そう、おまえは復活するのだ」という言葉が合唱によって静かにあらわれるまでに、黙示録的文書のなかで描かれるような地上の災厄や、輝かしい神の栄光、悪との抗争が音楽によって展開されてゆくことになるのだ。舞台裏でホルンによって演奏される厳かな音(ユダヤ教の祭儀で用いられていた角笛の一種、ショファーをおそらく念頭においたものだろう)や華やかなトランペットは、この最後の日に天が開け、神が現れるときを表すものである。
 そのとき地上の死者たちも甦る。合唱によって静かにクロップシュトックの詩が歌われるとき、それがプロテスタントのコラール風であることは、ルター派の敬虔主義につながるクロップシュトックのテクストであること、プロテスタントのハンス・フォン・ビューローの葬儀で、実際に少年合唱によるコラールとして歌われていたこと(それがどの作曲者の曲によるかはわかっていない)を考えるならば、自然なこととして受けとめることもできるだろう。しかし、マーラー自身のテクストになってからは、音楽はこの世の苦悩と至高の存在への憧れに満ちたものへと性格をかえてゆく。神へと向かう熱い思いが壮麗に鳴り響くときには、その音楽はむしろカトリック的な伝統を思い起こさせるものである。
 とはいえ、キリスト教における最後の審判だとすれば、そこには必ず再臨のキリストの姿があるはずなのだが、マーラーが第5楽章のために用いたテクストにはそれについての言及は一切ない。クロップシュトックの詩は、キリスト教における死者の復活の信仰に基づいたものだとはいえ、もともとそこにはこの世の最後の日の恐ろしいイメージが描かれることはなく、この日はむしろ復活とともに神の国に迎え入れられる「感謝の日、喜びの涙の日」(第3連)と呼ばれている。クロップシュトックの「復活」の言葉が現れるまでのあいだの20分間、マーラーがことさらにあの壮大な世界審判の日の情景を付け加えているのである。ある研究者は、マーラーが描き出している終末論的情景は、むしろ「ダニエル書」(「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。/ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」(12:2))に見られるような、ユダヤ教本来の伝統に連なるものであると指摘している。
 マーラーがこの第5楽章の最後に、神のもとへと向かうことを高らかに歌いあげるとき、この「神」とは何なのだろうか。青年時代のある書簡の中で、マーラーは「至福の命の灼熱と、身を焼き尽くす死への憧れ」が交互に入れ替わるような内面を吐露しながら、彼にとってのあらゆる神聖なものとして「芸術、愛、宗教」をあげている。マーラーにとって宗教が特別に重要な意味をもつものであったことはまちがいない。しかし、それは一般的な意味での信仰心であったり、キリスト教社会の中で密かにユダヤ教的要素を保持しようとしていたというよりも、むしろドイツ・ロマン主義の連関の中で形成されてきたような、より理念化された至高の存在に向かうものであるようにも思われる。マーラー自身が書いた第5楽章のためのテクストのうちに、「神」という言葉は、実は最後に一回現れるだけである。黙示録的な情景とクロップシュトックの信仰心に満ちた復活の希望がおもに示される前半に対して、マーラー自身のテクストに音楽が移行してからは、「復活」という主題は、もともとの宗教的なコンテクストから離れて、次第に死の想念と絶えず格闘していたマーラー自身の生の苦悩とそれに対する勝利へと意味合いを移していく。そのようにして──交響曲第8番「千人の交響曲」の最後に『ファウスト 第二部』の「神秘の合唱」が歌われたあと、同じく変ホ長調でパイプオル
ガンを伴う壮大なコードが鳴り渡るのと同じように──神のもとへの救済の音楽が鳴り響くのである。


初演: 1、2、3楽章のみ、1895年3月4日、ベルリン。この演奏会全体の指揮はリヒャルト・シュトラウスだが、交響曲第2番についてはおそらくマーラー自身。全曲の初演は1895年12月13日、ベルリン、指揮はグスタフ・マーラー。
楽器編成: フルート4(すべてピッコロ持ち替え)、オーボエ4(3, 4番はコールアングレ持ち替え)、Esクラリネット2(2番は4番クラリネット持ち替え)、クラリネット3(3番はバスクラリネット持ち替え)、ファゴット4(3,4番はコントラファゴット持ち替え)、ホルン10(舞台上に6、舞台外に4)、トランペット10(舞台上に6、舞台外に4)、トロンボーン4、テューバ、ティンパニ(奏者2人各3台、後から第3奏者が加わる)大太鼓、シンバル、タムタム(高音と 低音各1)、トライアングル、小太鼓(複数)、グロッケンシュピール、鐘(低く、一定の音律を持たない鋼鉄の棒)、ルーテ(むち) 舞台外にティンパニ1台、大太鼓、シンバル、トライアングル      ハープ2、オルガン、弦五部、ソプラノ独唱、アルト独唱、混声合唱
主要参考文献 
Stuart Feder, Gustav Mahler: A Life in Crisis, Yale  University Press, 2004.
Michael Haber, Das Jüdische bei Gustav Mahler, Peter  Lang, 2009.
Vladimír Karbusický, Gustav Mahler,s Musical  Jewishness, in: Jeremy Barham (ed.), Perspectives  on Gustav Mahler, Ashgate, 2005.
Wolfgang Schreiber, Mahler. rororo, 1971.
Sponheuer/Steinbeck (Hrsg.), Mahler Handbuch,  Metzler, 2010.
Renate Ulm (Hrsg.), Gustav Mahlers Symphonien,  Bärenreiter, 5. Auflage 2010.
 『マーラー書簡集』ヘルタ・ブラウコップフ編(須永恒雄訳) 法政大学出版局 2008年
 『グスタフ・マーラー』クルシェネク/レートリヒみすず書房 1981年
 『グスタフ・マーラー 失われた無限を求めて』アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ(船山隆・井上さつき訳) 草思社 1993年
 『マーラー 輝かしい日々と断ち切られた未来』前島良雄 アルファベータ 2011年

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