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早坂 文雄:左方の舞と右方の舞

大原 久子(ホルン)

■北の天才作曲家
 早坂文雄は1914年に仙台で生まれ、1918年に札幌に移り住んだ。北海中学校(現在の私立北海高等学校)に進み、音楽に興味を持ち独自にピアノや作曲を始めた。音楽部はあったがハーモニカ合奏で、人手不足の穴埋めに駆り出されたが、上達著しく全国ハーモニカ独奏選手権大会で2等になったほどであった。
もとは裕福な家であったが、16歳の時に父親が家出し翌年には母親が病死、高等学校への進学をあきらめクリーニング店に就職した。ご用聞き先の家にピアノがあると上がり込んで弾かせてもらうので首になり、印刷所に勤めては音楽活動に力を入れすぎて解雇された。
 同じ歳の伊福部昭と知り合ったのは1932年、18歳の時。ともに「新音楽連盟」を結成し“国際現代音楽祭”を開催して、早坂がピアノ、伊福部がヴァイオリンを担当。ストラヴィンスキーやサティなどの室内楽を演奏した。
 当時の札幌は人口17万人ほどの地方都市であったが、名ヴァイオリン奏者のハイフェッツなど多くの海外の一流音楽家が訪れており、洋楽への関心は高かったであろう。ネヴォという名曲喫茶があり、早坂と伊福部は毎週土曜夜に足を運んだ。10時を過ぎて彼らだけになると主人が目当ての現代音楽をかけてくれる。当時の日本のレコード会社は海外の新譜をそのまま全部プレスしており、毎月買込んでいる新譜を聴かせてもらっていたのである。
 住込みの教会オルガニストをしており、神父になることも考えていたが、日本放送協会懸賞作曲賞で『二つの讃歌への前奏曲』が2位となり、作曲家になる決心をする。
 そして1938年に『古代の舞曲』がワインガルトナー賞を受賞し、披露演奏会のために上京した際、東宝入社を強く勧められた。東宝の社長は植村泰二で、北大卒業生であり札幌音楽普及会を創設するなど札幌の音楽界に力を尽くしてきた人物。悩んだが、半年後に上京した。
 その後、年に3~4本のペースで映画の作曲を行い、特に「羅生門」「七人の侍」など黒澤明監督作品を手がけており、毎日映画コンクール発足から4年連続で音楽賞を受賞するなど、顕著な功績をあげている。映画の仕事を単なる生活の糧としてではなく、「音が映画の上においてもっと大きな地位を占めるべきだ」と考え、いろいろ試み真剣に作曲をしていた。純音楽では“新作曲派協会”を組織し、常に新しい可能性を探って作品を生み出していた。
 24歳で肺結核の診断を受け、その後幾度かの入院療養をしつつも精力的に作曲を行っていたが、1955年、41歳の若さでこの世を去った。もう少しでも長く生きることができれば、どのような音楽が生まれていただろうか。

■雅楽について
 『左方の舞と右方の舞』の左方、右方は雅楽の言葉である。
 雅楽とは、もともと古代中国の儒教の礼楽思想、つまり正しい行いと正しい音楽が相応するという考え方に基づく音楽を指し、儀式のための音楽であった。日本は古くからアジア大陸と交流があり、6世紀に朝鮮半島から、7世紀には中国から音楽が伝わり、その後も様々な芸能が渡来した。9世紀、平安時代になるとそれらが整理体系化され、中国系を「唐楽」、朝鮮半島系を「高麗楽」と呼ぶようなった。平安京の構造がそうであったように、当時は対称性、対照性が重んじられており、楽器や人の位置なども左右対称であった。唐楽が左方に、高麗楽は右方に配され、交互に演じられる。また、それまでに多種多様な楽器が伝来したが、それも淘汰された。
 野外で奏され舞をともなう舞楽は、絃楽器は用いられず管楽器と打楽器のみの編成で、唐楽と高麗楽では用いる楽器が一部異なる。左舞はメロディに合わせて振付けられているのに対し、右舞はリズムに合わせて振付けられているといった違いもある。
 雅楽は、あまり変化することなく伝承され古典的なレパートリーが中心であるが、近年は国立劇場が作曲家に新作雅楽を委嘱しており、最初の試みは黛敏郎「昭和天平楽」(1970年)で、その後多くの作曲家が手がけている。中でも武満徹「秋庭歌」(1973年)は評価が高く、その後追加作曲され「秋庭歌一具」として頻繁に演奏されている。

■日本的なもの
 早坂が、雅楽をテーマにした、あるいは雅楽の雰囲気を持つ作品を多く残したのは、飛鳥、奈良、平安朝への憧れがまずある。もう一つは作曲家チェレプニンの影響もあるのではないか。『古代の舞曲』に着手した後ではあるが、チェレプニンの指導を受け、より「日本的なもの」とは何かを意識するようになっていく。
 彼にとって「日本的なもの」の表現は、単に民族的な素材を用いるということではなく、民族の本質が現れ、かつ時代的に発展性を有するものでなければならなかった。その後は「汎東洋主義(パンエイシャニズム)」を提唱している。西洋音楽に抵抗するところに東洋音楽の新しい様式が生まれる。例えば、東洋の感性に従った無限形式、欧州のような合理的なリズムではない割切れない刻み方、東洋的な感性の無調音楽で新しい音楽を生み出そうと考えた。
 日本的・東洋的な美学を生かす作風は、多くの作曲家が影響を受け、特に早坂の映画音楽の助手をつとめ、その仕事を通じてオーケストレーションを学んだ武満徹は『弦楽のためのレクイエム』を早坂に捧げている。
 『左方の舞と右方の舞』は、雅楽的な響きではあるが、具体的な雅楽の素材は使わずに、雅楽から喚起されて作曲したオリジナルである。早坂の代表作の一つである。1941年8月19日に完成、植村泰二に献呈された。
 典雅な、優美な、清澄な、高貴な、おおらかな、透徹した、そうして簡潔にして抑制した日本美の核心的情操を表現したいと思ったのだ。われわれが日本の伝統を憶憬することは、それは宮廷のみやびを慕い、宮廷のみやびを習うことに尽きるのではあるまいか。これは悠遠のむかしから今日に至るまで、日本の伝統感覚として、われわれの心底に湧き出て、一貫して流れた国民的感覚なのである。
(再演時のプログラムの作曲者のノートより)

 左方の主題と右方の主題が交互に出現し、左方→右方→推移部→左方→右方→推移部→展開→コーダといった構成となっている。
 まず木管楽器の重音による笙を想わせる響きで左方の舞が開始される。笙は左方のみで用いられる慣例がある。この響きと同時に、打楽器が左方の鞨鼓の奏法であるトレモロを鳴らす。この序奏からAndanteへと入り息の長い旋律を奏していく。ここでは五音音階が用いられており、この旋律は2回繰り返される。そしてオーケストラが重層的になって左方の主題がffで示される。
 次にModeratoの右方の部分へと入る。一定したリズムパターンが示された後、木管楽器群のユニゾンで右方の主題が現れる。このメロディが数回繰り返されて、厚みを増して広がっていき、やがて静まると推移部を経て、笙の響きで再び冒頭のLento nobileとAndanteの左方の部分が復活し、短縮された形で奏される。次の右方の主題は従前と異なるリズムパターンを伴って現れ、弦楽器で1回だけ奏される。再び推移部では左方の要素である打楽器のトレモロで始まり、右方の主題のリズムによる半音階下降で終わる。そして突然に全合奏の強奏となり、力強い新しい主題が弦楽器で奏され、これに左方の主題が挟まれて、始めの部分では見られなかったような濃密なテクスチュアで新しい展開を見せる。クライマックスを形成し、やがて打楽器のリズムと弦楽器の重音によるコーダへと導かれていく。静的に不動に持続され、消えるように終わっていく。

初演:1942年3月3日、マンフレート・グルリット指揮、東京交響楽団、日比谷公会堂

楽器編成: ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン2、テューバ、ティンパニ、ウッドブロック、トライアングル、小太鼓、カスタネット、シンバル、大太鼓、タムタム、チェレスタ、ハープ、弦五部

参考文献
秋山邦晴(編集・構成)『新交響楽団第83回演奏会〈日本の交響作品展3「早坂文雄」〉』パンフレット 1979年
木部与巴仁『伊福部昭の音楽史』春秋社 2014年
佐野仁美『武満徹と戦前の「民族派」作曲家たち-清瀬保二、早坂文雄と「日本的なもの」の認識について』神大学表現文化研究会 2011年
寺内直子『雅楽を聴く―響きの庭への誘い』岩波書店 2011年

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