ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」序曲
カール・マリア・フォン・ウェーバーは1786年、現在の北ドイツ、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の東側に位置するオイティンという街に生まれた。19世紀ごろから始まる初期ロマン派時代に活躍したドイツの作曲家である。交響曲等、幾つかの純器楽の作品を残しているものの、とりわけオペラの分野でもっともその名が知られている。今回は、その中でも最も代表的な「魔弾の射手」の序曲を取り上げる。
オペラの巨匠、その意外な生い立ち
幼少期のウェーバーはモーツァルトのような先天的な音楽の才能を示すことがなく、音楽そのものにもほとんど興味がなかった。それでも、舞台監督で音楽愛好家でもあった父親の影響で、幼少期から舞台と音楽との関連性を養っていた。彼の名作のほとんどがオペラ作品なのは、これが理由と言える。
10歳前後からは本格的に音楽の教育を受け始める。父によって叩き込まれた表面的な教え方に終止符をうち、作曲法、指揮法等を理論的に学び始めた。それから「交響曲の父」とよばれたフランツ・ハイドンの弟であるミヒャエル・ハイドンをはじめ、ドイツやオーストリアに点在した当時の著名な作曲家から英才的音楽教育を受け、少しずつ音楽家としての素質を作り上げて行った。
「魔弾の射手」の誕生、ドイツロマン派オペラに与えた多大な影響
ウェーバーは彼の作品を披露するため、父のアントンと旅をしている最中に、父より耐え難い窮迫にさらされていた。旅芸人の一座に囲まれながら、街から街へと振り回されては、彼の才能は父によってありとあらゆる手段で公に晒され、それから得た僅かなお金を見せ、「才能のあるものはたったこれっぽっちの収入で生きて行かなければならない」という言葉に翻弄され続けてきたという。そういった苦悩に晒され続けているうちに、ウェーバーの中に劇的な感情が生まれた。その募り募った感情が音楽という形で爆発する。それは古典派とロマン派の境目にある1821年に「魔弾の射手」として結実し、当時のオペラ界に大きな衝撃を与えた。ウェーバーはこの後に「オイリアンテ」「オベロン」というオペラを作曲しているが、まさにこの「魔弾の射手」がドイツロマン派のオペラの発祥となり、後のリヒャルト・ワーグナーに多大な影響を与えることとなる。1820年以前のオペラは主にイタリア語が主流であり、ドイツ語のオペラはモーツァルトが3作書いただけである。 曲調も古典的で単調、オペラの内容もコミカルなものが多かったが、ウェーバーの心の奥底にあった闇と苦しみが、思わぬ形で西洋音楽史に偉大な痕跡を残すこととなり、ウェーバーは一躍ドイツオペラの巨匠として、一気に名誉を得た。
古典派音楽からロマン派音楽への変化
前述の通り、曲は古典派の作品から進化を遂げたばかりで、曲も、オーケストレーション、強弱、音域においてかなり幅が広がり、表現力や感情がより一層増したものとなっている。序曲においても同じである。とくに注目すべき点は、音楽史の中でmp,mfという強弱記号が頻繁に使われるようになったことで、全体的な強弱の域が広がったという点である。古典派以前の作曲家はpp,p,f,ffという四つの記号しか使わず(例外は少なからず有る)、それぞれの強弱がどれくらいの音量なのかは曖昧で、それほど大事ではなかった。しかしロマン派時代に入り強弱のレベルがppp,pp,p,mp,mf,f,ff,fffの8段階に広がり、両端のpppとfffを除いても強弱の幅は古典派に比べて膨れ上がっているのが分かる。
古典派時代 : pp<p<f<ff
ロマン派時代: pp<p<mp<mf<f<ff
これもロマン派時代の曲の特徴である表現性、感情性の重視傾向の要素の一つと言える。今回はそんな表現力、感情力に溢れた演奏を是非身に感じて楽しんで頂きたい。
初演:1821年6月18日 作曲者自身の指揮 ベルリン王立劇場(現コンツェルトハウス)
楽器編成:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦五部
参考文献:
J. Palgrave Simpson, The Musical Times and Singing Class Circular Vol.12, No.267, Musical Times Publications Ltd. 1865
Catherine Jones, Translation and Literature Vol.20, No.1, Readings in Romantic Translation, Edinburgh University Press 2011
Joseph Kerman, Gary Tomlinson, Listen 5th edition, Bedford/St.Martin's 2004