第176回演奏会のご案内
☆ ロックハートはブリテンの友人
ロックハートは16歳から教会の合唱指揮者及びオルガニストとして活躍していましたが、ブリテンの歌曲を演奏する際、ブリテン自身が何度もリハーサルに訪れたそうです。これが1949年、ブリテン36歳、ロックハート19歳の時でした。ふたりは、それ以来友人として一緒に演奏旅行に出かけ、夏の休暇を共に過ごしたそうです。
ブリテン作曲「青少年の為の管弦楽入門」は「ヘンリー・パーセルの主題による変奏曲とフーガ」という副題がつけられています。パーセルは17世紀イギリスの偉大な劇音楽作曲家。彼の死後、200年の時を経てブリテンがイギリスオペラ史上に登場し、その再来と称されたのでした。イギリス政府から教育用映画「オーケストラの楽器」の音楽を依頼された彼は、そのパーセルの音楽をテーマに選びました。
その名前からも"Great Britten"(Great Britain=イングランド、スコットランド、ウェールズを総称する呼び方)とイギリス国民から慕われる彼は、この音楽の中で其々の楽器の形態、音色、特性を教えながら、その楽才と作曲技巧により1つの芸術作品を作り上げます。各々の楽器を主役とするパーセルの劇音楽の舞曲の旋律の変奏が13続いた後、金管楽器がパーセルの主題を、他の楽器がブリテンのフーガを演奏し、重厚で華麗な終結を迎えます。
国内外でオーケストラトレーニングの名手としても有名なロックハートの各パートソロの特訓の成果をお聴きください。
(ロックハート指揮、ブリテン作曲のオペラ「ベニスに死す」の9回公演が2001年10月〜12月半ばまで、オランダで開催。)
☆ ヤナーチェクとロックハート
ロックハートは、17歳の時ヤナーチェクのオルガン協奏曲をソリストとして演奏しました。この演奏により、彼のソロオルガニストとしての名声が広まりました。それ以後、指揮者としてもヤナーチェクの作品を数多くの演奏し、ドイツではヤナーチェクのオペラ週間を開催しています。
「タラス・ブーリバ」は、15世紀に実在し勇名をはせたウクライナのコサック隊長タラス・ブーリバとそのふたりの息子、3人の死を表現した作品です。タラスは火刑の焔の中で「この世で、火も拷問も強靭なロシア国民を打ち倒す事は出来ない。」と叫びます。この言葉こそが、ヤナーチェクにこの狂詩曲を書かせたのだそうです。
ヤナーチェクは、新交響楽団にとってまだ1度も手がけた事の無い作品です。彼の作品は、民族色が濃く独特な音楽手法が駆使されています。彼の作品に精通したロックハートの解釈で、民族不滅の精神にせまりたいと思います。
☆ ロックハートはスコットランド人!!
20歳のメンデルスゾーンは初めての一人旅の地としてイギリスを選びました。エディンバラで、ストゥアート王家の城の朽ち果てた礼拝堂を訪れた時、交響曲第3番「スコットランド」の冒頭10小節がうかんだということです。
ロックハートはスコットランドのエディンバラ生まれ、エディンバラ大学で学んだ生粋のスコットランド人。今もエディンバラの観光名所となっているこの礼拝堂は、大学のすぐそばです。
メンデルスゾーンはスコットランドに惹かれ、何度もこの地を訪れています。「この交響曲を仕上げる為には、霧の立ち込めたあの地に戻らなければなりません。」そして、13年後に完成されたのでした。長い年月をかけた成果は、その密度の高さとなって現れています。例えば、テンポが変わるたびに入念に書き込まれたメトロノーム記号、これは自らの手で測定し、さらに友人にもその確認を依頼したのでした。また、この曲に統一性を待たせるために切れ目無く演奏する事を望んでいます。
絵画を愛し自らも水彩画を描いた彼らしく、この交響曲はスコットランドの印象画のようです。静かで荒涼とした変化に富む自然、どこからか聞こえてくる舞曲や歌曲、そしてバグパイプの旋律。
さあ、エディンバラ生まれのコンダクター(案内人)、ロックハートのバトンの下、しばしスコットランドへの旅に出かけましょう。(M.M.)
第175回演奏会(2002年1月13日)ちらしより