第152回演奏会(1996年4月)維持会ニュースより


芥川也寸志とロシアの音楽

新響ヴァイオリン奏者 松木英作

 10年前の1986年7月20日、新響創立30周年の企画の一つとして、芥川さんの指揮でショスタコーヴィチ作曲の交響曲第4番の日本初演を新宿文化センターで開催しました。約3か月の厳しい練習の成果と演奏会本番の集中力の結集により、まるで芥川さんがショスタコービッチになってしまったのではないかと思われるほどでした。今思いますと、芥川さんがあれほど好きであったチャイコフスキーやショスタコーヴィチなどロシアの音楽を新響で振られた最後の演奏会になってしまうとは、その時誰が想像したでしょうか。
 1961年第5回定期演奏会でチャイコフスキーの第5交響曲を取り上げたのをはじめに、グリンカ、ボロディン、ラフマニノフ、カバレフスキーなどを取り上げ、1969年第18回定期演奏会でショスタコービッチの第5交響曲を演奏しました。それからも、たびたびこれらの曲目は演奏会のメインとして取り上げられ、団員にも聴衆にも「芥川さんのロシアもの」としてすっかり定着いたしました。
 芥川さんの演奏は、どのような曲目でもそうなのですが、しっかりとしたリズムと旋律を思いきり歌い上げる叙情性を大きな特徴にしていましたので、ロシアの作品を時々プログラムにしたのではないかと思います。
 それでは、なぜこれほどまで芥川さんはロシア音楽に魅かれたのでしょうか。1975年6月新響第29回定期演奏会は、芥川さん念願のストラビンスキーのバレエ三部作(「火の鳥」、「ペトリューシュカ」、「春の祭典」)でした。その練習の合間に自分自身の幼いときの体験を面白く語っていただきました。芥川さんのお宅には、父親である龍之介所有の蓄音機とレコードがあり、それをしばしばかけて兄弟で遊んでいたそうです。そのレコードの中にストラビンスキーの火の鳥とペトリューシュカがあり、毎日のように聴かれていたそうです。
 このような原始体験とでもいうようなバックがあり、その後音楽の道に入られたわけです。特に東京音楽学校在学中の昭和21年に伊福部昭先生と出会われ、非常に大きな影響を受けました。先生からは音楽技術のことばかりでなく、生き方や思想やあらゆる面で心酔してしまいました。
 日本の敗戦とともに、日本には大量の西洋文化が流れ込み始めました。音楽の上でも、戦争中の敵性音楽ということで聞くこともできなかったヨーロッパ、アメリカの音楽がV.O.A.の音楽番組で紹介され、今回取り上げられている初演されたばかりのプロコフィエフの第5交響曲やショスタコーヴィチの交響曲などを、芥川さんはむさぼるように聞いたということです。
 芥川さんが東京音楽学校を卒業したのは1947年(昭和21年)のことです。卒業作品は「交響管弦楽のための前奏曲」で、初演されたのは1990年1月芥川さんの一周忌の新響主催の追悼演奏会でした。作風は、芥川さん曰く「フランス的、伊福部的」なものです。芥川さんの代表作といわれている「交響三章」(1948年)「交響管絃楽のための音楽」(1950年)、「絃楽のための三楽章」(1953年)、「交響曲」(1954年)など次々と生まれましたが、これらの曲には特にプロコフィエフの影響が強く感じられます。
 この頃から、芥川さんは大衆音楽運動にも興味を持ち始めます。一つは「うたごえ運動」でもう一つは労音(勤労者音楽協議会)でした。うたごえの中心になっていた「白樺」や中央合唱団での指揮活動をはじめ、1953年には第1回日本のうたごえ祭典が開かれ、祭典を記念して共同作曲によるカンタータ「祖国の山河に」が作られました。これは公募された歌詞に芥川さんが曲を作り、発足したばかりのアコーディオン教室を利用して、大アコーディオン合奏隊を編成して伴奏に用いるというアイデアを実現させて成功させました。
 また、労音での音楽活動の中心は、はじめショスタコーヴィチの「森の歌」を指揮することでした。労音としてはその曲の持っている政治的な背景を利用した企画なのでしょうが、それを当時の盛り上がってきたアマチュア合唱熱を吸い上げることや、アマチュアの音楽の理解に芥川さんは力を注ぎました。
 このような活動をしているうちに、芥川さんは、学生時代から持っていたロシア音楽に対する思いが次第に強くなり、1954年(昭和29年)秋、ソビエトに行くという一大決心をするのです。
 その年のはじめ、芥川さんは團伊玖磨、黛敏郎両氏と共に「三人の会」を結成し、第1回演奏会を行っています。当時、まだ日本とソビエトの間には国交がありませんでした。ですから、合法的な訪問の手段はなかったわけです。そこで、まわりには内緒で旅費も借金をしてウィーンまでの片道の切符を買い、出かけられたそうです。
 このソビエトに行かれた話は、芥川さんが新響の合宿に参加して時間が空いたときなどに団員に聞かせていただきました。よほど印象が強い旅だったようで、そばで聞いていても話に引き込まれるような話しぶりでした。ウィーンからやっとのことで東側に入り、ハンガリーを経てモスクワに入り、果ては事の成り行きから中国に渡り、北京、天津、上海まで足を延ばし、上海では持っていった自作の作品の演奏会までしてしまいました。この中国旅行は、後年新響が中国作品展を行い、また上海で邦人作品展を行った原点になったと思います。
 この後モスクワに戻り、ロシアの著名な作曲家の方々と会う機会に恵まれます。ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、カバレフスキーなどに会い、持っていった「交響三章」などを批評してもらったりしたそうです。そして「交響三章」はソビエト国立出版所から出版され、その印税で無事帰国することができたそうです。また、当時その出版所から出版された外国人の作曲家というと、ガーシュイン、ブリテン、ニールセンと芥川さんだけだったそうです。ソビエトからの出国に際しても、ハチャトゥリアンさんたちの尽力により中国、香港経由で帰国することができたのです。
 ソビエトから帰国した1955年、この年に結成されたばかりの労音アンサンブルに招かれ指導を始めました。そして翌1956年、その団体は東京労音新交響楽団としてアマチュアオーケストラの道を歩き始めることになるのです。
 その後新響は、1966年に労音から独立して以来、特定のスポンサーを持たずに現在までアマチュアオーケストラとしての可能性を切り開いてきました。1967年には、新響は、日ソ青年友好委員会の派遣により、芥川さんの指揮でソビエト各地で演奏会を開きました。また芥川さんはその後もソビエトを訪れ、自作のチェロ協奏曲やオペラ「ヒロシマのオルフェ」を指揮するなど活発な活動を続けました。1985年には、オペラ「ヒロシマのオルフェ」がモスクワのスタニスラフスキー記念ダンチェンコ劇場の正式レパートリーになるなど、ソビエト側の芥川さんに対する評価の高さがわかります。


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