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ショスタコーヴィチ《交響曲第4番》 日本初演当時を振り返る

 芥川也寸志生誕100周年を記念して、ショスタコーヴィチ交響曲第4番の初演時メンバーと若手メンバーを交えて座談会を開催いたしました。1986年の初演当時の状況、演奏者たちの経験、そして現在に至るまでの新響の変遷について語り合いました。

出席者
Fg藤原桃、Vn平山楓馬、Trb芳賀大夢
初演時メンバー:Fl藤井章太郎(当時運営委員長)、Pf/Cel藤井泉、Fl松下俊行、Vn小出高明、Per今尾恵介
プログラム担当:Fl兼子尚美、Fl林真央

ショスタコーヴィチ交響曲第4番を選んだ経緯

藤井章太郎(以降、章太郎) 4番を日本初演したのは、新響30周年の年にあたります。団員側は「お祭り」をやろうと、まずは「千人」(マーラー交響曲8番「千人の交響曲」)を選びました。山田一雄先生の指揮でした。
 70年代後半からは芥川先生以外の指揮者も招聘するようになっていました。1979年の第86回演奏会でヤマカズさんとのマーラー交響曲第5番でみんなすごく感激して、それから毎年ヤマカズさんとマーラーの交響曲を演奏していました。その流れで30周年の第110回では「千人」を取り上げたんですね。
 そのあとの第111回は芥川先生の指揮で何を演奏しようか決まっていませんでした。決まっていたのは30周年の4回目でトリにあたる第113回演奏会は芥川也寸志交響作品展をやるということだけでした。

小出 「エローラ交響曲」とかですね。

松下 団員の側からやりたいとの声があがっていました。

今尾 日本人作曲家の作品を取り上げる演奏会を、シリーズとして年1回ずつ企画していましたが、芥川先生は頑なにご自身の曲を選ばれませんでした。

章太郎 ということもあって、間の2回が決まっていなかったんですね。ですが、おそらく芥川先生はご自身でいろいろと考えられていたようです。30周年シリーズの最初に山田一雄先生で「千人」をやってしまうのですから、そのあとの自分が指揮する演奏会でどうやったら企画性が出せるかを一生懸命に考えておられました。
 その当時は、演奏会企画をどう決めていたかというと、今みたいな委員会があって、そこから企画案を理事会に上げていたんですね。

藤原 理事会があったんですか?

松下 芥川先生が音楽監督で、今の団長に当たるのが理事長になります。ほかに理事が5人ほどいて理事会を形成し、重要事項はこのメンバーで協議していました。

章太郎 理事会で芥川先生も交えて最終的に演奏会企画を決めていたましたが、そこで芥川先生からショスタコーヴィチの4番という第111回の候補が出てきました。みんなは「は……?」という感じでした。そこで芥川先生が曲の解説をしてくれたんですね。日本では当然初演でしたし、封印されていた曲でほとんど演奏されていないことなどを話してくださいました。

楽譜の入手困難な状況

章太郎 その時の大きな問題は、譜面がないということでした。とにかく、4番というのは曰く付きの曲なので国外に出さないというのがソ連当局の方針だったらしいのです。当時、スコアはありましたがパート譜が手に入るかわかりませんでした。最悪の場合は、全員スコアからパート譜を書き起こすかという話さえありました。

一同 えー!(驚き)

章太郎 その頃は今みたいに譜面が簡単に手に入らなかったのです。とくに邦人作品は作曲家にスコアを書いていただいて、そこから自分たちで写譜したパート譜で演奏していました。伊福部先生の「タプカーラ交響曲」もそうでした。当時は当たり前にそんな風に考えていたんですね。ただ幸いなことに4番はソ連にパート譜があるということが分かったので、それを使うことになりました。芥川先生がソ連当局と相当タフな交渉をしてくださった賜物です。初演が終わって袖に引き上げるときには、先生の目が赤くなっていました。

芥川先生とのエピソードについて

藤井泉 練習はとても厳しく、例えば、技術的に難しい弦楽器の「高速カノン」はほぼ一人弾きをさせられていました。

章太郎 芥川先生が「猫のケンカの部分」とおっしゃっていたところですね。(笑)

今尾 練習番号184番のところはいつもニコニコしながら振られていました。練習中は滅多に笑顔を見せない方でしたから。

小出 できないことに対して厳しかったです。

芳賀 そういう厳しい練習にどういうモチベーションで参加されていましたか。辞めたいと思うことはありませんでしたか。

松下 何度もありましたよ。(笑)今と違いアマチュア・オーケストラ自体がほとんどなかったので、演奏活動を続けるための選択肢は限られていました。

小出 練習の時に全パートが揃うオケというのは当時なかなかありませんでした。新響は管楽器がみんなうまかったので、それで耐えていたというのもあります。(笑)芥川先生はよくテレビに出られていて、話術が素晴らしくて面白かったです。

今尾 芥川先生は演奏会の集客効果とか団員を集める効果っていうのがすごかったですね。毎週「音楽の広場」(NHK総合テレビで放送されていた音楽番組)に出ている人でしたから。新響でも「音楽の広場」に出たことがあるんですけど、カメラが回っていないときはとっても厳しく、回った時にはニコニコされていました。(笑)

今思う芥川先生の最終目標とは

章太郎 芥川先生は新響を自分が作ったというように思われていました。芥川先生の言葉で「音楽はみんなのもの」という言葉があります。また、戦後にとても盛んだった合唱だけじゃなく器楽もみんなでやるべきだとおっしゃっていました。芥川先生は母国の音楽など邦人作品を大切にしましょうという思いがありました。

芥川先生はなぜご自身の曲を積極的に取り上げなかったのか

章太郎 自分の作品を世に出すために新響を振っていると思われるのが嫌だったのではないでしょうか。

松下 1985年頃だったかと思いますが、団員サイドから芥川作品で是非演奏会を、と申し入れたことがありました。当初は「自分の曲をとりあげたいがために邦人作品展を始めたのではない」と拒否されていました。最終的には折れてくださいましたが。

章太郎 芥川先生は自分の作品を指揮するときははにかみがありました。シャイな方でした。

初演時の演奏を振り返って 今の演奏との違い

章太郎 初演録音を聞くと、3楽章のクライマックス、練習番号238の金管が素晴らしいのです。音が最後まで痩せていません。

松下 金管と弦楽器のバランスが他と全く違います。入団して金管の音量に驚きましたし、弦楽器もそれに対抗しています。これはソ連のオケそのものです。芥川先生の嗜好を感じました。オーディションを受けた時「音が小さい」と言われたことがあります。いま団員にこの話をしても誰も信じてくれませんが。(笑)

小出 ただ傷は大きかったですね。

松下 そう、大失敗するか、めちゃくちゃ名演になるかっていう落差がありました。失敗したときのことはみんな忘れていますけど。(笑)

兼子 今は演奏技術も向上し傷も少ないですが、当時から続く新響のDNA的なものとは何でしょうか。

章太郎 「音楽はみんなのもの」
 ただ金管の方にお願いしたいのが、最近の金管楽器は途中で音が痩せてしまう傾向がある気がします。そこは昔の演奏を聴いていただくといいと思います。

芳賀 どのオーケストラでも、音の最後は基本的にすぼませるもの、という考えが主流になってきていると思います。昔のオーケストラの金管って、音色がすごく合っています。まるで一つの楽器が鳴っているかのような音色をしています。でもちゃんと音を聴いてみると結構乱暴な吹き方も多くて。特に、羊羹のように、ぱっと始まってぱっと終わるような吹き方が多かった印象です。

当時の社会情勢における音楽の在り方

松下 初演時は作曲者が亡くなってようやく10年が経過した段階で、ソ連という国家も健在。「あの曰くつきの曲か」という畏怖がありました。ベルリンの壁もまだありましたし。

藤原 当時を生きていない我々は実感を持つことは難しいです。1989年にベルリンの壁が崩壊しました。

松下 1993年に『ベルリン芸術週間』に新響が参加した際、当地では壊された壁のかけらが土産物になっていました。もちろん買いました。(笑)学生時代に訪問した時は西ベルリン側の壁に沿って向こう側を見物するための展望台があったので覗き込みました。人けも色彩もない灰色の街並みでした。ショスタコーヴィチの作品の個人的なイメージとしてあの光景を今も思い出します。これは肌身で感じないと解らないと思っています。

芳賀 日本初演当時、得体の知れない国であったソ連からやってきた4番という作品のもつインパクトの強さの所以は、その音楽性はもちろん、それ以上にその周縁の社会性や歴史性の要素が非常に大きかったように思います。それから40年弱が経ち、さまざまな情報が手に入るようになった今、4番という作品はそういった背景から切り離されて純粋に「芸術作品」として昇華されつつあると思いますが、そのように考えると、作品に対する捉え方は日本初演当時と今とでどう変わりましたか。

章太郎 40年前、この曲は封印された非常に特殊な曲でした。今は、普通に演奏したければ演奏できますし、聴くこともできます。全然違うものでした。

松下 重ねていうと、それまで日本で広く知られていたショスタコーヴィチといえば第5番の交響曲と『森の歌』くらいでした。戦後のある時期までソ連は理想の社会主義国家と認識されていたので、その「光」の象徴という感じです。その文脈で第4番を聴けばなんだこれは?という感じでした。作品に関する情報もほとんどありませんでした。そこに『ショスタコーヴィチの証言』という本が作曲者の死んだ直後1970年代末に世に出て、初めて成立の背景というものが判りました。いわばこれは「影」の部分の表象だということです。日本初演当時はまだまだ作曲家の全体像は明確になっていなかったので、偽書との疑いはありましたが内容は衝撃的でした。
 芸術とはあくまで民衆への社会主義教化の手段。それが更に徹底されたのがスターリンの時代でした。ショスタコーヴィチも当然従いました。それでも為政者の気まぐれで過去の作品の評価が突如変わり命の危機に直結することがあります。作曲家の身近でもこうした犠牲者がたくさん出ていました。そこで彼は音楽の抽象性を逆手にとって「これはこういう意味の音楽です」と表面をごまかしつつ、全く別の意図を作中に込め、腹の中では舌を出す。そうやって生き延びてきた印象をもっています。

芳賀 初演時から皆さんはそういう背景を把握されていましたか。

松下 新響のメンバーは今でもそうですけど、作品に関する情報を徹底して調べます。当時もそれが当たり前だと思って、出来る限りの調査をした上で演奏に臨んでいました。これは継承すべき伝統だと思います。

今尾 当時、ソ連というのはものすごく巨大な存在で、しかもわけのわからない不気味さがありました。情報がなかったがゆえに得体が知れないということもあって、わりとソ連幻想というか、ソ連を「理想的な社会」とみなす空気もありました。当時のいわゆる革新政党は社会主義志向だったので、その辺は今とは全く違います。

これからの新響の演奏の在り方を考える

芳賀 今回の演奏会で当時を知らない坂入先生やメンバーと一緒に演奏することに対して、どんな期待やモチベーションを持っていますか。

松下 例えば我々はベートーヴェンの生きた時代を共有は出来ませんが、彼の作品を演奏することで作品の普遍性は体験できます。我々はその普遍性を基盤にしつつ、過去のものをなぞるのではなく、我々が生きる「今」を反映した演奏を積み重ねてゆく。これが重要なのだと思います。

章太郎 今、ここにいる世代だからこそ話題に上るのであって、50年後にはまた違った視点で語られると思います。初演を経験した私たちが「こうしてください」と言えるものではなく、当時の思いを知ってもらうことに意味があると思っています。

今尾 音楽は結局、楽譜そのもので成り立っています。演奏を積み重ねていくうちに、時代ごとのスタイルが見つかっていくのかもしれません。

小出 楽譜が残ることが大事で、変わっていくことは全く問題ないと思います。

芳賀 皆さんのお話を聞いて、現代作品を扱う意義を感じました。4番を通して、一つの作品が時代を超えて評価されていく過程を目の当たりにすることができるのは貴重な経験です。今しかできないことだと思います。

松下 過去の音楽がどのように現代の私たちに響き、次の世代に伝わるかが大事です。これからも音楽は進化していきますし、私たちはその一部として演奏し続けることに誇りを持っています。
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