スメタナ:連作交響曲「わが祖国」
■チェコという国
「中欧」とよばれる地域のど真ん中に位置するのがチェコ共和国である。南のオーストリアから時計回りで、ドイツ、ポーランド、スロバキアの4国に囲まれ、スロバキアのすぐ南はハンガリーである。首都プラハは、ベルリンとウィーンのほぼ中点でもある。こうやって見ると、周囲の国々はそれぞれ独自の音楽文化に溢れており、チェコの音楽はその点からも極めて興味深い。日本やイギリスなどの島国とは異なる政治・宗教・文化の歴史がある。プラハを中心としたボヘミア、ブルノを中心としたモラヴィア、さらにポーランド国境近くのシレジアの3つの地方がチェコ共和国を形成している。筆者がこの国を初めて知ったのは、チェコスロバキア時代の1964年、東京オリンピックの女子体操で3個の金メダルを獲ったチャスラフスカからであろうか。1993年にチェコとスロバキアに分離した。チェコは、ビールの国民一人当たり消費量が、ダントツで25年連続世界一でもある。プラハの市街や自然はこの上なく美しく、中欧の真珠とも言われている。
長い歴史の中で、チェコがある地域は多くの大国に支配されてきた。15世紀にはヤン・フスが教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」とみなされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱が起きた(フス戦争)。 その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。ボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。これらが、本日のプログラムの背景にある。
■スメタナ
スメタナ(Bedřich Smetana、1824年3月2日-1884年5月12日)はフランクやヨハン・シュトラウス2世とほぼ同年代で、10歳前後の先輩には、メンデルスゾーン、シューマン、リスト、ヴァーグナー、ヴェルディがいる。同じチェコのドヴォルザークは後輩であり、スメタナから直接指導を受けていた。音楽的には、何とも贅沢で華々しい時代であったであろう。ヴァイオリンの神童、ピアニストとして才能を発揮し、6歳の時には既にピアノ公演も経験した。チェコは当時オーストリア帝国の支配下、1848 年に起きたプラハ革命運動に参加し民族主義的な楽曲を書いたが、政治情勢に失望した。スウェーデンのヨーテボリに移り、音楽教師、聖歌隊指揮者として著名になった。この頃から規模の大きいオーケストラ音楽の作曲を開始している。同時に、異国での滞在により民族的な自覚が高まった。実はチェコ語が堪能になったのは成人してから。当時スメタナの生まれ育ったボヘミア北部では、ハプスブルク家の制度により公用語はドイツ語だった。チェコ語を習得すると決めてからは毎日勉強を怠らなかったという。祖国で音楽家として進むことを決意してプラハに戻り、チェコオペラという新たなジャンルの最も優れた作曲家となった。1866年に、スメタナ初のオペラ作品「ボヘミアのブランデンブルク人」と「売られた花嫁」が、プラハの仮劇場で初演され大きな人気を得る。同年には、同劇場の指揮者に就任した。「わが祖国」は大きな反響を呼び、スメタナは「チェコ音楽の祖」と呼ばれるようになり、現在に至っている。しかし耳の病に冒されていたスメタナは、初演をもはや聴くことは出来なかった。スメタナは、「わが祖国」をプラハの街に捧げている。
■連作交響詩「わが祖国」 Má Vlast (My homeland)
祖国であるチェコの歴史、伝説、風景を描写した作品である。6曲から成る連作交響詩は、2曲ずつ組で仕上げられ、奇数番目の曲(ヴィシェフラド、シャールカ、ターボル)は、歴史的あるいは回顧的な動機を用い、偶数番目の曲(ヴルタヴァ、ボヘミアの森と草原から、ブラニーク)は生きた現在の鼓動あるいは未来をあらわそうと意図されている。これによって、人民と国土が離れがたく結ばれていることを示したのであるが、今までにこのようなやり方で自分の祖国を音楽的に描いた者がなかったことを彼は意識していた。そしてこのようなとらえ方が、当時のチェコの社会の代表的な人々の考え方とは相いれないが人民には受け入れられるものだと考えていたので、そのために彼はこの作品の題名を単に祖国としないで、わが祖国=自分のとらえ方による祖国、としたのだと説く者もある。そしてスメタナが尊敬していたシューマンのやり方をまねて、この作品の曲頭にあらわれる旋律線に、自分の名-姓の頭文字であるB-S(Es)、つまり変ロ-変ホを入れているのも面白い。
1946年以来行われている「プラハの春」音楽祭は、毎年5月12日にスメタナの命日を記念して、「わが祖国」全曲の演奏で幕を開け3週間程開催される。1990年のクーベリック/チェコ・フィルなどは、他の如何なる世界のメジャーオーケストラも寄せ付けないほど激しく、美しく、魂の演奏となっている。本日の飯守/新響も少しでも近づける演奏をしたい。2020年は、COVID-19感染防止のため、「プラハの春」音楽祭は中止となった。わが祖国への想いのエネルギーが蓄積し、つぎに開催されるときが楽しみである。
1.ヴィシェフラド(高い城) Vyšehrad 変ホ長調 1874年11月18日作曲
ヴィシェフラド(古城の名前、地名)には、ヴルタヴァ河畔にそそり立つ岩上の城砦があり、チェコの王たちの居城だった。伝説の女帝リブシェが城を構えていたと言われ、神話の中の予言が表現されている。吟遊詩人ルミールがハープをかき鳴らし玉座の前で英雄の武勲や愛の歌を歌うさまを思い浮かべる。これはヴィシェフラドの動機であり,「わが祖国」全体を通じての重要な動機である。
栄光と名誉、戦闘が語られ、さらに没落と廃墟が描かれる。戦いの中にそびえ立つ塔は崩れ落ち、玉座は滅ぼされ、城は灰じんに帰する。その廃墟から昔の歌のこだまが響いてきて、全体は悲歌の調子の中に消えていく。
なお、ヴィシェフラドにはスメタナ、ドヴォルジャークなどの墓がある。
2.ヴルタヴァ(モルダウ) Vltava (The Moldau) ホ短調 1874年12月8日作曲
ヴルタヴァは、南ボヘミアから流れ出て北に向かって国を通り抜けエルベ川と合流する川で、ボヘミアのすべての水脈がこれに注ぎ込む。冷たい水源(フルート)と暖かい水源(クラリネット)から流れ出し、岩を洗う清く澄んだ渓流が水しぶきをあげ(ヴァイオリンのピツィカート)、その後せせらぎながら一つの流れに合する。林や草原を抜け、村人たちの楽しい祭りの場を過ぎていく。夜になると月光に照らされ水の精たちが踊る。岩に狭められ、谷を通って聖ヨハネの早瀬に突進する。それからプラハに向かって広々とした流れとなり荘厳に進む。ヴィシェフラドの岩を洗う。そしてざわめきながら永遠の流れは、見渡しがたい彼方に流れ去る。
スコアには作曲家の書き込みがある。ヴルタヴァの第一の源、第二の源、森の狩、農民の婚礼、月光・水の精の輪舞、聖ヨハネの急流、いっそう幅広くヴルタヴァは流れる、ヴィシェフラドの動機。これらを思い浮かべながら聴くと、その情景がはっきりと見えてくる。世界中で広く愛されているこの曲のスコアの終りには、痛々しくも「全くの聾になって」と書き添えられていた。なお、旧来「モルダウ」として親しまれた曲名だがこれはドイツ語であり、現在は学校の教科書でも「ヴルタヴァ」である。
3.シャールカ Šárka イ短調 1875年2月20日作曲
シャールカはプラハの北方にある谷の名で、ここに伝わる少女シャールカの物語、伝説の女王リブシェの時代のアマゾーネの幻想的な物語である。弓を引くのに邪魔な乳房を切り取ったということから、ア(無し)+マゾン(乳房)と名付けられた種族の伝説アマゾンはチェコにも存在する。恋人に裏切られた少女シャールカが、怒りに燃えて全男性に復讐を誓う。遠方からツティラートとその戦士たちが、思い上がった女たちを懲らしめるためにやってくるのが聞こえる。シャールカは計略を考え、わざと木に縛り付けられて苦しんでいるように見せかける。美しい少女の姿を見たツティラートは恋に落ち、彼女を解き放つ。彼女は用意しておいた酒で宴の席を設け、民族色豊かな舞曲が次第に盛り上がりドンチャン騒ぎ、ツティラートと戦士を眠らせてしまう。シャールカの吹くホルンの音を合図に、女軍は復讐の機が来たのを知る。荒々しく襲いかかる女たちの手にかかって眠っていた戦士たちは倒れ、最後にシャールカの剣でツティラートも死ぬ。シャールカの動機は、復讐心に燃える女性らしいものをよく表し、ツティラートとその戦士たちの行進曲と巧みな対照をなしている。愛の場面、酒宴の描写、酔った人たちが眠りに落ちて、2番ファゴットが低いハ音でいびきを聞かせるところへ、少女の復讐のホルンが鳴り響くと次第に狂乱的になり,クライマックスを築く。アマゾン軍が勝利を収め、最後に低音楽器でツティラートの動機の変形が浮かび上がる。
4.ボヘミアの森と草原から Z českých luhů a hájů (From Bohemia's woods and fields) ト短調 1875年10月18日作曲
田園的な音画である。この曲では古典主義に戻り、弦楽器と木管楽器で深いものを表現している。ボヘミアの国中が、森も草原も村も、伝説やおとぎ話をもった山も、偉大な過去と、それから未来を歌う。曲の注釈によると、ボヘミアの景色を眺めたときに呼び起こされるすべての感情が音で表わされている。森や草原のあらゆる側から、あるときは楽しく、あるときは深いメランコリーをこめて歌が聞こえてくる。人目につかない森の陰(ホルン独奏)、エルベの谷にある草原も、みんな歌われている。
美しい夏の日を思わせるこの曲は、力強いト短調の和音で始まる。甘美なクラリネットの旋律は朗らかな長調に変わる。弦楽器で奏される五声のフガートは、夏の午後、頭上に太陽をいただく田園の喜びである。2小節ずつ挿入され、その後に全貌をあらわすポルカの動機は、収穫の祭あるいは農民の祭をあらわす。激しいプレストに高まって終わるこのチェコ民族の賛歌は、スメタナの曲の中でも、最も牧歌的な音楽である。
5.ターボル Tábor ニ短調 1878年12月13日作曲
フス戦争の戦士を讃える曲である。ターボルは南ボヘミアにある町で、フス教徒の運動の拠点になった地名として有名である。フス教徒の中でも過激派のヤン・ジーシカを中心とする一派がこの町に立てこもり、ターボル派と呼ばれて激しい抗争を続けたため、チェコ人にとっては、常に革命を思い起こさせる地である。この曲のモットーとなっているフス派の有名な讃美歌《なんじら神の戦士》に基づく「タ、タ、ター、ター」は、ティンパニと低弦のざわめきの上にホルンが信号風に表れ、弦の総奏を中心とした旋律(譜例2)などに変化しながら、曲全体を通してしつこく数多く意義深く使われている。
そこには、確固たる意志、勝利への戦い、不撓不屈の魂が歌われている。フス派の讃美歌が動機的に分解して使われ、完全な形ではレント・マエストーゾになったところで光輝と栄光をもって現れる。金管が旋律と和声を運んでいき、まるで堅い花崗岩の上で刀が振り上げられたように響く。その他の点では、この曲は細部にわたる標題はなく、全体としてフス戦争とフス教徒の不屈の精神とを讃えている。
6.ブラニーク Blaník ニ短調 1879年3月9日作曲
前曲ターボルから続けて演奏され、ついに勝利の動機が決定的に奏される圧倒的な感覚がある。ブラニークは中部ボヘミアと南ボヘミアの境にある山で、深い森に覆われている。15世紀の終り頃から、この山には国が最大の困難に直面したときに救いに現れるはずの騎士たちが眠っているとの伝説があり、1848年の革命の前、民族運動の盛り上がった時代には重要な意義をもって広まっていった。スメタナは、若いころこの地方に住んでいたことがある。ブラニークの騎士たちの指導者は聖ヴァーツラフなのであるが、スメタナは、聖ヴァーツラフの讃美歌の代わりにフス派の讃美歌を取り入れ、この伝説を本質的に変えてしまった。ターボルと同じく、《なんじら神の戦士》が曲の構成の基礎におかれている。この讃美歌の旋律を基礎として、チェコ民族の覚醒と幸福、繁栄へと進んでいく。行進曲形式による自由の思想の勝利を高らかに歌うこの曲の終りに、ヴィシェフラドの動機が織り込まれている。こうして伝説と歴史とのつながりが象徴化され、全6曲をまとめ上げて力強く終わる。
先に述べた「プラハの春」音楽祭の最後に演奏されるのは、同じニ短調のベートーヴェン第九である。聴覚が失われる中で、かえって作曲への情熱が高まるという状況はベートーヴェンに通ずるものがある。
新響は、24年ぶりに全曲を演奏する。前回は、1997年小林研一郎氏指揮、本日の演奏者の約半数が経験者で、他半数の団員は新響では初めてとなる。新たにわが祖国、わが日本を想い演奏したい。
初演 :全6曲の初演:1882年11月5日 アドルフ・チェヒ指揮
曲毎では、1.1875年3月14日、2.1875年4 月4日、3.1877年3月17日、4.1876年12月10日、5.および6.1880年1月4日
楽器編成:ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、トライアングル、大太鼓、シンバル、ハープ2、弦五部
参考文献:
渡 鏡子『スメタナ/ドヴォルジャーク』音楽之友社 1970 年
金子建志『スメタナ 連作交響詩《我が祖国》の楽曲解説』
(千葉フィルハーモニー管弦楽団HPより)
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/mavlast-commentary
スコア Bedřich Smetana “Má Vlast” Edition Supraphon 1987
新交響楽団第156回演奏会プログラム 1997年1月25日