ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」
「火の鳥」と言えば、手塚治虫の長編漫画を思い出す方も多いのではないかと思う。手塚治虫のライフワークであり、古代から未来に亘る時空を超えた永遠生命体として火の鳥が描かれる。残念ながら、この漫画と本日演奏するバレエ音楽の元になるロシア民話とは直接の関係はない。しかし、手塚治虫によれば、バレエ「火の鳥」を観て、火の鳥を演じたバレリーナの魅力に心を奪われたのが漫画「火の鳥」を描くきっかけだったそうである。
そのバレエ「火の鳥」はセルゲイ・ディアギレフが1909年に創設したロシアバレエ団(バレエ・リュス)の初のオリジナル作品であった。なお、バレエ・リュスは外国公演の際の名前で、ロシア国内ではバレエ・リュスとして公演を行ったことはない。ディアギレフは、1910年のパリ公演にロシアに関係したオリジナル演目を計画し、ロシアの民話「イワン・ツァレヴィチ(イワン王子)」と「火の鳥と灰色の狼」を基に、振付けのフォーキンと共に台本を書いた。作曲については、当初リャードフに依頼しようとしたが、遅筆でパリ公演には間に合わないと判断したディアギレフは、「花火」の音楽で注目されていたとはいえ、無名に近かったストラヴィンスキーに依頼することとし、彼は見事にディアギレフの期待に応えたのであった。
フォーキンは優れた踊り手でもあったが、近代バレエの方向性を決定した振付師である。フォーキンはそれまでの古典的バレエが、筋とは関係なく、突然パ・ド・ドゥ(主役の男女2人による踊り)が始まったりするのを嫌い、バレエの振付けに関する提言を公表している。その中で、舞踊は登場人物の精神や心の表現でなければならないこと、音楽と舞踊は調和すべきこと、シーンの中断はあってはならないこと、音楽と踊り手の動きがそれぞれ意味を持っていなければならないことなどをのべている。「火の鳥」では情景を彷彿させる音楽が書かれ、その音楽に合った振付がなされた。練習にピアニストとして毎回立ち会ったストラヴィンスキーはリズムに興奮してくると、壊れそうなほどの大音響でピアノを叩き、これに後押しされたフォーキンは独創に満ちた踊りを完成させたと言われている。
1910年のパリ・オペラ座での初演はバレエ団メンバーの猛練習もあって大成功だった。火の鳥はフォーキン自身が踊り、バレエ・リュスとストラヴィンスキーの名はバレエ界に轟くことになり、その後ロシアを題材とする三部作「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」が生まれ、ストラヴィンスキーの曲によるユニークなオリジナル作品はバレエ・リュスの中心的作品になっていく。
「火の鳥」の音楽には、本日演奏するオリジナル版(1910年版)の他に、その組曲版(1911年版)、2管編成に編成を小型化して演奏機会の増加を図った組曲版(1919年版)、1919年版にさらに手を加えた組曲版(1945年版)の計4つの版がある。これはストラヴィンスキーの経済状態が良くなかったため、異なる版を作ることにより収入増を狙ったものと考えられている。
さてあらすじである。
「火の鳥」のスコアには各所にいわゆるト書きが書かれて音楽が表している状況を説明しており、フォーキンの振付けはそれをわかりやすく表現している。
以下、導入部と第1幕、短い第2幕で構成され、切れ目なく続くこのバレエの舞台の様子と音楽を実況中継風に説明することを試みたい。
導入部
始まりました。大太鼓のトレモロに乗って、チェロとコントラバスが上下にうねる旋律をゆっくりと奏しております。これは不死身の魔王カスチェイの支配する魔界の闇を表しているようです。
第1幕
(1)カスチェイの魔法の庭園
弱音器を付けたホルンや弓を駒に近づけて弾くポンティチェロ奏法は不気味な雰囲気を作り出しています。
ここで、幕が上がりました。魔王カスチェイが住む魔法の庭園が月明かりに照らされて見えます。庭園の中央には黄金の実をつけた林檎の樹があるようです。この黄金の林檎は幸福の象徴であると聞いております。
(2)イワンに追われた火の鳥の登場
あっ、何かが舞台上空を横切ったようです。木管やヴァイオリンに鳥の羽音を模した音楽が聞こえます。真っ赤な衣装をつけた女性ダンサーが飛び跳ねて魔法の庭園に現れました。どうやら、これが火の鳥のようです。もう一人、若い男性が弓を持って魔法の庭園に現れました。王子イワン・ツァレヴィチでしょうか。火の鳥を追っていたようです。オーボエのソロによるロシア民謡風の旋律が聞こえます。
(3)火の鳥の踊り
6/8拍子になりました。クラリネットとフルートやハープ、ヴァイオリンなどにせわしないモティーフが聞こえ、鳥の羽音を模したもののようです。3本のハープのグリッサンドも聞こえます。火の鳥は高い跳躍で魔法の庭をあちこち飛び回っております。イワン王子は何をしているのでしょうか? いました。どうやら木陰に身をひそめて、火の鳥が飛び回っている様をじっとうかがっているようです。やっ、イワン王子は、木陰から飛び出して火の鳥につかみかかりました。
(4)イワンによる火の鳥の捕獲
音楽が激しくなりました。火の鳥はもがき、逃げようと必死ですが、疲れ果てて捕まってしまいました。ヴィオラのソロが聞こえ、火の鳥は何かを訴えているようです。
(5)火の鳥の懇願
火の鳥の悲しみを表すような悲しげなテーマがオーボエとヴィオラ・ソロで奏されています。トランペット・ソロの音で火の鳥は 、自分の体から美しい1枚の羽根を抜き取ると、それをイワン王子に渡しました。「もし、あなたが危険にさらされた時には、この羽根があなたを助けてくれるでしょう」と言っているようです。男性は、女性のお願いには弱い。羽根をもらうと火の鳥の踊りを思わせるような速いテンポとなりました。火の鳥は飛び立って行ったようです。ホルンにイワン王子のテーマが聞こえますが、火の鳥を逃がしてやって満足した気持ちが感じられます。
(6)魔法にかけられた13人の王女たちの登場
森の向こうに城門が見えて参りました。イワン王子は好奇心にかられて思わず足を止めています。そのとき、城門が開き、ヴァイオリン・ソロが奏でる優美な旋律に合わせて中から白い衣装をまとった12人の乙女たち、そして少し衣装が違う一人の乙女が現れました。これはツァレーヴナ王女、他の乙女も皆王女であると聞いております。
(7)金の林檎と戯れる王女たち
弦楽器のトレモロが聞こえます。2/4拍子の軽快な舞曲に乗って、乙女たちは、林檎の樹の周りにやって来ると、黄金の林檎を手にして楽しそうに踊り始めました。林檎のキャッチボールもしています。イワン王子はどうした? あ、いました。物陰で乙女たちを見ています。
(8)イワンの突然の出現
イワン王子はひときわ美しいツァレーヴナ王女に興味を持ったようで、ホルンによるテーマとともに乙女たちの前に姿を現し、挨拶をしました。王女たちはびっくりした様子です。
(9)王女たちのロンド
王女たちは、イケメン王子に好感を持ったようです。ピッコロに先導され、ハープのアルペジオに乗って、オーボエが4/4拍子の美しい旋律を歌い、王女たちは踊り始めました。この踊りはロシアの古い民族舞踊のホロヴォードで、第2主題がヴァイオリンとチェロで歌われています。
ツァレーヴナ王女はここがカスチェイの城であること、王女たちはカスチェイの魔法によって閉じ込められていることを話した模様です。
(10)夜明け
時間が経つのは早い。東の空が白み始め、城からはトランペットの音が聞こえました。13人の王女は再び城に幽閉されるようです。ツァレーヴナ王女とイワン王子は最後の接吻を交わし、王女たちは城の方へ戻って行きました。音楽は悲しそうです。
(11)イワンのカスチェイ城内への侵入
急に音楽のテンポが上がり、王女たちを助けようと決意したイワン王子がシンバルなどの打楽器の音とともに城門を開けました。
(12)魔法のカリヨン、カスチェイの怪物番兵の登場、イワンの捕獲
おお、何ということだ! 門からは異様な格好の兵士がたくさん飛び出して来ました。どうやらカスチェイの部下の怪物番兵のようであります。打楽器、ハープ、チェレスタが騒々しい雰囲気を出しています。イワン王子は抵抗していますが、捕らえられて縛られてしまったようです。
(13)不死身の魔王カスチェイの登場
低音管楽器が鳴っています。何か恐ろしいものが登場しそうだ。あっ、出て来ました。骸骨のような実に醜悪な容貌です。これは魔王カスチェイのようです。
(14)カスチェイとイワンの対話
イワン王子がカスチェイの前に引き出されました。カスチェイが厳しく尋問しております。イワン王子は堂々たる態度で一歩も引かないばかりか、カスチェイに唾を吐いたようです。この間、オーケストラは目まぐるしく動いております。
(15)王女たちのとりなし
先ほどの王女たちが出て来ました。ヴァイオリン・ソロが聞こえ、どうやらカスチェイにイワン王子を許してもらうよう、懇願している様子です。カスチェイは聞く耳を持たないようで、わっはっはっはと笑ったのちに何か呪文を唱えようとしているようです。危うし、イワンは岩にされてしまうのか?
イワン王子は羽を取り出してかざしています。これこそ火の鳥がくれたもの。アラジンの魔法のランプのように火の鳥は現れるのか?
(16)火の鳥の出現
弦のハーモニックス奏法のヒューという音と木管楽器の早い動きが聞こえます。来た、来ました。約束違わず火の鳥が飛んで来ました。悪者に対して何やら魔法をかけたようです。
(17)火の鳥の魔法にかかったカスチェイの部下たちの踊り
オーケストラ全体が目まぐるしく変化しています。カスチェイとその部下はキリキリ舞の状態で踊らされてヘトヘトになっています。
(18)カスチェイの部下全員の凶悪な踊り
オーケストラ全体で和音を一発強烈に響かせると、ファゴットとホルンがシンコペーションで荒々しい旋律を奏でています。カスチェイの部下たちは、この音楽に乗って再び激しく踊り始めました。火の鳥はと見ると全員を操るような面白い動きをしていますが、そのうち疲れ果てた部下たちはバタバタ倒れていきました。
(19)火の鳥の子守唄
これは絶好のチャンスだ。火の鳥はヴィオラの先導の後ファゴットで美しい子守唄を歌い、カスチェイと部下たちを眠らせてしまいました。火の鳥はイワン王子を林檎の樹の所に招いてカスチェイの弱点を教えているようです。果たして不死身のカスチェイにアキレス腱はあるのか?
(20)カスチェイの目覚め
大変、コントラファゴットが鳴っています。身の危険を感じたカスチェイが目を覚ましたようです。イワン王子はと見れば、林檎の樹の根元にあった大きな卵を抱えています。どうするイワン?
(21)カスチェイの死
カスチェイが襲いかかってきましたが、イワン王子は卵を地面に叩きつけて割ってしまいました。大太鼓、タムタム、管楽器と低音弦がグロテスクに鳴り響き、カスチェイは死んだ模様です。会場内では拍手が起きています。
(22)深い闇
会場が暗くなり、あたりは深い闇に包まれました。そのまま第2幕に突入です。
第2幕
(23)カスチェイの宮殿とその魔力の消滅、石にされた騎士たちの復活、全員の歓喜
弦の明るい響の上にホルンが平和な気分のロシア民謡風の旋律を奏でています。この旋律はヴァイオリンや他の楽器に引き継がれ、盛り上がります。カスチェイの宮殿は消滅し、13人の王女は自由の身になり、石にされていた12人の騎士たちも元の姿に戻ったようです。騎士たちと12人の王女、イワン王子とツァレーヴナ王女は結婚することになり、舞台上の全員が喜びをかみしめています。
ここで幕が降りてまいりましたので、以上で実況中継を終わります。
新響の創立指揮者で音楽監督であった故芥川也寸志からストラヴィンスキー三部作上演が提案され、初めて「火の鳥」(1919年版)を演奏したのは43年前の1973年であった。次に「ペトルーシュカ」を取り上げ、さらに1975年6月1日には「春の祭典」を加えて念願の三部作一挙上演という画期的な演奏会を実現できたことが、新響にとってその後の邦人作品や現代作品を演奏する上で極めて重要な一歩であったことを再確認して本稿を終えたい。
初演:1910年6月25日 パリ・オペラ座 バレエ・リュス公演 指揮:ガブリエル・ピエルネ
火の鳥:タマラ・カルサヴィナ イワン王子:ミハイル・フォーキン
楽器編成:ピッコロ2(2番はフルート持ち替え)、フルート3、オーボエ3、コールアングレ、クラリネット2、小クラリネット、バスクラリネット、ファゴット3(3番はコントラファゴット持ち替え)、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、トライアングル、タンブリン、シンバル(奏者2人)、大太鼓、タムタム、グロッケンシュピール、木琴、チェレスタ、ピアノ、ハープ3、バンダ(トランペット3、テナー・ワーグナーテューバ2、バス・ワーグナーテューバ2、テューブラーベル)、弦五部
参考文献
『バレエ・リュス その魅力のすべて』芳賀直子 国書刊行会2009年
『ディアギレフ・バレエ年代記1909-1929』 グリゴリエフ(薄井憲二・森瑠依子訳) 平凡社2014年
『ダンスの20世紀』市川雅 新書館1995年
マリインスキー劇場公演ビデオ フォーキン振付け版