ハイドン:交響曲第104番ニ長調「ロンドン」
1. ハイドンとその時代
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)は、1732年オーストリアのウィーンから東に約43kmのローラウ(Rohrau)という村で生まれました。時はバロック音楽時代の末期。そして没年は1809年、古典派音楽から初期ロマン派音楽へ移行する直前。ハイドンが生きた時代は、西洋音楽史の転換期にあたります。1740年、8歳の頃にハイドンは音楽的才能を認められて、生まれ故郷からウィーンに移り住み、聖シュテファン寺院聖歌隊のメンバーになりました。聖歌隊で約9年間活動し、声変わりで退団した後、ヴァイオリンやオルガンを演奏したり、歌手として歌ったりして生計をたてていたようです。またこの頃に作曲の勉強を本格的に始め、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハから大きな影響を受けました。
1757年に25歳でボヘミアのモルツィン伯爵の宮廷楽長の職に就いたハイドンは、交響曲第1番を作曲しました。(モーツァルトはその7年後、1764年、8歳で交響曲第1番を作曲しています。)1761年、ハンガリーの大貴族エステルハージ家の副楽長に就任、1766年には宮廷楽長に昇任し、1790年エステルハージ家ニコラウス侯爵が亡くなるまで、宮廷楽長として恵まれた生活を送りました。ハイドンの音楽生活は教会音楽に始まり、その人生の大半の時間を王侯貴族お抱えの音楽家として過ごしたのです。
1791年~92年、および1794年~95年、ロンドンの興行師兼音楽家ザロモンの招きにより、ハイドンはイギリスを訪問して大成功を収めます。エステルハージ家の宮廷楽団は20名程度でしたが、ロンドンでは大ホールの公開演奏会で40名を超える楽員を使って演奏することが出来ました。興行師ザロモンは市民のために公開演奏会を企画して切符を売って営利を得、ハイドンはその演奏会での演奏を前提にした交響曲を作曲して多額の報酬を得たのです。当時、ヨーロッパの他国に先んじて市民階級が台頭していたイギリスでは、音楽は特権階級の独占から市民へ解放されており、「宮仕えの音楽家」であったハイドンは近代市民社会の「自立した音楽家」として大成功を納めた最初の作曲家とも言えます。
本日演奏する交響曲第104番は2回目のロンドン訪問の最後の年となる1795年、63歳の時に作曲されました。同じ年、ベートーヴェンはピアノ協奏曲第1番、第2番を作曲しています。また本日演奏するモーツァルトの歌劇「魔笛」はその3年前1791年に生まれていました。ロンドンでの演奏会のためにハイドンが作曲した一連の交響曲12曲(第92~104番)は「ザロモン交響曲」または「ロンドン交響曲」とも呼ばれ、後年「驚愕」「奇蹟」「軍隊」「時計」「太鼓連打」という愛称で呼ばれるようになった名曲が含まれています。わかりやすいメロディを作品の随所に入れることによって、ハイドンは演奏会に集まった市民たちから熱烈に歓迎されたのです。
この時期ロンドンでは楽団の規模がどんどん大きくなり、ヘンデルの「メサイア」を500名以上の楽団と合唱団が演奏したという記録が残っています。ハイドンもそのような大編成の演奏を聴いて影響を受け、ウィーンに戻ってからオラトリオ「天地創造」(1796~98年)、オラトリオ「四季」(1798~1801年)を作曲することになります。そして1809年、ナポレオン侵攻下のウィーンで、77年間の生涯を閉じました。
ハイドンの生涯は、作曲家や演奏家を支えてきた主体が、教会であった時代、王侯貴族であった時代、そして市民階級が聴衆の中心になった時代にまたがっています。交響曲第104番が作曲された時代は、産業革命の進展と経済活動の発展、それにともなう市民階級の台頭と王侯貴族勢力の衰退、フランス革命に始まる市民革命による社会構造の大きな変革期にあたるのです。
2. 作品の構成
交響曲第104番はハイドンが作曲した最後の交響曲です。19世紀になってから「ロンドン」と呼ばれるようになりました。
第1楽章 Adagio-Allegro
ニ短調 4分の4拍子-ニ長調 2分の2拍子、序奏付きのソナタ形式。
オーケストラのすべての楽器がフォルティッシモ(ff)でニ短調の序奏を始めます(譜例1)。その後、ファゴットと弦楽器が冒頭と同じ音型(譜例1)をピアノ(p)で演奏する中、第1ヴァイオリンがフォルツァンド(fz)で割り込んできます(譜例2)。
ハイドンがロンドンに滞在していた1790年代は、自動車も蒸気機関車も発明される前です。ガス灯も普及する以前ですから、夜の照明はロウソクやランプの灯りの時代です。日常生活には、雷の音か、馬の嘶いななきや、馬車の車輪が軋む音以外、大きな音がするものはありませんでした。ですから聴衆は、40名以上の楽員がフォルティッシモ(ff)で演奏する雷鳴のような「大音響」には度肝を抜かれたに違いありません。ある意味では現代のヘヴィ・メタルのロック・コンサートで爆音を体感するのと同じような感覚を味わったのです。曲の冒頭でオーケストラの大音響と緊張感のある密やかな音を対比させることによって、演奏会に集まった聴衆を一気に魅了しようとしたハイドンの意図を感じます。
序奏の後、提示部は弦楽器によるニ長調の第1主題で始まります(譜例3)。
第2主題はイ長調で木管楽器と弦楽器で提示されます(譜例4)。
第2楽章 Andante
ト長調、4分の2拍子、変奏曲形式。
弦楽器によるト長調の主題で始まります(譜例5)。その後、第1変奏、第2変奏、第3変奏、コーダと進みます。
第3楽章 Menuet:Allegro-Trio
ニ長調-変ロ長調、4分の3拍子、複合三部形式。
Menuet部分はA(譜例6)-B(譜例7)-Aの三部形式です。
Trioは変ロ長調で、オーボエやファゴットがヴァイオリンとともに主題を演奏します(譜例8)。
第4楽章 Finale:Spiritoso
ニ長調、2分の2拍子、ソナタ形式。
ホルンとチェロが低音のdの音を2小節演奏してから(譜例9)、民謡風の主題(譜例10)がすぐ始まります。
3. ハイドンの作品における強弱記号と「くさび形」記号
交響曲第104番の楽譜には、強弱記号が5種類しかありません。ピアニッシモ(pp)、ピアノ(p)、フォルテ(f)、フォルティッシモ(ff)、フォルツァンド(fz、その音を強く)です。ではハイドンの時代はこの5種類の強弱だけで演奏していたのでしょうか。近年の古楽研究の成果によりかつての演奏技法が少しずつ解明されてきて、演奏家は作曲家の指定には従うものの、かなり自由に強弱をつけて演奏していたことがわかってきました。ハイドンは演奏家の自由を尊重して、あえて最低限の強弱記号しか指定しなかったのです。
楽譜に書かれていることだけを忠実に演奏するという観点からはハイドンの作品はつまらない曲だとされていた時期がありましたが、実は和声の進行や音楽の方向性を正しく解釈した上で、作品に内在する音楽を自由に表現できるのがハイドンの作品なのです。そして、そのような演奏によってこそハイドンの音楽の素晴らしさが花咲き、作曲技巧の面白さや諧かいぎゃく謔が表出してくるのです。こんなところにハイドンを聴く面白さがあるのではないでしょうか。
ハイドンの作品を演奏する上で、もうひとつ重要なポイントがあります。それは「くさび形」記号 ▼または▲)です(譜例3、4、5、6、7、10)。この記号は現代ではスタッカーティシモ(staccatissimo)と呼ばれて「スタッカート(staccato)よりも鋭く音を切って演奏する」記号として使われていますが、バロック時代から古典派の時代には「その音符をはっきり弾いてほしい」という意味で用いられていました。くさび形記号は単純に「短く・鋭く」という意味ではなく、「それぞれの音を大切に、意味を持たせるように演奏する」という作曲家の意図が込められています。従って、強く演奏したり、鋭く切って演奏したり、逆に音を長く保って演奏したりすることもあり、千変万化のくさび形記号なのです。この小さな印の中には、「音符に何らかの意味を持たせて」、「この音に注意して」という意図が明白に込められているので、音楽を瑞々しく、生き生きと表現する大きな手がかりになるのです。
初演:
1795年5月4日、ロンドン キングズ劇場での慈善コンサート。4月13日との説もある。
楽器編成:
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦五部
参考文献:
岡田暁生『西洋音楽史』中央公論社 2005年
片山杜秀『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』文藝春秋社 2018年
木村靖二、岸本美緒、小松久男『詳説世界史研究』山川出版社 2017年
レオポルド・モーツァルト(塚原哲夫訳)『バイオリン奏法』全音楽譜出版社 1974年