ベートーヴェン:交響曲第8番 ヘ長調
「この曲が聴衆に受け入れられないのは、この曲があまりに優れているからだ」
これは初演時にベートーヴェンの口から漏れ出た言葉であるとされている。このエピソードが“通ごころ”をくすぐり、ベートーヴェン・ファンの間で交響曲第8番は非常に人気の高い曲となっている。ベートーヴェンの言葉からもわかるように、初演の客受けはイマイチであったようである。ベートーヴェンの全交響曲のなかで最も演奏時間が短く、編成も小さく、また『運命』や『第九』のようにドラマチックな展開がないことから、より大きくより派手な曲に期待が向いていた当時、ベートーヴェンが予想していたような反応は得られなかった。加えて、同時期に発表された交響曲第7番(音大を舞台としたテレビドラマのテーマ曲としても使われ、一躍大人気曲となった、あの曲である)があまりにも熱狂的に聴衆に迎え入れられてしまったことから、第7番の陰に隠れてしまったのである。 しかし、この曲はベートーヴェン本人が最も愛した曲であり、発表当時から“隠れた名曲”としての圧倒的な存在感を放ち続けている。本日はそんなちょっぴりマイナーなこの名曲についてお話ししたいと思う。
交響曲第8番は今から200年と少し前の1812年の夏、ボヘミアの温泉療養地にて書かれた、ベートーヴェン41才のころの作品である。ベートーヴェンはすでに芸術家としての名声をほしいままにし、「貴族なんかに我々の芸術が分かってたまるものですか」という発言に表れているように、自己意識が高く仕事に誇りを持っていた。
プライベートでは、アントーニエという既婚女性と熱烈な恋愛関係にあり、公私ともに順調な状況でこの曲の構想は練られた。このころアントーニエに宛てて3通の熱烈なラブレターをしたためていた(宛名の記載はないが、後世の研究で彼女宛とする説が有力)。ベートーヴェンの死後に机の引き出しから発見された手紙には「不滅の恋人よ」「目が覚めた時からあなたのことで頭がいっぱいだ」「あなたと完全に一緒か、あるいは完全にそうでないか、そのどちらかでしか生きられない」など、なかなか強烈な内容が見られ、アントーニエに対して並外れた愛情を抱いていたことは明らかである。
しかし、この交響曲の完成を待たずに二人は破局してしまう。その原因はアントーニエ夫妻の間に子供ができたこと、アントーニエ以外の女性とベートーヴェンの間に子供ができたことなど様々な説があるが、真偽のほどはさておき、何はともあれ二人は二度と会うことはなかった。しかし、ラブレターを何十年も大切に保管していたことや、破局後もこの“不滅の恋人”を意識した曲を作っていたことから、ベートーヴェンにとって生涯忘れることのできない女性だったのは確かであろう。
以上述べたように、この曲はベートーヴェンが人生最大の恋愛をしながら書いた作品である。全編明るく、そしてテンポの良い雰囲気が保たれており、生命の喜び、そして幸せな家庭へのあこがれを感じさせる。しかし、最後どことなく感情的になってやけっぱちに終わらせているようにも聞こえてしまうのは、先入観からだろうか。
第1楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・コン・ブリオ
冒頭からいきなり主題が提示される、潔い出だしである。古典を意識したあっさりした曲調であるが、転調とテンポ変化をしながら分断されるメロディや、いたるところにちりばめられたスフォルツァンドが意外性をもたらし、古典とは一線を画していることをこれでもかとアピールしている。またベートーヴェンらしい苦悶や緊張感もしっかりと盛り込まれており、「このぼくがもし古典を書いたとしたらこんな感じ?」と言わんばかりである。最後は出だしの勢いからは想像できないほどあっさりと、こっそり終わる。
第2楽章 アレグレット・スケルツァンド
歯切れよく跳ねる木管楽器の和音に始まり、ヴァイオリンとチェロ・コントラバスが対話を繰り広げる。男女のゆかいな会話を思わせ、時折、笑い声のような強奏がはさまれる。この楽章を通して続く木管楽器の和音は、時計のような規則的に動く機械を連想させ、かわいらしく楽しい雰囲気を演出している。実際、この曲が書かれた当時はメトロノームが発明された時期と重なり、メトロノームに着想を得たともいわれている。
第3楽章 テンポ・ディ・メヌエット
メヌエット形式を明らかに意識した楽章であるが、ベートーヴェンは「メヌエット」ではなく「メヌエットのテンポで」という指示しか記さなかった。転調しながら展開する美しいメロディを盛り込むことで、「ロマンチックなメロディを入れてしまったからメヌエットにならなかった」という皮肉にも感じられる。
ちなみに、中間部にホルンが担当する牧歌的なメロディは、ポストホルンに着想を得たものである。このポストホルンとは、郵便馬車が町へ到着した際に吹き鳴らす合図であり、連絡手段が手紙しかなかった当時、ポストホルンはいわば恋人からの着信音であった。ベートーヴェンにとってポストホルンは特別な存在であり、この曲のほかにも“不滅の恋人”を意識した作品にたびたび登場する。
第4楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ
激しいリズムと大幅な強弱変化、大胆な転調がこれでもかと盛り込まれた挑戦的な楽章である。嵐のように目まぐるしく情景が変わり、エネルギッシュに突き進んでいるかと思いきや突然分断されるなど、この楽章でもユーモアが冴えわたっている。そしてわざとらしく長々と盛り上げられ、クライマックスを迎える。
この作品はベートーヴェンの交響曲の中で唯一、誰にも献呈されることはなかった。それは幸せな思い出やアントーニエへの思いがつまった、ベートーヴェンの私的な宝物だったからかもしれない。
初 演: 1814年2月27日、作曲者自身の指揮によりウィーンにて
楽器編成: フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦五部
参考文献:青木やよひ『ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の謎を解く』講談社現代新書 2001年
ルイス・ロックウッド(土田英三郎・藤本一子監訳 沼口隆・堀朋平訳)『 ベートーヴェン 音楽と生涯』春秋社 2010年
平野昭『ベートーヴェン Ludwig van Beethoven』音楽之友社 2012年
カール・ダールハウス(杉橋陽一訳)『ベートーヴェンとその時代』西村書店 1997年
金聖響・玉木正之『ベートーヴェンの交響曲』講談社現代新書 2007年
『最新名曲解説全集 第1巻』音楽之友社 1982年