伊福部昭:シンフォニア・タプカーラ 改訂版
昭和15年(1940)に開催されるはずだった「東京オリンピック」は中止となった。それでも国威発揚を狙った「紀元二千六百年奉祝行事」は各地で行われている。あまり知られていないが「聖火リレー」もあった。『北海道樺太年鑑昭和16年版』1)の「明治神宮奉祝文聖火継走行事」の記事によれば、道内各方面から集まった「聖火」は7月7日夜に札幌神社(現北海道神宮)に到着、道内273市町村長の奉祝文が神社外苑綜合運動場にて北海道庁長官に渡され、続いて大イベント「聖舞頌楽祭」が行われた。記事には「伊福部昭氏の揮指(ママ)下に、札幌小樽全楽団の団員六百人が越天楽の奏楽あり、此れに勇崎愛子氏等の古典的な舞踊を配し、世紀の大聖行事は午後九時三十分終了」とある。
伊福部昭は26歳、当時すでに作曲家として知られ、当時の『音楽年鑑』2)にも「作曲家連盟員。札幌農大出身。チェレプニン賞一等入賞」と紹介されている。この日に演奏された「交響舞曲 越天楽」も自作だ。この受賞が作曲者として認められる契機となったが、北海道帝国大学農学部林学実科を卒業後、林務官として働き始めた弱冠21歳であった。当時の国家公務員(主に高等官以上)を収録した昭和13年(1938)の『職員録』3)には「北海道庁厚岸(あっけし)森林事務所農林技手 月63」とある。月給63円は現在の貨幣価値でざっと計算すれば約19万円。作曲は独学で、審査員名にモーリス・ラヴェルの名を発見し、見てもらいたい一心で送ったという。作品を東京で取りまとめた音楽関係者は、はるか道東の若い林務官による作品の破格さに当惑した。外してしまおうとの意見もあったが、送ってみればまさかの第1位。これがデビュー作「日本狂詩曲」である。
「聖舞頌楽祭」の年に林務官を辞しているが、音楽で食べていくのは厳しく、引き続き北大農学部の林学教室嘱託4)として勤めるかたわらの作曲活動であった。ちなみにこのイベントで舞踊を担当した勇崎愛子(本名アイ)とは翌年に結婚するが、伊福部の作品に「シンフォニア・タプカーラ」を含めて舞踊にかかわるものが多いのは彼女の影響が大きいようである。今から43年前の昭和55年(1980)4月6日、本日演奏する「シンフォニア・タプカーラ」改訂版初演時の当団のプログラム冊子5)に、当時65歳の作曲家自身が次のような言葉を寄せている。
作者は、アイヌ語でシャアンルルーと呼ぶ高原の一寒村に少年期を過しました。そこには、未だ多くのアイヌの人達が住んでいて、古い行事や古謡が伝承されていました。
タプカーラとは、彼等の言葉で『立って踊る』と云うような意をもち、興がのると、喜びは勿論、悲しい時でも、その心情の赴くまま、即興の詩を歌い延々と踊るのでした。
それは、今なお、感動を押え得ぬ思い出なのです。
その彼等への共感と、ノスタルヂアがこの作品の動機となっています。(以下略)
少年期を過ごした「シャアンルルー」を知るために、手元の『地名アイヌ語小辞典』6)に見出し語「an-rur」を見つけた。「あンルル」(ひらがなはアクセントを示す)は「反対側の海にのぞむ地方;山向うの海辺の地。――太平洋岸のアイヌは日本海岸を、日本海岸のアイヌは太平洋岸を、それぞれ「あンルル」と呼ぶ」とあった。「シャアンルルー」の「シ」は「①真の、本当の ②大きな」という意味をもつ。an-rurの項目に戻れば、「トカチの古名を「し・アンルル」si-anrur(ずうっと山向うの海辺の地)というが、それはイシカリ地方のアイヌがそう呼んだのだという」。十勝の音更(おとふけ)村(当時は河西支庁管内)で少年時代を過ごした作曲者だから、これに相違ない。
伊福部家は因幡国の一ノ宮である宇倍神社(現鳥取市国府町)の神官として古代から続く家である。その「66世」にあたる利三(としぞう)と母キワの三男として大正3年(1914)5月に生まれたのが昭だ。父の利三は慶応3年(1867)生まれで、明治23年(1890)に神奈川県警察の巡査となった。その後は日清、日露の両戦争に出征、戦後は同39年に北海道警察部へ移り、函館水上警察署長、倶知安(くっちゃん)警察署長などを歴任して大正3年(1914)3月に釧路警察署長に就任した。昭が生まれた時に利三は46歳で、同11年3月に54歳で帯広署長を最後に退職7)、翌年に音更村長となった。当時の市町村長は官選なので内務省人事の一環である。この時に昭は9歳。
明治政府は北辺の守りを堅固にするために北海道の殖民と開拓事業に力を入れていたが、先住民のアイヌにとっては大きな災難であった。土地を奪われて困窮するアイヌが増え、明治32年(1899)に「旧土人保護法」が施行される。土地を取り上げておきながら「保護」するのはアメリカの先住民に対する処遇と同様だが、狩猟採集の伝統的な生活から引き離しての「営農指導」に政府は熱心であった。9歳で釧路から帯広に近い音更に移ってきた少年は、自らの生活と文化を否定されながらも懸命に日々の暮らしを送るアイヌたちの歌や踊りを目の当たりにした。その肉声や旋法、リズムなどに大きな影響を受けたことは想像に難くない。
第1楽章 Lento molto-Allegro
ゆったりと時間が流れる広大なシャアンルルーのレント・モルト。やがて踊りを感じさせるアレグロが近づいてくる。タプカーラとはアイヌ語で「立って踊る」の意だが、3拍子の3拍目、4拍子の4拍目にアクセントがつく。「即興の詩」の字余り・字足らずが独特な興を添える。
第2楽章 Adagio
ハープの下降音型は夕暮れか。ゆったり流れる笛の調べ。音更村の大地に満ちていた空気を、コールアングレと名のつく西洋楽器が奏でる。
第3楽章 Vivace
始まりは「緊急地震速報」の元となったE-H-F-B-F-Gis-Bという不協和音(作曲者の甥・伊福部達東大名誉教授-音響学が採用)。短調でありながら、深刻かつどこか脳天気な雰囲気をも併せ持ちつつ、たたみかけるように突き進んでフィナーレ。
伊福部昭は平成18年(2006)にこの世を去るが、病床でも箏演奏家の野坂恵子に献呈する予定の二十五絃箏曲『ラプソディア・シャアンルルー』を構想し、書き始める直前であったという8)。失われてしまったアイヌたちの「ずうっと山向うの地」への想いは最後まで消えなかったようだ。(文中敬称略)
初演:
原典版:1955(昭和30)年1月26日 米国インディアナポリスにてフェビアン・セヴィツキー指揮 インディアナポリス交響楽団、翌31年3月16日に上田仁指揮東京交響楽団で国内初演
改訂版:1980(昭和55)年4月6日 東京文化会館大ホールにて芥川也寸志指揮 新交響楽団第87回演奏会-日本の交響作品展4
楽器編成:
ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、トムトム3、小太鼓、キューバン・ティンバレス、ギロ、ハープ、弦五部
出典:
1) 『北海道樺太年鑑』昭和16年版 小樽新聞社編 昭和15年 p. 33
2 )『音楽年鑑』昭和16年度 大日本音楽協会編纂 共益商社書店 昭和16年 p. 119
3 )『職員録』昭和13年7月1日現在 内閣印刷局編 同 昭和13年 p. 796
4 )『現代出版文化人総覧』昭和18年度版 協同出版者編 協同出版社 昭和18年発行 p. 342
5 )「新交響楽団第87回演奏会-日本の交響作品展4 伊福部昭」プログラム 1980年4月6日
6 )『地名アイヌ語小辞典』 知里真志保 北海道出版企画センター 1956年
7 )『北海道人名辞書』再版 北海民論社 大正12年発行 p. 567
8 )ウィキペディア「伊福部昭」(出典『音楽現代』2006年4月 p. 95)
この他に伊福部昭公式ホームページ(暫定版)http://www.akira-ifukube.jp/を参照