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ニールセン:交響曲第4 番「不滅」

小松 篤司(ヴァイオリン)


 カール・ニールセン(1865-1931)はデンマークに生まれ、デンマークで学び、デンマークを拠点に活動した、まさに同国及び北欧を代表する作曲家である。大きな戦乱に伴うデンマークの激動の時代において優れた作品を遺し、不滅の精神性を体現したとも言える人物であった。

1 時代背景
 ニールセンが活躍したのは主に19世紀末から20世紀初頭にかけてであるが、これは北欧において、ちょうど他の大作曲家も登場していた時期にあたる。その先駆者とも言うべき人物は、ノルウェーを代表する作曲家グリーグ(1843-1907)であり、1868年にかの有名なピアノ協奏曲を作曲するなど、ニールセンよりも一足先に北欧音楽界での足跡を残している。また、フィンランドの巨匠、シベリウス(1865-1957)は、実はニールセンと同じ年の生まれである。ニールセンが交響曲第4番を完成させた1916年時点においては、フィンランディア(1899年)、交響曲第2番(1901年)、ヴァイオリン協奏曲(1903年)等、既に代表作を世に送り出していた。
 また、ニールセンは6曲の交響曲作品を残しているが、交響曲の主流であったドイツ・オーストリアに目を向けると、1896年にブルックナーが交響曲第9番を、1909年にはマーラーが交響曲第9番を、それぞれ作曲している。両者とも、これら最後の交響曲の作曲後まもなく死去していることから、ドイツ系交響曲の歴史は終焉を迎えつつある時代であったといえる。一方で、シェーンベルクが確立した十二音技法による無調音楽への関心が高まりつつある時期でもあった。

2 作曲家としての軌跡
 ニールセンは、1865年6月5日に、デンマークのノーレ・リュンデルセにて生誕した。童話作家として名高いアンデルセンの出身地である小都市オーデンセに近い農村地帯であり、四季の変化や起伏豊かな丘陵景観等といった幼少期の自然体験が、ニールセンの独自性ある作風に大きな影響を与えたと言われている。
 ペンキ職人であった父は、12人の子沢山の家庭であったが故に生活は困窮していたが、音楽の嗜みがあり、村の楽隊でヴァイオリンとコルネットを演奏していた。ニールセン自身も、6歳のときに父からヴァイオリンを学び、父と同じ楽隊で演奏するようになっていった。貧しい家庭事情もあり本格的な音楽のレッスンを受けてはいなかったものの、即興的に演奏したり自分でメロディを作り出したりするなど、作曲家としての才能の片鱗を見せていたようである。
 ニールセンが本格的に音楽の勉強を始めたのは、1884年、19歳のときに首都コペンハーゲンの王立大学院ヴァイオリン科に入学してからであった。デンマークの作曲家、指揮者として絶大な勢力を持っていたゲーゼにその才を見出され、ヴァイオリン奏法のみならず作曲法、音楽理論について学ぶ機会を得たと言われている。1888年に卒業するまでの間、初期の作品群は、ニールセンにとって身近な楽器であったヴァイオリンを用いた、弦楽器の小曲が主なものとなった。
 音楽院を卒業後、ニールセンは1889年に王立劇場に第2ヴァイオリン奏者として入団した。1905年に退団するまでの間、演奏活動を通してオーケストラの各楽器の機能について精通していく中で、作曲家としては次第に交響曲やオペラにも取り組むようになった。交響曲第1番(1892年)、オペラ「サウルとダヴィデ」(1901年)、交響曲第2番「4つの気質」(1902年)、オペラ「仮装舞踏会」(1906年)等を次々と完成させ、ニールセンはデンマーク国内における自身の地位と名声を着々と固めていった。
 その功績が認められ、1908年には自身がかつて奏者として所属していた王立劇場の楽長に就任した。これは、ニールセンがデンマーク楽壇の第一人者として認められていたことを意味するものである。国内においては、その作品が高く評価されていただけでなく、カリスマ的な人格もあってか、後世の音楽家に大きな影響を与えることとなった。一例を挙げると、ニールセンは前述のシェーンベルクが確立した無調音楽に対し否定的な見解を持っていたことから、デンマークの王立大学院においてシェーンベルクは長い間タブー視されることとなった。他方、後述する特異性のある作風が、デンマーク国外ではなかなか受け入れられなかった面もあると言われている。

3 激動の時代において
 1914年に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパを混沌に陥れた。中立政策をとっていたデンマークも例外ではなく、強大な隣国ドイツに翻弄される小国ならではの悲哀といえる困難期を迎えることとなった。周辺海域において戦争が展開される中、国土を海で囲まれ海運に頼らざるを得ないデンマークでは、次第に食料等の生活物資や工業の原材料、石炭等が欠乏するようになった。産業の停滞、それに伴う失業、インフレ等が引き起こされ、国民生活は厳しいものとなっていった。
 本日演奏する交響曲第4番は、ニールセンがこの1914年に作曲を開始し、大戦の最中であった1916年に完成させたものである。本作品には、“Det Uudslukkelige”(英訳は“The Inexstinguishable”)とデンマーク語のサブタイトルが付けられた。日本では一般に、本日のプログラムにも記載があるとおり「不滅」と訳されるが、拡大する戦争への不安、戦争に伴う経済状況の悪化といった、苦難の時代に直面したデンマーク国民の心情やニールセンの意志に鑑み、「滅ぼし得ざるもの」と訳すのが妥当であるとする説もある。
 ニールセン自身は、総譜の前書きにおいて、「この題名によって、音楽だけが完全に伝えることができるひとつの言葉、生への根源的な意志、を示そうとした。」「音楽は生命で、そしてそれに似て『不滅』である。この交響曲は、偉大な芸術のみならず、人間の魂までもが『不滅』であることを強調すべく意図されたものである。」等と述べている。自身の音楽への気概、戦争の嫌悪、生への希求等といった思いが読み取れる記述であるといえる。
 一方で、ニールセンはこのサブタイトルについて、「これは標題ではなく、ただ音楽に近づくための提言に過ぎない。」とも付け加えていることから、「不滅」とは、曲全体を貫く精神的なシンボルとして捉えるべきものと解釈されている。

4 不滅
 ニールセンの作品の特徴としては、非伝統的な調性の導入、主題を何層にも多声に展開させていく作曲方法及びそこから生み出される緊張感、リズムや強弱の急激な変化等が挙げられる。これらは、当時のデンマーク国内では耳慣れない斬新性をもつものであり、デンマークにおけるロマン主義音楽からの脱皮を決定的なものにしたと言われている。
 交響曲第4番についてであるが、まず本作品は一般に、伝統的な交響曲のように「何調」と記されることがない。これは、調の選択において、基本調とそれに対応する調との対比といった構成がとられていない、非伝統的な調性が導入されていることに起因する。
 また、本作品は単楽章制をとっているが、その中でも4つの楽章要素から構成されている。実質的には古典的な4楽章制の交響曲に近いものとなっているが、これらの楽章要素がブリッジ風の楽句によって全く切れ目がなくつなげられることで、自然に次の要素へと順次移行するように作られている。
 第1部では、冒頭で躍動感に満ちた激しい主題が示されるが、この主題はその後も形を変えて何度か登場する。これに対し、穏やかで優美な旋律が2本のクラリネットにより奏でられるが、後に第4部でも再現され、全曲が大きな一つの楽章になるよう統一する役割を果たす。
 ヴァイオリンのブリッジを経た後に、田園舞曲風の気楽な雰囲気が漂う旋律が木管楽器により自然と奏でられるのは、第2部である。これと対照的に、ヴァイオリンが突如として、緊迫感と悲劇感のこもった旋律を奏で始めるのが、第3部となる。
 第4部は、躍動感あふれるメロディで始まる。途中から登場する1人を加えた2人のティンパニ奏者による強烈な連打が印象的であるが、これが戦争に関連させたものであることを、ニールセン自身も認めている。クライマックスにおいては、金管楽器を中心に第1部の第2主題が力強く奏でられ、「不滅」をうたい上げるかのごとく、充実した響きの中に全曲を閉じる。


初  演: 1916年2月1日、コペンハーゲンにて自身の指揮によって行われた。

楽器編成: フルート3(うち1本はピッコロ持ち替え)、オーボエ3、クラリネット3、ファゴット3、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ2、弦五部

参考文献:『作曲家別名曲解説ライブラリー 北欧の巨匠 グリーグ/ニールセン/シベリウス』音楽之友社 1994年
『クラシック名曲ガイド①交響曲』音楽之友社 1994年
大束省三著『北欧音楽入門』音楽之友社 2000年
村井誠人著『デンマークを知るための68章』明石書店 2009年
ニコリーネ・マリーイ・ヘルムス著 村井誠人・大溪太郎訳『デンマーク国民をつくった歴史教科書』彩流社 2013年
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