1967.8.17訪ソ記念特別演奏会パンフレットより
芥川也寸志
新響を始めて11年、いろいろな夢をみてきました。
その夢の一つ、海外演奏が実現します。
総じて夢というものは、実は自分勝手な想像の産物に過ぎませんから、自分にとって都合の悪いところは全部割愛してあり、だからこそ楽しくもあるのですが、何かのはずみで都合の悪い条件が少しづつでもなくなり、夢でしかなかったものが実現の可能性を持ち始めるに従って、その楽しさもまた夜明けの霧のように、次第に薄らいでいってしまいます。
光がさしこみ、今まで眼にとめる必要のなかったものがみんなはっきりと見えてくるにしたがって、夢見心地の楽しさは、鋭い牙に取り囲まれた現実世界との斗いに変貌していくのです。<夢やぶれ>というのは、文字通りその斗いにやぶれ果てたものへの言葉なのでしょう。
日ソ青年友情委員会が、新響の演奏旅行を全ソ青年団体委員会に対して提案したのは、2年以上も前のことであり、モスクワで直接文化大臣にお会いして、この計画の実現をお願いしたのは、雪の降りしきる1965年の12月でした。当時私にとっても、団員諸君にとっても、それは一つの夢でしかなかったのです。
旅券の申請も終った今にして想えば、夢というものがいつもそうであるように、随分長い道程を歩いてきたような気をしますし、一瞬のうちに通り過ぎたような気もします。
時間の流れに従って、何度か夢のやぶれかかったことを想うと長くもあり、反対に今日から過去を振り返ると丁度望遠鏡をさかさにのぞいたように、小さく短くも感じます。
しかし、とにかく夢を現実のものに変え得たのは、ささやかなりとも新響自身がいろいろな面で成長してきたからだと思います。今の新響が、もしも2年前と同じ姿であったとしたら、到底それはかなわぬ望みであったでしょう。
一つの夢は、また別の夢を呼びおこします。苦楽を共にしながら、勤務の都合や名という制限のために、今度の旅行に加われない人たちがいるということが、是非とも全員で行けるようになりたいという夢を抱かせます。もっともっと、いいオーケストラになっていい演奏を聞いてもらいたいという夢、もっと大きなオーケストラになりたいという夢、もっとたくさんのレパートリーをもつという夢、毎月定期演奏会を持てるという夢、いつでも素晴らしい客演指揮者を迎えられるという夢、アマチュアの団体と提携してオペラやバレエの公演ができるようになるという夢、あとからあとから、夢はふくらむばかりです。今、それらのたくさんの夢が、いつかは夢に終らないで、光のさしこむ時がくるように思えるのは、やはり海外演奏という一つの大きな夢が実現しようとしているからなのだと思います。
芥川也寸志
◆ハバロフスク
最初の演奏地なので、演奏会の始まる前は柄になく一寸緊張する。しかし私の見るところ、ソヴィエト側の緊張は輪をかけていた。われわれの招待主である<全ソ青年団体委員会>からは、プロコポフ/アジア部長と、その部下であるリーダさんという体格のいい女性が、ナホトカからずっと付き添ってくれたが、リーダ女史にいたっては、楽屋の中をあっちへウロウロ、こっちへウロウロ、落ち着かぬことおびただしい。彼女は、たしかに私以上にあがっていた。まあまあの成績で演奏が終り、誰もいない指揮者控室へ戻るやいなや、真先に彼女が駆け込んできた。そして、ロシア語でなにやら叫んだかと思うと、やにわに私を抱いて、汗だらけのホッペタにチュウと音をたてて接吻したのである。
ロシアの女性に接吻されるのも初めてなら、ロシアの女性があんなに興奮したのを見たのも初めてであった。
◆イルクーツク
ここでは、イルクーツク・フィルの常任指揮者バルソフさんにいろいろ親切にして頂いた。彼はフィルハーモニー・ザールでの演奏会の間中、舞台の袖でずっと演奏を聞いていて下さった。うまくいくと右手の親指を上にあげて、<いいぞ、いいぞ>という激励をして下さった。
演奏会が終ってから、ホテルでバルソフさんもまじえて、コムソモールの方々と祝杯をあげる段になって驚いた。テーブルの上に出されたブドウ酒のレッテルには、ARIGATE
と書いてある。念のために、このブドウ酒の名前は?ときいてみると、やっぱり<アリガテエ>だそうである。
<有難てえ>とはまさにこのことである。われわれは酔いのまわるのも忘れて、このロシア産のブドウ酒に舌つづみをうった。
◆モスクワ
モスクワでの2回目の演奏会は、モスクワ大学の大講堂で、ステージ正面にはでっかいレーニンの肖像がぶら下がっていた。
舞台稽古をしていたときは、さほど気にならなかったのに、本番が始まると、いやに気になりだした。舞台は横に長く、奥は比較的浅いので、でっかいレーニンに初めから終りまでにらまれ通しである。
それでも初めのうちは、よく禿げたなあなどど思いながら棒を振る余裕があったのに、そのうちにだんだんとおかしくなってきた。ヘラヘラと笑ったような気がしたりウインクしたような気がしたり、やたらに気味が悪くなりだした。畜生この野郎めが、と思えば思うほどますますいけなくなる。そこで私はカラヤン流に眼をつぶることにした。ところが、そのとたん、わが新響の演奏は断然光彩を放ちだしたのである。
モスクワの演奏会での私の感想は、<やっぱりレーニンは偉いんだなあ>である。
◆レニングラード
演奏会がすんでから、楽屋を訪れてくれる人の数は、レニングラードが一番多かった。日本と同じように、プログラムにサインをしてくれというのがほとんど大部分。中には日本の事情を聞きたいという人や、私の作品についての説明を求める人もいた。その中の一人に、レニングラード・フィルの老楽員がいて、アンコールでやった<ルスランとリュドミラ序曲>をひどくほめてくれた。ブルーノワルターやフルトヴェングラーの棒で彼がこの曲を弾いたときの話などは、滅多に聞けない貴重なものだった。演奏終了後にサインを求めるのは、日本と似た風景だが、彼等が日本のファンと大変違うところは、絵葉書とか小さな人形とか、ささやかながらお礼の品を必ず用意してくることだ。中には自分で編んだという花瓶敷を持参した老夫人もあった。こういう音楽愛好家の姿というものは、われわれ音楽家にとってどれほど大きな励ましになることだろう。楽屋を訪れてくれた彼等は、ことごとく<演奏をきかせてくれて有難う>と私にいった。4ルーブル以上の入場料を払って聞きに来てくれたのは彼等であり、<有難う>といわなければならないのは私の方だ。
帰りがけの駄賃にサインも---という風に見える日本の音楽ファンに、このへんのところを見習っていただけないものだろうか。たとえ、見かけは小さな行為であっても、それは必ず、日本の音楽を大きく育てることだろう。