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ルトスワフスキ:小組曲

竹本 有希(トランペット)

■ポーランドの音楽家と言えば?
…と聞けば、「ショパン!」と答える人が大半であろう。ルトスワフスキは、ショパンの生まれた約100年後、激動の時代を生きた20世紀ポーランドを代表する作曲家である。ルトスワフスキにのみフォーカスした日本語の書籍はおそらく存在しないので、今回は「どこよりも詳しい日本語解説」を目指して執筆した。より理解を深めてもらうためにも、ルトスワフスキ生前のポーランドの歴史から紹介していく。

■ルトスワフスキ生前の話
ルトスワフスキが生まれるのは1913年のことであるが、まずは16世紀、ポーランドがポーランド・リトアニア共和国(以下共和国と略す)として存在しており、ロシア帝国の次にヨーロッパ大陸最大の国家として力を誇っていた時代まで遡る。
当時、共和国では音楽活動が盛んに行われており、例えば1630年代にはアルプス以北でもっとも早くオペラが出現していた。(オペラの誕生は1600年頃、イタリア・フィレンツェにて。)また、ポーランド国王付きの音楽集団が当時ヨーロッパでもっとも優れた音楽家とされていたことや、18世紀半ばには約100名の作曲家が活動しており、数えきれない音楽関係の手稿や印刷物が残されていることからも音楽活動の活発さが伺える。
しかし、隣国との戦争、国内の不安定、穀物需要の低下による経済危機から生じた政治危機により共和国は弱体化し、遂には「ポーランド分割(共和国分割)」が起こってしまう。「ポーランド分割」とは、1772年、1793年、1795年の三度に渡って隣国(ロシア、プロイセン、オーストリア)に領土を奪われ、完全に領土を失ったことを指す。つまりは1795年、ポーランドは地図から消えたのである。
国家の喪失は音楽活動にも大きく影響し、ポーランドの音楽機関は占領国によって活動の自由が制限されることとなった。特にロシア領では強い制約を受けた。1918年にポーランドが再び独立するまでの123年間、ポーランド国民は愛国心を奮い立たせ、幾度も武装蜂起と敗北が繰り返された。
ショパンがワルシャワ近郊にて生を受けたのは1810年、ポーランドが地図から消えてから十数年経過したときのことである。他のポーランド国民の例に漏れず、ショパンも愛国心を抱き、マズルカやポロネーズを合わせて60曲以上作曲しており、1曲目を作曲したのはわずか7歳のときだった。マズルカは16世紀頃に民衆の踊りとして、ポロネーズは同じ頃に宮廷貴族の踊りとして、当時のヨーロッパに急速に普及したポーランド舞踊である。
1772年(1回目の分割が起こる直前)、フランスの哲学者かつ音楽家のジャン=ジャック・ルソーは次のような言葉を残している。
「隣国がポーランドを飲み込むのを邪魔することは、あなたたちポーランド人にはできない。しかし少なくとも、隣国がポーランドを消化することはできないことをあなたたちは認識すべきである。ポーランド市民の美徳、熱心な愛国主義、そして国民的制度が彼らの魂に刻んだ独特の特徴、これらは常に防衛体制にある唯一の塹壕(ざんごう)であり、いかなる軍隊もそれを粉砕することはできない。」
この言葉の通り、ポーランド舞踊を始めとした民族音楽や文学等の伝統文化によって、独立までの百年余りの間もポーランド国民が消化されることはなかったのである。
1918年にポーランドは再び独立を果たすわけであるが、この復活に際して一役買ったのは、ピアニストのパデレフスキ(1860−1941)である。彼はポーランド共和国初代首相も務めている。音楽家でもあり政治家でもある稀有な存在で、深掘りのしがいがありそうだが、今回は省略させて頂く。

■ルトスワフスキ生後の話
さて、ここでようやく登場。ルトスワフスキは1913年、ワルシャワ北部の自然豊かな地にて貴族階級の地主の息子として生を受ける。第一次世界大戦(1914−1918)が勃発すると、侵攻してくるドイツ軍から身を守ろうと家族でモスクワに移るが、1918年に「反革命的」であるとして父親が処刑されてしまう。残された家族はポーランドに戻り、ルトスワフスキは、6歳からピアノ、13歳からヴァイオリンを学び始めた。1931年にワルシャワ大学に入学して数学を学ぶが、作曲に専念するために、翌年ワルシャワ音楽院に入学し直し、1937年までリムスキー=コルサコフの弟子マリシェフスキに師事した。
1939年9月、ヒトラーが支配するドイツ第三帝国とスターリンが支配するソ連によって、ポーランドは侵攻された。これが第二次世界大戦(1939−1945)の始まりでもある。
ルトスワフスキはポーランドが侵攻されると軍に召集されたため、予定していた作曲研究のためのパリ旅行はキャンセルとなってしまった。その後、6週間もしないうちにポーランドが占領されたことでドイツ軍の捕虜となるが、8日後には脱走し、400kmの距離を歩きワルシャワに戻った。
1939年から1945年、ドイツの占領下では、強制収容所、路上処刑、逮捕などの多くの迫害に加えて、ポーランド文化はひどい損失を被った。大学、図書館、劇場等は機能せず、すべての文化活動は禁止された。ただし、散発的に行われるコンサートは娯楽としてかろうじて許容されており、ルトスワフスキはピアノデュオを組み、ワルシャワ市内の喫茶店で演奏して生活費を稼いだ。これは、ドイツの奥地での労働に駆り出されないための手段でもあった。ポーランド音楽の演奏は原則として禁じられたが、検閲のための偽のプログラムを提出することで切り抜けることができた。
1944年のワルシャワ蜂起で市内が壊滅的な被害を受ける前、ワルシャワが安全でなくなってくると、ルトスワフスキは母とともに市から脱出した。そして戦争が終わり、ポーランドがソ連の衛星国として再び独立したのち、ワルシャワに戻ってきた。
1945年にはマリア・ダヌタ・ボグスワフスカと結婚し、その援助を受けながら作曲を本格的に始めた。ソ連の衛星国という立場ではあるものの、荒廃したポーランドの再建への強い思いから、ルトスワフスキは音楽学校や小編成、子供のための作品を多数作曲し、たびたびポーランドの民俗音楽を用いた。1947年には大作となる交響曲第1番も完成させている。
1949年、ポーランドでスターリン主義(スターリンの思想と実践の総体。また1929〜53年にソ連で形成された共産党とスターリン自身の独裁体制を指す。)が始まり、芸術家に「社会主義リアリズム」の原則を押し付け、「形式主義」を根絶しようとした。「社会主義リアリズム」にとって都合のいい音楽とは、「労働、共産党、社会主義建設、平和闘争」をテーマにしたカンタータやオラトリオ(民俗的で明快で分かりやすい音楽が好まれた)であり、複雑なリズムや不協和音を用いた前衛的な音楽が「形式主義」として批難された。「当時、"形式主義"という言葉が何を意味するのか、そしてその"リアリズム"が音楽にどのように実装されるのかを誰も知らなかった。」と後年のルトスワフスキは語っている。ルトスワフスキの交響曲第1番も「形式主義」として非難された。
1953年のスターリンの死とともに、当局の態度が和らいだことを皮切りに、ルトスワフスキは新しい表現形式を試み始めた。「管理された偶然性」を用いたパッセージは1960年代以降のルトスワフスキの音楽の特徴となっている。偶然性の音楽としては「4分33秒」(静寂も音楽の一部であるという考えから生み出された、演奏者が曲が続く間(4分33秒間)音を出さずに座っている作品)で知られるジョン・ケージが有名であるが、「管理された偶然性」とは、奏者ごとに異なるテンポや繰り返しを指定することで混沌とした響きを生み出す書法である。
1956年、ポーランド作曲家たちによって自分たちの作品を披露する場とするために「ワルシャワの秋音楽祭」が創設された。新しいテクニックを実験的に試す自由を得て、ポーランド独自の新しい作曲手法が生み出されていった。これらの作曲家たちは「ポーランド楽派」と呼ばれ、ルトスワフスキもその一人である。「ワルシャワの秋音楽祭」は現在まで続いている。
1966年、ルトスワフスキが50歳を超えた頃、彼にとっての転機が訪れる。それまで欧米諸国での出版が長い間禁止されていたが、イギリスの出版社との繋がりをもったことで、世界各地での演奏が可能となり、ポーランド国内でしか知られていなかったルトスワフスキの名前が、ようやく世界でも知られるようになったのである。
1980年には独立自主管理労働組合「連帯」が結成され、民主化運動が活発化し、1989年に非社会主義政権が成立。現在の体制のポーランドとなった。
ルトスワフスキは人生最後の10年間には数々の傑作を生み出している。1980年代以降には、「チェーン技法」に取り組んだ。これは楽曲内で対比的な音響効果を持つセクションが、その始まりと終わりで互いに重なり合い、かみ合うようにして進行し、楽曲全体を構成していく手法である。
1994年、がんにより永眠。その直前にはポーランド最高位の白鷹勲章を授与されている。現在でも世界を代表する20世紀音楽の巨匠として高く評価されている。

■曲目解説
第1曲:Fujarka(笛)
第2曲:Hurra Polka(万歳ポルカ)
第3曲:Piosenka(歌)
第4曲:Taniec(踊り)

1950年にワルシャワ放送からの依頼で作曲した室内オーケストラ曲を、翌年通常のオーケストラ用にアレンジした作品。社会主義リアリズムの制約を受けている時期に作曲されている。
短い4曲で構成されており、主題はすべてポーランド南東部のマチュフ村の民俗音楽が用いられている。第1曲のタイトル「Fujarka(フヤルカ)」とは、ポーランドの民族楽器の木製の縦笛のこと。
日本で最初に演奏されたルトスワフスキの曲であるとの記述を見つけたが、詳細は不明。

この曲をトランペット奏者目線で見てみると、短い曲ながら色々な役割かつ多彩な音色感を求められているように感じる。特にミュートを効果的に使っており、その使い方が非常に細かい。(ミュートとはトランペットのベルに装着して音量や音色を変える器具のこと。形や材質によって音色が変わる。)
第4曲では、1拍(!!)でミュートを外し、四分音符1音だけ吹き、その2小節後にまたミュートを付けて演奏する箇所がある。この早技のためには、吹きながら既に片手でミュートを持っている必要があるのだが、これは私には非常に困難を極める。どうやら私は腕が短いらしいのである。私より小柄な人でも、私より余裕で届いているのを何度も見たことがある。こればっかりは練習でどうにかなるものではないのが、悩ましいところである。しかも今回は、1拍でミュートを外すハラハラゾーンが、繰り返しがあるために2回もあるのだ。
ミュートの着脱に苦戦しているところには注目していただく必要はないが、ミュートの有無や奏法の違いによる多彩な音色感を感じていただければ幸いである。


初演:
1951年4月20日 ワルシャワにて グジェゴシュ・フィテルベルク指揮 ポーランド国立放送交響楽団

楽器編成:
フルート、ピッコロ(2番フルート持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、小太鼓、弦五部

参考文献:
ダヌータ・グヴィズダランカ(白木太一、重川真紀訳)「現代ポーランド音楽の100年」音楽之友社 2023年
加藤正泰、石川晃弘編「ポーランドの文化と社会」大明堂 1975年
スティーヴ・コリッソンほか(藤村奈緒美訳)「西洋音楽史大図鑑」ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス 2022年
DK社編(日本語版監修岡田暁生)「図鑑世界の作曲家」東京書籍 2021年
ジョン・バロウズ原書監修(日本語版監修芳野靖夫)「クラシック作曲家大全 」日東書院 2013年
フェニックス企画編集(中河原理監修)「クラシック作曲家辞典」東京堂出版 1992年
柴田一史「世界の作曲家」久遠出版 1992年
新村出編「広辞苑(第7版)」岩波書店 2018年
Narodowy Instytut Fryderyka Chopina(フレデリックショパン研究所)「Witold Lutosławski」
https://greatcomposers.nifc.pl/en/lutoslawski/composer
Polish Music Center(ポーランド音楽情報センター)「Witold Lutosławski List of Works」
https://polishmusic.usc.edu/research/composers/witold-lutoslawski/list-of-works/
Wise Music Classical「Witold Lutosławski -Little Suite」
https://www.wisemusicclassical.com/work/7703/Little-Suite-Mala-suita--Witold-Lutosławski/
ピティナ・ピアノ曲事典「ルトスワフスキ」
https://enc.piano.or.jp/persons/408
(アクセス日:2024年8月25日)

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