1998年9月維持会ニュースより


未完なるもの−シューベルトの交響曲の軌跡−

新響フルート奏者 松下俊行

 『未完成』は作曲者の最後の作品−−所謂絶筆ではない。何らかの意図をもった中断と捉えなければならないが、それに至った事情は一切が不明である。その理由は今や推測の域を出ないが、中断がこの作品にもたらした価値は明確である。創造の一環として敢えて採られる未完と云う行為を考えてみたい。

 *空白の断章

 『源氏物語』「幻」の巻は、この前年最愛の紫の上を喪った主人公光源氏の最晩年の日々を描く。翌年に出家を考える彼は世俗の人として送る最後の年の暮れ、暗示的な一首を詠む。最後に明くる年の様子が数行ごく簡単に触れられ、この深い嘆息に満ちた巻は終わる。1巻おいて「匂宮(にほふのみや)」の劈頭では「光かくれたまひしのち・・・・」と源氏の死後の事である旨が語られ、更に読み進むに連れて彼と同世代の関係者は大半が死んでいる事が明らかになってくる。算定してみると「幻」と「匂宮」との間には8年間の空白の期間があり、源氏はその間に死を迎えた事が後に会話の中に語られる。出家から死に至る部分の空白を埋めるべき巻は「雲隠(くもがくれ)」と名付けられている。ところがこの巻は名前だけ伝えられて本文が無い。古来この事は様々な説を生みだしてきた。
 今ここにその諸説と論点を挙げて紹介する余裕は無いが、要するに根本はその巻の実在性に対する疑問である。時代が下って本居宣長が著書『源氏物語玉の小櫛(たまのをぐし)』でその巻の存在そのものを否定して以来、現在では後世巻名のみが挿入されたとする説が有力である。学説とは味気ないものだ。しかし「雲隠」は確認し得る限り既に平安時代の末期(12世紀中頃)には知られていた事実もあり、僕個人はこの巻が物語の成立当初から存在し、その時点で既に本文を欠いていたと想像したい。
 長大な「若菜」の巻を頂点として、その後は巻が進むに連れて物語は下り坂に入ってゆく。読む人はやがて来るであろう主人公の死を予感する。前述の「幻」で主人公は亡き紫の上の手紙を全て焼く。彼の魂はすでに限りなく死者に近い。そして「雲隠」の巻を経て「匂宮」。ここでその間に起こった事の断片が次第に判明する。だがその細部は「雲隠」の空白に象徴的に表されるのみで永遠にわからない。確かに、この巻が無くとも物語の展開に無理はない。だが、場面の転換の妙味を引き出す上でこれほどの効果的な手法を他に知らない。これは模倣しても何ら意味のない、まさに1回限りの方法である。
 更に、当初は本文があったのかも知れないという想像にも駆り立てられる。その上で最終的に作者自身が本文を削り、巻名のみを残した。1巻が文字通り1つの巻子或いは冊子として伝えられてきた時代、同一の装幀でありながら中身が白紙の巻。僕はこの何も書かれていない1巻の存在を幾度となく想像しては、密かに心の戦慄を感じている。敢えて無言と空白に帰する創造の在り方をこれほど実感させてくれる例はなかなか見当たらない。

 *『未完成』の周辺−錯誤の軌跡−  

 『未完成』に於いてシューベルトが第3楽章以降を放擲した姿勢と結果としての効果とを、上の事象に僕はかねてより重ねて考えていた。ただここで注意すべきことがある。こと交響曲について言えば、この作曲者にとって創造の中断はそれ程特別なことではないという点だ。1813年(16歳)以来彼は全部で13曲の交響曲を書いたが、4楽章までオーケストレーションの調った「五体満足」な作品は7曲しかない。シューベルトの交響曲創作の足跡を『未完成』前後に焦点を絞って年代順にまとめると以下のようになる(*印は未完結作品を示す)。

1818年 交響曲(第6)ハ長調『小ハ長調』
1818年 *交響曲ニ長調 (スケッチのみ 2楽章)
1821年 *交響曲ホ長調D729 (スケッチ含む 4楽章)
1822年 *交響曲ロ短調(第7)『未完成』(2楽章 第3楽章はスケッチのみ)
1828年?*交響曲ニ長調 (スケッチのみ 3楽章)
1828年 交響曲ハ長調(第8)『グレート』

 上記のうち、D729の作品番号を持つホ長調の交響曲は今世紀に入り、ヴァインガルトナーの補筆により完成している。かつてはこの曲を「第7番」とし、8番を『未完成』9番を『グレート』とする数え方があった。『未完成』を第8番と記憶されている方々は、この時代の反映である(新響もそれを未だに踏襲しているが・・・・・)
 ところで、こうしてみれば1818年の第6交響曲から第8番の『グレート』までに10年の時間が経過し、しかもその間に数多の未完に終わった交響曲が創られていた事に改めて驚かざるを得まい。この10年間は31年という作曲者の生涯を考えれば、如何に長い時間であるかが理解されよう。これが何を意味するのか。第6番には既に『グレート』への萌芽が見られる。その飛躍の為の助走の期間と考えるべきなのか?或いはさしもの早熟な天才もこの時期挫折し、錯誤の中で時を浪費していたのだろうか?
 そこで『未完成』の事だ。この作品の成立に関して今日我々が知り得ることは極めて僅かである。
 1822年の7月に彼は後世の我々にとって貴重な、ある文章を書いている。9月、3年の時間を費やした『ミサ曲変イ長調』(D678)を完成させる。翌月10月30日からロ短調交響曲の総譜を書き始めた(と云う事は既にスケッチは出来ていたのだろう)。12月以降彼は病床に就き、翌年の春までは創作活動に専念できる状態ではなくなった。1823年4月に彼はグラーツに設立されたシュタイアーマルク協会の名誉会員に選ばれた旨の書簡を受け取る。9月20日付けで作曲家は「返礼」として自作の交響曲の中から1曲の総譜を贈る旨を書き送った。そして明くる1824年(この年の5月にベートーヴェンの『第9』が初演されていることには注目すべきだろう)になって送付された交響曲が、第2楽章まで完成したロ短調の作品だ。ここまでは確かな事である。
 だがここからは推測する他はない。この間の協会側と作曲者とのやり取りも今となっては知りようがないが、受け取った側はこの作品を未完結なものと考えたのかも知れないという事は想像できる。そうでなければ『未完成』が1860年に「発見」されるまで沈黙を余儀なくされる結果を生んだと云う事実とつながりようがない。その後シューベルトは1827年にグラーツの協会を訪ねているが、その際両者でこの作品の事について取り沙汰された様子もない。不可解この上ないが、この時何らかの話題になっていれば、この作品は別の道を確実に歩んだ筈である。その唯一の好機は永遠に去ってしまった。

 *失われた楽章−創造的未完−

 シューベルトの残した数少ない文章のうち、1822年7月の日付をもつ最も著名な自叙伝的短文<Mein Traum−僕の夢−>は、同時期に書き始められたであろうロ短調の交響曲との関係を考える上で、重要な示唆に富んでいる。

 ・・・・・・・長い年月、僕は歌を歌った。愛を歌おうとした時、愛は苦しみになった。そして苦しみを歌おうとすると苦しみが今度は愛になるのだった。愛と苦しみとは、こうして僕を2つに裂いた。・・・・・

 これは奇跡である。『未完成』を取り巻く極めて深い霧の中で、作品の底流に流れる作曲者の内面を語る彼自身の言葉が忽然と現れるのだ。実はこの文中にある愛とは精神的に相克する父親に対するそれなのだが、こだわる事もないだろう。この愛憎の交錯とそれに伴って絶え間無くたゆたう哀歓の精神を知れば、それが作品にどれほど緻密に結実しているかに改めて驚くほかあるまい。と言うよりむしろこの感情そのものが既に詩であり、その詩にふさわしい音楽が『未完成』となって顕れたと考えたほうが自然なのかも知れない。これはシューベルトの短い生涯に産みだされた夥しい作品の過半数を占めた歌曲(リート)の世界の次元である。
 彼がこの作品を“Sinfonia”と題しながら、第1楽章もそれに続く緩徐楽章も3拍子の音楽にしてしまったのもその一例だろう。詩的な世界と音楽との融合に心を奪われた天才の、天衣無縫とも言うべき所行。だが彼のこの余りに詩的な世界は、荘厳な構築物たる交響曲として扱うには余りに脆弱に過ぎる印象を否めない。何故なら交響曲の形に固執する限り、続く第3楽章としてはスケルツHかメヌエット以外に選択肢はないからだ。またしても3拍子である。3拍子の楽章が3つ続く交響曲は独創には程遠い。事ここに至ってシューベルトも進退窮まったに違いないが、とにかくスケルツHを書き出した。
 映画『未完成交響楽』はその120小節余りのスケッチ(その内9小節だけはオーケストレーションされている)に基づく音楽を余さず伝え、この楽章が未完結に終った「ある理由」をテーマとするが、理由はともあれ作曲者の苦渋は歴然としている。もしこのスケルツHをとにかく書き通し、続く最終楽章に長大なフィナーレを完成させ得たとしても、傑作を期待する事は不可能だったろう。そこそこの作品には仕上がったかも知れないが、『グレート』への捨て石に終った可能性も充分あり得る。
 残された道はひとつだ。彼は敢えて2楽章までで中断し、第3楽章は白紙に戻してこれで「完結」と捉えた。彼は強い意志を以ってこれを行なった。他の未完結な交響曲と一線を画すのはまさにこの点である。だからこそグラーツの協会にもスコアを贈った。これが僕の結論だ。期限(というものがあったとして)に間に合わせるために未完結を承知で、出来ている部分だけをとりあえず提出したと云う考えもあろうが、「返礼」として贈呈すべき作品という位置付けを思えばそれは極めて異質な行為に映る。しかもそうした考えが成り立つには、いずれその後の楽章も書くつもりだった=完結が可能だったと云う事が前提になるわけだ。が再度言うが、緩徐楽章を前の楽章に引続き3拍子で書き始めた時点から、この作品はもう一般的な意味での交響曲としては完成の見込みのない形になってしまっているのだ。この先に何を書き加えられたろう。

 *同時代人としてのベートーヴェン

 「この音楽は2つの楽章であまりにも完成しているので、あえて先を続けなかったのだろう」とはブラームスのこの作品に対する解釈だ。至言であるが、彼のこの言葉には単なる批評以上の重みがある。「交響曲に於てベートーヴェンの後で何が出来るか?」というシューベルトの独白に象徴される焦燥を、ブラームスほど切実に感じていた人あるまい。ベートーヴェンという眼前に立ちはだかる崇高な絶壁を、如何に乗り越えるかに腐心する人生を彼らは余儀なくされた。だが、ブラームスにはそれでもまだ救いがある。
 シューベルトの場合は、ベートーヴェンより27歳遅れて生まれながら、1年しか長く生きられなかったと云う現実がある。彼が最初の交響曲を書いた1813年にはベートーヴェンは第8交響曲を既に完成させていたが、この偉大すぎる先達は、シューベルトの享年である31歳と云う年齢では『英雄』すら書いていなかった。本来次世代の人として生まれ生きながら、同時代人として死んでゆかざるを得なかった処にシューベルトにとっての悲劇があったかも知れない。比肩する位置を占めるためには時間が足りなすぎた。
 技法上の問題とは別に、前述の「愛」をひとつのキイワードとして両者の違いを考えるのも面白いかもしれない。
 ベートーヴェンがひとたび「愛」を語るとそれは人類愛に直結し、全世界を相手に回して葛藤と闘争と勝利というドラマトゥルギーを繰り広げ、長大な交響曲が産み出される(先にも述べたが『第9』と『未完成』はほぼ同時期の作品だ)。社会の流れにも敏感であり、感情の振幅と相俟って作品に反映された。これは年齢によるものではない。この人は生来「疾風怒濤」の時代精神を体現したような性格の人だった。 
 同時代に生きたシューベルトの作品にもそうした社会の反映があっただろうか。彼にとっての「愛」は言うなれば家族愛である。よろこびや哀しみもホームドラマの規模だ。そして『未完成』が出来た。どちらの出来がどうのと言う問題ではなく、これは両者の音楽の本質的な違いである。だが交響曲と云う分野にこだわる限り、この差異がシューベルトの眼にはどうしても乗り越えなければならぬ障壁として映った筈である。彼は敢えてそれに挑んだ。煩悶と錯誤が繰り返され、絶えず挫折と隣り合わせであったろう。未完に終った夥しい交響曲がその証左とも言える。交響曲の大家に対する畏怖と憧憬は、『未完成』の様な性質の音楽でさえ、彼をして交響曲の形式に固執させたのだ。この場合も危うく挫折に終わりかけたが、中断が彼を救った。この中断の効果も1回限りのものだ。この限られた手段を、彼の作品中でも異例の高い純度と独創と完成度とをもった2つの楽章の後という、最も適切な機会に使い得たことで『未完成』は交響曲として永遠の生命を得られたのである。
 1828年3月。1,150小節を超える長大なフィナーレをもつ大交響曲『グレート』が、2年以上の時間をかけて完成した。この瞬間作曲者の脳裏に去来したものは、苦節を乗り越えたとの安堵か。或いは死屍累々たる未完結の作品への愛惜か。いずれにせよ苦悶と錯誤の時代は終ったのである。ベートーヴェンは前年既に他界している。次世代の交響曲作家としての自負も当然あった筈である。だが畏怖と敬愛の対象であったこの大作曲家の傍らに自身の骸(むくろ)を埋めるまで、彼に残された時間はあと7カ月を切っていた。

 大抵の人生は死がもたらす中断により未完結なものに終わる。それを半ば諦念から敢えて「完結」と捉えざるを得ないのが人の宿命だ。『未完成』にともすれば死の影を感じるのは、夭折した作曲者への想いのみならず、我々自身の生の宿命をそこに見るからではあるまいか。


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