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三善晃氏との絆

矢崎彦太郎

 JLC5005番号の古いレコードがある。
 と言っても、レコード棚の中段に鎮座しているフェリックス・ヴァインガルトナー指揮、ロイヤル・フィルハーモニーによるベートーヴェンの交響曲第5番ほど古くはない。この78回転SP4枚組で総重量2kgといった代物は、蓄音機時代の遺物的存在だ。JLC5005はモノラルだが、33.1/3.回転のLPで、かつて東芝レコードの特徴だった赤い透明なプラスティック盤。棚に納まって55年は経っている。私と一緒に、鎌倉からヴィーン、ローザンヌ、ロンドン、パリと引っ越した仲だ。このレコードこそ、私が初めて耳にした三善晃氏の音楽である。ジャケット裏に載っている三善氏の顔写真も高校生のように初々しい。東大仏文科在学中に留学したパリ国立音楽院で着手され、帰朝直後の1958年に初演されたピアノ・ソナタを山岡優子氏が演奏している。2年後に作曲された〈交響三章〉と共に、初期の代表作品となった。
 憑かれたようなテーマが単刀直入に語り始める第1楽章、ゆっくりなテンポが醸し出す香かぐわしいフィールドを流麗な旋律が淀みなくたゆたい逍遥する第2楽章アンダンテ、凛々しく決然としたロンドの第3楽章と各楽章は鮮やかなコントラストを見せながら、それぞれの主題が関連性を内に秘めて、有機的なまとまりのある構成だ。中学生だった私は、第2楽章が特に印象深く、日本人もこのようにスマートな音楽を書けるのかと驚き、感動を覚えた。
 東京藝術大学では、作曲科のレッスンだけでなく、作曲科以外の学生を対象とした和声学のクラスも持っていらした。私は他のクラスに入れられたが、ヴァイオリン専攻だった家内は教えて戴いたし、その頃鷺ノ宮近辺に住んでいた彼女は、阿佐ヶ谷駅へ向うバスの中から、買物籠片手に歩いていらした三善先生を、時々見かけたらしい。
 1980年代に毎秋、日本音楽コンクールの作曲部門と器楽部門のお手伝いを10年近く続け、本選に残った応募者の作品やコンチェルト伴奏の指揮を執った。私は審査には加わらなかったが、翌年からドイツのオーケストラの監督に就任するのでシーズン始めの9月・10月は日本に戻れない旨をお話しすると、審査会議室に呼ばれて、審査委員長だった三善氏から、長年の協力に対して委員特別賞を戴いた。
 三善氏が久しぶりにパリにいらしたのは、その数年後だったと思う。スケジュールが空いていらした一日、ドライヴにお誘いして、御希望されたミリー=ラ=フォレ(Milly-la-Forêt)を訪れた。パリから南へ約60km、フォンテンブロー手前のミリーは人口5,000人ほどの小さな村。ジャン・コクトーが1947年から16年間過ごした終焉の地だ。現在コクトー記念館となっている彼の館は、当時まだ公開されていなかった。しかし、村外れにある12世紀に建てられた素朴な石積みのサン=ブレーズ=デ=サンプル礼拝堂は健在で、この礼拝堂が1959年に修復された際、コクトーは線描デッサンによる壁画を描き、ステンドグラスもデザインした。祭壇画は天使に見守られた荊冠のキリストだが、ミリーはフランスに於ける薬草栽培発祥地の一つで、昔は礼拝堂も病院の一角を占めていたから、側面には伸びやかに育ち花開く薬草が描かれている。その薬草を見上げる愛嬌たっぷりの猫の下にコクトーのサインが認められ、自筆で.Je.reste.avec.vous(私はあなたがたと一緒に居ます)と刻まれた石は、詩人が眠る墓碑である。三善氏はコクトーのファンだったらしく、初めて墓参出来たのを喜んでいらした。外に出て、庭に吊るされた幾つかの小さな鐘を交互に叩いて一つ一つの音に寸評を下したり、1479年に樫と栗の木を組んで建てられた市場の建物が残る中央広場近くのレストランで、シェフが薦める鰻の稚魚入りオムレツに舌鼓を打ったのは、楽しい思い出だ。


 敬愛する作家の辻邦生氏と三善氏の対談を読み返す。昨年10月、軽井沢に遺された辻氏の山荘を訪ねた折に出会った貴重な資料だ。すれ違ってはいるものの、お2人共1950年代後半にパリ留学をされている。「ヨーロッパに於ける日本人創作家のあり方」「美と倫理の問題」「個と共同体の関連」「ナイーヴな情熱と情念的直観」などを縦横かつ精緻に語られる大先輩の発言には共感する点も多く、大いに啓発されて、「文化の上澄みだけをすくい取って日本に持ち帰っても何にもならない。文化とは結果ではなく、そこに到る全ての経験なのだから」と述べられた森有正氏の名言が脳裡に再び蘇る。

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