因縁の3曲
新響との共演は、コロナ問題で中止になったコンサートもあったので、今回が2013年以来9回目。ドヴォルザークとドビュッシー2曲というプログラムは、いずれも私にとって思い出深い曲である。
チェコ人の指揮者ズデニェック・コシュラー(Zdeněk Košler)氏は、私が東京藝術大学在学中の1960年代後半に客員教授として特別講義や学生オーケストラのリハーサルをされたが、1972年スイス・ローザンヌで開かれた国際ユースオーケストラ・フェスティヴァルに東京ユースオーケストラと共に参加すると、コシュラー氏も客演指揮者として携わっていらして再会した。フェスティヴァル終了後、私は予定通りウィーン高等音楽院で、ハンス・スワロフスキー教授のクラスを聴講した。ウィーンでは当時共産圏であったチェコスロヴァキア入国ヴィザを簡単に取得できたので、ウィーンから僅か56㎞東に位置するブラティスラヴァのスロヴァキア国民劇場音楽監督とプラハのチェコ・フィルハーモニー常任指揮者を兼務されていた氏の許に足繁く通い、リハーサルやコンサートを見学したり、美味しいチェコ料理とピルゼンビールをご馳走になりながら楽譜上の問題点から音楽家・指揮者としての生き方まで、様々なアドヴァイスを戴いた。プラハでは、モーツァルトが1787年10月29日に<ドン・ジョヴァンニ>を初演指揮したスタヴォフスケー劇場で<ドン・ジョヴァンニ>を聴き、カミュと並び高校時代から愛読していたカフカの仕事場をプラハ城から下る「黄金の小路」で覗いた他、コシュラー氏はヴルタヴァ(モルダウ)川に繋留されている船を改造したボテル(botel)に泊まる事を薦めて予約の労を取り、休日にはドライヴに誘ってボヘミアの森と草原を案内して下さったから、音楽に昇華・結晶される前のチェコスロヴァキア風物・文化に触れる事が出来た。私が影響を受けたもう一人の師、セルジュ・チェリビダッケ氏に初対面したのもブラティスラヴァであった。
1970年代末から、私自身もスロヴァキア・フィルハーモニー、ブラティスラヴァ放送管弦楽団等を何度かコンサートで振ると、出演料は国外持ち出しが禁止されているチェコ・コルナで支払われた。プラハの空港には、外国人がチェコ通貨で口座を開ける銀行があったものの、入金して1年経つと国に没収されてしまう。3回目の客演から、半額は西ドイツマルク払いになったが、残りのコルナを使い切るのに苦労するという共産圏ならではの奇妙な体験をした。演奏会翌日、ドヴォルザーク・スメタナ・ヤナーチェク等の大型スコアの他、ボヘミアン・ガラスや絹のテーブル・クロス等を買い漁り、重くなった旅行鞄をパリの家に持ち帰った。ちなみに、今回使うドヴォルザークのスコアは、当時のギャラの一部である。
数式と睨めっこをしていた大学時代、新橋と有楽町の間の高速道路下でコリドー街と呼ばれていた一角に、輸入レコードの専門店があった。或る日、まだ日本でプレスされていなかった<春>の英デッカ盤を見つけて、全く知らない曲だったからワクワクしながら鎌倉の家へ急いで帰って聴き入った記憶がある。ブダペストで出版されたこの曲のスコアも、プラハの楽譜屋で買ったものだ。
<海>のスコアを入手したのは中学2年の頃。当時、日本で出版されていたスコアはベートーヴェン等ほんの一握りで、ドビュッシーやラヴェルはポケット版でも高価な輸入版しか無かった。第1曲の中程で、岩に打ち上げる波が煌めきながら弾けるかのようにチェロパートが分かれて弾く場面はどの様に記譜されているのか知りたくて、なけなしの貯めた小遣いを叩(はた)いてフランス・デュラン版のスコアを初めて買った。¥1250と書かれたヤマハの正札が今でも付いている。最初のページには、フランス国立オーケストラと来日演奏したシャルル・ミュンシュのサインもある。数学の問題集に疲れると自転車で突っ走り、稲村ヶ崎の岩場に座って江の島とバックに聳える富士山を見ながら読み耽ったので、現在の版よりも上品だった淡いブルーの表紙はすっかり変色して茶色になってしまった。
波間の富士と言えば北斎の「神奈川沖浪裏」。この版画はドビュッシーに<海>のインスピレーションを与え、1905年に出版された初版スコアの表紙に、その一部が使われた。ブーローニュの森近くにあるドビュッシーの家で、若いストラヴィンスキーと一緒のところをサティが撮った写真では、後ろの壁に、この版画が懸かっている。
<海>を演奏する度に思い起こすのは『金槐和歌集』に収められた実朝の一首である。
大海(おほうみ)の 磯もとどろに 寄する波
破(わ)れて砕けて 裂けて散るかも