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シチェドリン:ピアノ協奏曲第2番

瀧野 啓太(トランペット)

生い立ちとショスタコーヴィチとの繋がり

 ロディオン・シチェドリンは1932年、ベートーヴェンの誕生日とされる12月16日にモスクワで生まれた。父のコンスタンティンはヴァイオリンやピアノを演奏したり、音楽の教師をしたりして生計を立てていた。母のコンコルディアは元々コンスタンティンのピアノの教え子である。
 父のコンスタンティンは、天上の神と、地上の神としてチェーホフとスクリャービンを崇めていた。ロディオンが生まれた際も当初はスクリャービンの作品にあやかりプロメテウスと名付けられそうになったものの、母が断固として拒み、妥協案としてこれまた夫婦共に思い入れのあるロベルト・シューマンにあやかり、ロベルトをよりロシア正教らしい名前にしたロディオンで落ち着いた。
 なお、「シチェドリン」はキリル文字ではЩедринと表記するが、最初の二文字を「シチェ」と発音するのは古風とされ、現代ロシア語の標準的な発音では「シェドリン」の表記が近い。ウクライナ発祥の料理ボルシチ(борщ)もロシアでは主に「ボールシ」と発音される。
 音楽家の父の影響もあって幼少期から音楽に親しみ、「バッハのインベンションを暗譜したら釣りに連れて行く」といった類の報酬の甲斐もあり、ピアノの腕前も着実に上げていき、1941年にはモスクワ音楽院付属中央音楽学校への出願準備を進めるも、第二次世界大戦の影響により中断してしまう。シチェドリンは親戚一同と、モスクワがドイツ軍に占領された場合の首都移転候補であったクイビシェフ(現サマーラ)に避難する。
 ショスタコーヴィチも同年クイビシェフにやってきて、シチェドリンの両親に仕事を紹介するなどして家族ぐるみで面倒を見ていた。そんな付き合いもあり、シチェドリンは父に誘われ、ショスタコーヴィチが完成させたばかりの交響曲第7番の通し稽古の見学をするものの、まだ9歳だったこともあり、あまり理解できなかったと語っている。 シチェドリンとショスタコーヴィチの交友はその後も続き、ショスタコーヴィチが委員長を務めたソビエト連邦作曲家同盟においても、ショスタコーヴィチの推薦もあり、後にシチェドリンは委員長を16年間務める。

日本、芥川也寸志との繋がり

 1988年某日、米国ボストンの音楽祭からモスクワに戻ったシチェドリンは、作曲家同盟の事務室に日本から風変わりなファックスや電報が届いていたことを知る。ホリプロという聞いたことのない企業から、日本語ミュージカルのための音楽を作曲しに東京に来ないかというオファーだった。当初はいたずらかと思い無視していたところ、数日後に駐日ソビエト大使からソビエト文化省に「ホリプロの代表団をモスクワで迎え入れるようシチェドリンを促してくれ」といった連絡があったことを聞き、本当の話だったと知る。オファーを聞いてみると、ロシアの児童文学作家マルシャークによる『森は生きている』といったロシアでは有名な戯曲を日本風に脚色した日・ソ・米合作ミュージカルであり、ギャラもなかなか良く、専属シェフまで条件に含まれる厚遇ぶりであった。しかし、納期までなんと2ヶ月半しかない。到底間に合わないと思い断ろうとしたものの、妻であり20世紀最高のバレリーナとも称されるマイヤ・プリセツカヤから「あなた日本食好きなんだから行ってらっしゃいよ」と背中を押され、オファーを受けることになった。
 当初は新宿のヒルトンホテルに滞在予定だったものの、「窓が開けられず息苦しい」といった理由で伊豆半島は下田の旅館に移してもらい、2ヶ月間の間、一日に数回海水浴をし、美食を堪能するといった生活をしながら、なんとか作曲を完成させた。人生で最も奇妙な2ヶ月間であったと語っている。2015年に閉館した青山劇場で行われた初演には、芥川也寸志に加え、同じく作曲家の松村禎三と間宮芳生も客席にいた。三人は終演後、ピットオーケストラが30人しかいないとは思えない音の厚みに感心した様子で、譜面台を数えにピットまで降りて来たという。
 なお、ホリプロ創業者の堀威夫氏(シチェドリンと同年生まれ)の回想によると、完成したミュージカル『12ヶ月のニーナ 森は生きている』は大赤字だったそうである。シチェドリンの他にも外国からゲストを何人か招き、アメリカからはジェニファー・リー・ウォーレンといった、驚異的なファルセットを操る抜群の歌唱力を持ったブロードウェイミュージカルの大物女性歌手を招き、日本語の歌詞やセリフを覚えさせている。彼女の高音域にはシチェドリンも驚き、旧約聖書に出てくるエリコの戦いで、エリコの壁を崩壊させたトランペット並みの迫力だったと語っている。中央Cの3オクターブ上のE♭だったそうである。ウォーレン指定のヘアスタイリストの来日も契約に含まれていたという、なんともバブル経済を感じる興行であったようだ。
 翌年の1989年にも、サントリーホール開館3周年を記念して、管弦楽のための協奏曲第4番「ホロヴォディ(輪舞)」といった委嘱作品を提供し、その演奏会に立ち会うため来日している。生贄のいない平和なストラヴィンスキー『春の祭典』とでも形容したくなるような神秘的な曲なのでぜひご一聴いただきたい。
 それにしてもなんでミュージカルの作曲なんかしたことがない自分が抜擢されたのか?とシチェドリンが後日ホリプロに聞いたところ、なんと「コンピューターによってあなたが適任と導き出されたのです」とIT革命をだいぶ先取りした回答が返ってきたという。これからはもうAI自体が作曲をこなす時代が来るのであろう……。

曲について

 前置きが長くなってしまったが、本題のピアノ協奏曲第2番は1967年にシチェドリン本人がピアノを弾いて初演された曲である。
 全体的に調性感は薄く、不協和音の多用、十二音技法、などの特徴から見れば難解な曲となりそうだが、案外聴きやすい(個人の意見です)のは、グルーヴによる一つの律動感があるためとも思える。
 シチェドリンと同世代のソ連時代の作曲家、アルフレート・シュニトケは様々なスタイルの音楽を曲に含める多様式主義で名を馳せたが、この曲でジャズが挿入されたりすることもそうした流れの事例と言える。シチェドリンの時代はショスタコーヴィチが経験したようなソ連当局からの厳しい検閲はだいぶ和らいでおり、1950年代まではジャズを聴くことすら憚られる雰囲気だったが、ピアノ協奏曲第2番の初演時は、ジャズを挿入したことより、十二音技法的な要素への批判のほうが目立ったという。
 前述のミュージカル『12ヶ月のニーナ 森は生きている』のパンフレットに掲載されている制作陣との対談でシチェドリンは「アイデアが私を燃やすに十分だったわけです。人間の脳は、反応するか拒否するかのどちらかです。恋愛と一緒です。」と作曲へのスタンスを述べているが、この曲でもそのようにリズムのモチーフであったり、インターバルのモチーフであったりと小さなアイデアを柔軟に発展させていったような印象を受ける。

第1楽章 Диалоги (Dialogues 対話)
 序奏はなく、いきなりピアノの十二音技法のフレーズから始まり、音数が多いピアノに対してオーケストラが短い単発の音で呼応する。序盤のピアノ独奏では広めのインターバルを駆使したモチーフを展開させていく。今度はピアノが短い音を3度打って3/4拍子の始まりを示すと、ピアノが弾いてはオーケストラが応え、といった応酬が続き、全体で山場を迎えると、ピアノによる冒頭のモチーフが戻ってくる。最後はクラリネットとヴィブラフォンがユニゾンで十二音技法のような音列(8音までしかない)を並べ、フルートのハーモニクスも加わってひっそりと終わる。

第2楽章 Импровизации (Improvisations 即興)
 第1楽章最後の静けさを吹き飛ばすようなタンブリンと諸楽器群の短い音でスケルツォ風の速い3/8拍子が始まる。ショスタコーヴィチも多用した「タンタカタカ」という、8分音符1つに16分音符4つといった躍動感をもったリズムのモチーフが終始繰り広げられる。中間部では3/4拍子になって雰囲気が緩み、フルートが妖艶な旋律を優雅に吹いている中でピアノは無窮動のような怒涛の音列を並べる。再び3/8拍子に戻り、冒頭の一発のように短い音に雪崩れ込んで終わる。

第3楽章 Контрасты (Contrasts 対比)
 木管楽器とチューブラーベルによる神妙な不協和音で幕を開け、ピアノの調弦でもしているかのようなフレーズが続いたあと、ピアノは休み、弦楽器による壮大なアンサンブルが展開される。それも束の間、ピアノの復帰とともにテンポが速くなり、和音も少し陽気になる。その後、唐突にウォーキングベースとジャズドラムが挿入され、ジャズ風になる。初めてこの曲の録音を聴いていた人が再生機器の不良を疑ったであろうことが想像できる。そのようにオーケストラパートとジャズパートの対比が何度か繰り返され、ジャズパートにヴィブラフォンも参戦し、いよいよ往年の名カルテット「モダン・ジャズ・カルテット」のような響きとなり、最後はオーケストラとピアノが一体となって、裏拍から入るフレーズを畳みかけながら少しずつ音域も上昇していく。飽和状態に達したというところで潔く幕切れとなる。

初演:
1967年1月5日、モスクワにて。ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮、ピアノ:ロディオン・シチェドリン、全ソビエト連邦ラジオ・中央テレビ放送交響楽団

楽器編成:
ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、クロタル、ウッドブロック、タンブリン、小太鼓、ドラムセット、チューブラーベル、ヴィブラフォン、弦五部

参考文献:
Schmelz, P.J. (2021) Sonic Overload – Alfred Schnittke, Valentin Silvestrov, and Polystylism in the Late USSR. New York: Oxford University Press
Shchedrin, R. (2014) Autobiographical memories (A. Phillips, Trans). Mainz: Schott.(Original work published 2008)
堀威夫.私の履歴書(25)演劇進出.日本経済新聞.2021年2月26日, 朝刊. https://www.nikkei.com/article/DGKKZO69414670V20C21A2BC8000/, (アクセス日:2025年2月27日)
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