第157回演奏会(1997年4月)維持会ニュースより
新響フルート奏者 松下俊行
ジョン・ケージと茸(きのこ)の関係については、彼を知る人々には、或いは有名な事なのかも知れない。僕はこの事を武満 徹との対談を読んで初めて知った。ケージは暇があれば茸の採集に行く。とはいえ彼にしても茸の毒の有無を見分けるのは困難な作業だ。最後はとにかく食べてみるしかない。その結果、身体が麻痺して何時間も森のなかで動けぬまま横たわる事もあったというから命懸けである。ところがそうした毒の強い茸も、ボイルすれば食べられる。彼は武満に問う。
「毒は何処からきて、何処へ去ってしまうと思うか?」
茸から抜け出した毒がこの空間のどこかを漂っている。このどこか=somewhereが実に神秘的なのだとケージは言う。
そして武満もこのケージのいう[somewhere]を非常にアクティヴな空間として、共感をもって捉えている。両者の捉える空間とは、物質の彼岸としての空虚ではなく、目に見えぬ何か---それは茸の毒であったり、或いは霊魂?であったり---で満たされた充実した一帯なのであろう。そしてこの一事は彼等の音楽を考える上で僕の脳裡に消えぬ余韻を与えた。
沈黙のもつ恐怖についてはいまさら想うまでもない。死の暗黒世界をとり囲む沈黙。時に広大な宇宙の沈黙が突然おおいかぶさるようにしてわれわれを掴えることがある。生まれでることの激しい沈黙、土に還るときの静かな沈黙。芸術は沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか。詩も音楽も沈黙に抗して発音するときに生れた。(中略)
ルネッサンスによって人間くさい芸術が確立し、分化の歴史をたどると、近代の痩せた知性主義が芸術の本質を危うくした。いまでは、多くの芸術がその方式のなかであまりにも自己完結的なものになってしまっている。饒舌と観念過剰は芸術をけっして豊かなものにはしない。
沈黙に抗って発音するということは自分の存在を証すこと以外の何でもない。沈黙の坑道から己をつかみ出すことだけが<歌>と呼べよう。あるいはそれだけが<事実>のはずだ。(中略)芸術家は沈黙のなかで、事実だけを把りだして歌い描く。そしてその時それがすべての物の前に在ることに気づく。
これが芸術の愛であり、<世界>とよべるものなのだろう。いま、多くの芸術家が沈黙の意味を置き去りにしてしまっている。(中略)
ぼくはいま自然の沈黙の音に注意したいと考えている。これを能楽の間とか空間性という言葉に置換えても一向さしつかえない。しかし、 こうした問題をたんに技術論として留めたくはないのだ。大切なのは<音>にたいする認識の仕方だと思う。(以下略)
武満 徹「充実した沈黙」 より『音、沈黙と測りあえるほどに』新潮社 所収
長々と引用したが、武満の音に対する捉え方がこの1960年代の一文に表われている。
我々が日頃半ば無自覚的に「音」と言い「音楽」と言っているものが実は皮相的なものであり、その背後にあるべき音の「根源として」の沈黙がともすれば忘れ去られている事については改めて考える必要があるだろう。
世の中には音が溢れている。我々は武満の言うとおり、沈黙に本能的な恐怖感を持っているのかもしれない。沈黙の持つ「寂寥」「空虚」「死への予感」「気まずさ」などのネガティヴなイメージが我々をして、その取り巻く空間を、取るに足らぬ低俗な音で取り敢えず塞いでしまうように駆り立てている。しかし我々が音で充填したと思い込んでいる空間は、実は厖大なものだがそのイメージが我々の裡には明確には結ばれていない。せいぜい壁と天井に仕切られた矮小な虚空であろう。そしてその中に充たされた(と思い込んでいる)音のヴォリュームさえも、実はたかが知れたものだ。沈黙の空間に対する音というものは、所詮その程度の無力なものなのだ。自然と対峙する人間の無力さのように。
初めて『ノヴェンバー・ステップス』を聴いた時の衝撃を想い出さずにはいられない。それは或る秋の昼下がり、学生街にある食堂の四六時中鳴っているFMラジオから突然耳に飛び込んできた。決して良い条件で聴けた訳ではなかったのだが、それまで接してきた音楽との違いは容易に理解できた。
開始となる契機も掴めず、完結の充足もない不思議な音の集積の間を、互いの間合いを探るようにして、撥のきしみと息の音とを重ねつつ、緊迫した琵琶と尺八とが対話が続いて行く不可思議な「音楽」。そして底知れぬ長い沈黙---------。
再びオーケストラが動き出す。それはハープであったり、打楽器の幽かな一打であったり、絃楽器の微かな和音のうつろいであったり様々なのだが、全て沈黙の果てに何処からともなくやってくる。そしてその刹那、聴く人の耳に沈黙の深さと濃密な空間の無窮の拡がりを印象づけてやまない。暗黒の彼方にようやく視認できる程度の一点の光が、周りの闇の深さをより意識させるのと同じことだ。音の背後にある沈黙をも含んだ「音楽」の存在を僕はこの作品を通じて知った。
その後暫くしてこの作品の姉妹篇である『グリーン』を演奏する機会を得た。武満のドビュッシーへの傾倒振りが濃厚に窺える曲であるが、本質は変わっていない。ただ残念な事に演奏する側に立つと、つい出てくる音にのみ目(耳)を奪われてしまい、その背後にある沈黙にまで気が回らなかった。音楽に対する経験も考えも浅かった事も災いした。
今回新響でようやく武満 徹の作品を手がけることになった。個人的には非常に意味のある事だと思っているが、不安なのは演奏者がいつもの音楽と同じように彼の作品を捉え、これまたいつもの通り、現実に鳴っている音のみに関心がひかれ、本番を迎えてしまうかも知れないという事だ。それでは彼の作品を演奏する意味は無くなるし、第一演奏者には面白味もない。
重要なことは、視覚・聴覚といった知覚によって把握できる世界には限りがあり、その背後には、無限で濃密な空間(例えばジョン・ケージのいう茸の毒が漂っている様な)があるという認識と想像。そしてその空間の彼方の無限の沈黙のなかで幽かに鳴っている「音」が作曲者によって捕えられ、この世界のものとして我々の聴覚にやっと届いている状態をイメージすることにある。こうした音楽はこれまでには無かったし、作曲者亡き現在、今後も在り得ないかもしれない。
「音」の部分は勿論、背後の豊饒なる沈黙と無限の空間をも再現したいと考えている。
脚注;ジョン・ケージ(John Cage)
20世紀を代表する現代音楽の巨匠。偶然性音楽を提唱し、その後の音楽に多大な影響を与える。
特に「4分33秒」と題された作品は、始めから終わりまで全くの無音の曲として有名。