HOME | E-MAIL | ENGLISH

バルトーク:舞踏組曲

宮田 祐実(コントラバス)


 ハンガリーはヨーロッパの中でも東に位置し、西欧とは全く異なる民族的・文化的背景を持つ。しかしオスマン帝国やハプスブルグ家の支配下に置かれた期間が長く、その影響を否応なく受けてきた。音楽面では、貴族階級を相手に楽器を演奏するロマ楽団が著しく発達した。ロマはもともとハンガリーにいた民族ではなく北インドからヨーロッパへと広がっていった移動型民族だが、ハンガリーに多く定着した。その結果、ハンガリーの伝統的な民俗音楽とは異なるロマの大衆娯楽的音楽がハンガリーを代表する音楽であるという認識が西欧まで広まっていった。そうした中で埋もれていた農民の民俗音楽に光を当てたのがバルトークである。ただ、彼が行ったのは単なる自民族礼賛ではなかった。
 バルトークはきわめて野生の感覚を持った人だった。聴力や嗅覚は周囲の人が信じられないほどに優れていたし、何よりも自然を愛していた。誰も気に留めないような木を長々と見つめたり、牛の糞を杖でつつきまわしたりすることはしばしばだったという。その一方で、非常に頭脳明晰で現代的な思考も持ち合わせていた。キリスト教信者である妹に無神論を説く手紙は、無慈悲なまでに鮮やかな弁証法を駆使している。27歳の時のこの手紙に見られる批判的で自由な精神が、西欧音楽の枠に囚われなかった彼の根底にあるのだろう。そんな彼が民俗音楽に何を見出したのかをこの場を借りてお伝えすることで、本日の演奏をより楽しんでいただければ幸いである。


<バルトークの生い立ち>
 1881年にハンガリーの農村(現在のルーマニア領)で、農業学校校長の父と教師の母の間に生まれた。10歳で作曲家兼ピアニストとして人前に立ち、18歳でブダペスト音楽院に入学。ドイツ音楽を基礎とした教育を受け、初期の作品にはリヒャルト・シュトラウスやワーグナーの影響が色濃く見られる。
 このころの彼は愛国主義的な一面を持ち、母への手紙にそれが読み取れる。「僕自身は、全人生のあらゆる点において、常に、断固として、ある一つの目的のために尽くすつもりです―ハンガリーのため、祖国ハンガリーのために。(略)会話では、ハンガリー語を使ってください!!」第一次世界大戦前後における複雑な政治的状況の中で愛国精神を抱くのは当然と言えば当然だったのだろう。この気持ちも手伝って、次第にハンガリーの農民の歌に惹かれていく。


<民俗音楽収集家としてのバルトーク>
 バルトークは熱心な民俗音楽収集家だった。ハンガリーとその周辺の国々の農村を訪ね、古くから伝わる歌を12年間で9,000以上も集めた。移動手段や録音機材が今ほど発達していなかったことを考えると、異様なまでの執着だ。大変な思いをして集めた旋律を、持ち前の聴力と集中力と思考力で正確に記譜・分類していった功績はそれだけでも特筆に値する。作曲家でもあるバルトークは、ときには民謡の旋律をそのまま用い、またときには母国語のようにあやつって民謡風の旋律を生み出した。舞踏組曲は後者である。


<民俗音楽に見出したもの>
 何が彼を民俗音楽に向かわせたのか。愛国精神も一つの理由だろう。しかし、それ以上の価値をバルトークはそこに見出していた。音楽史的には19世紀以前のロマン主義への反動の時代であり、印象主義や無調音楽がもてはやされ始めていた。バルトークもこの影響をもろに受けている。そうした中で出会った民俗音楽を、彼は旧来の音楽からの突破口と捉えた。変化に富んだ自由なリズム、それまでの長短調組織から解放してくれるような旋法に「古代世界の持つ理想的な単純性」を見出し、完璧さの真の模範であるとまで言っている。さらにベートーヴェンやバッハの旋律にも古い民謡の影響が見られることを指摘し、これを裏付けている。
 バルトークは戦時下の状況が許す限りにおいて周辺の国々へも足を延ばして民俗音楽を収集した。そして、地理的にはごく限られた東ヨーロッパの地域における音楽の豊かな多様性に驚く。それらを詳細に分析した結果、この豊かさは移民や植民地化に伴う多民族間の絶え間ない交流がもたらした果実である、という結論に至る。ここにおいて彼は既に愛国主義者ではなく、民族の垣根を超える普遍的な眼を持っていたといえよう。本日演奏する舞踏組曲はまさに、諸民族の共存をテーマとして作曲された曲である。


 舞踏組曲は、1923年にブダペスト市成立(ブダとペストの合併)50周年を記念する式典のために作曲された委嘱作品である。異なる国々の民俗音楽風に作曲した5つの楽章と、それらを織り交ぜたフィナーレから成る。全ての楽章はアタッカで切れ目なく演奏され、ⅠとⅡの間、ⅡとⅢの間、ⅣとⅤの間には小さなリトルネロ(間奏)が置かれる。


Ⅰ Moderato
 テナードラムとピアノのグリッサンドに導かれ、ファゴットの提示する朴ぼく訥とつとした主題で始まる。弦楽器とピアノが不協和音で不規則なリズムの合いの手を入れながら、管楽器によるメロディが奏されていく。コル・レーニョ(弦楽器の弓の木の部分を弦に当てて音を出す奏法)やポルタメントは、何か原始的な楽器を思わせる。曲は緩急を繰り返しながら次第に激しさを増し、クライマックスに達した後、最初のモチーフがppで再起する。そして哀愁を帯びたハンガリー風のリトルネロで静かに終わる。


Ⅱ Allegro molto
土の香りがしそうな強烈な短3度の音型の繰り返しが印象的。連続するシンコペーションはエネルギーに満ちている。ぐるぐる回るような踊りだろうか。3/4拍子や5/8拍子、7/8拍子で書かれた不規則なリズムでも、踊りのステップは勢いを失わない。Ⅰと同様にハープによって導かれたリトルネロは、弦楽器のフラジオレットとともに儚げに消えていく。


Ⅲ Allegro vivace
 5音音階による快活な旋律はいかにもハンガリーらしい。この楽章ではハンガリー的な要素とルーマニア的な要素が交代で現れる。いずれのテーマも明るくカラッとしていて躍動感がある。ハープやピアノをふんだんに用いた華やかなオーケストレーションもお楽しみいただきたい。


Ⅳ Molto tranquillo
 幻想的で浮遊感を感じさせる和声、切れ切れに現れるメランコリックな木管楽器の旋律が美しい。この旋律はアラブの都市の音楽のイミテーションであり、独特な節回しは捉えどころがなく不思議な感じがする。ヴァイオリンとチェレスタによる短いリトルネロも捉えどころがないままに消えてゆく。


Ⅴ Comodo
 暗く引きずるような保続音の上で、ヴィオラとクラリネットに始まる原始的なリズムが繰り返される。チェロ、ヴァイオリン、フルートと重なっていき、執拗な下降音型が抑圧された印象を与える。突然の強奏も一定のテンポを保ったままで緊張感に満ち、またすぐに抑圧される。そして不吉な予感を孕んだままFinaleへとつながる。


Finale(Allegro)
 これまでの楽章の断片がパッチワークのように組み合わされて登場する。トロンボーンに始まるⅡの再現は丁々発止として気が抜けない。立て続けにⅠ、Ⅲ、Ⅴの旋律が顔を出す。短いリトルネロの後、ヴィオラのソロが素朴なメロディを歌い、その一人の踊りは次第に大勢の踊りになっていく。最後は華々しく盛り上がって幕切れとなる。


初演:1923年11月19日、エルンスト・フォン・ドホナーニの指揮によりブダペストにて。

楽器編成:フルート2(両奏者ピッコロ持ち替え)、オーボエ2(2番はコーラングレ持ち替え)、クラリネット2(2番はバスクラリネット持ち替え)、ファゴット2(2番はコントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット2、トロンボーン2、テューバ1、ティンパニ、トライアングル、グロッケンシュピール、テナードラム、小太鼓、大太鼓、シンバル、タムタム、チェレスタ、ハープ、ピアノ(4手)、弦五部

参考文献:
伊東信宏『バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家』中公新書 1997年
ベーラ・バルトーク(岩城肇訳)『バルトーク音楽論集』御茶の水書房 1988年
横井雅子『ハンガリー音楽の魅力 リスト・バルトーク・コダーイ』ユーラシア選書 2006年
アガサ・ファセット(野水瑞穂訳)『バルトーク晩年の悲劇』みすず書房 1973年
セルジュ・モルー(柴田南雄訳)『バルトーク 生涯・作品』ダヴィッド社 1957年

このぺージのトップへ