1998年12月維持会ニュースより
新響フルート奏者 松下俊行
*多作家の時代
ストラヴィンスキイがヴィヴァルディを評してこんなことを言っている。
「ヴィヴァルディは、ひどく過当評価されているけれど・・・・・同じ形式をあんなに繰り返し作曲できた、退屈な男にすぎない」
さるイタリアの現代作曲家もこの母国の先達に対し、
「ヴィヴァルディは600曲のコンチェルトを作曲したのではなく、1つのコンチェルトを600通り作っただけだ。」
と誠に辛辣である。目まぐるしく変貌し続ける現代の音楽では、ひとつのスタイルにはいつまでも固執していられないし、それだけに作品の数も限られるという事情もあろうが、目の敵にされたヴィヴァルディには気の毒としか言い様がない。600通りに作れるのであればそれはそれで価値があるだろうとの弁護も出てきそうだ。
確かに彼は多作であった(600曲のコンチェルトは誇張にしても)。だがこの当時社会が彼に求めたのはとりもなおさず、絶えず新しい音楽を供給することであったのだから、多作は謂わば当然の帰結であった訳だ。彼だけではない。テレマンは管絃楽組曲だけで1,000曲、全作品数で4,000曲は下らないと言われている。今に伝わるのはほんの一握り、残りは演奏する先から破棄を余儀なくされた。
バッハも例外ではあり得ない。毎週のように新たなカンタータを作り、家族総出でパート譜を筆写し、言うことを聞かぬ聖歌隊の子供達に手を焼きながら練習を済ませ、チェンバロのパートを弾きながら指揮をし、ひとたびその演奏を終えるとすぐに次の作品に着手する、と云う生活を繰り返すかたわら20人の子供も作った・・・・・とまあ現代人ならどれかひとつでも持て余すに充分な生活であった訳で、この様な時間に追われた繰り返しの中から絶えず僅かずつでも作品に対して独創と試行を展開してゆき、『マタイ受難曲』を初めとする一連の大傑作を残したのだから、日常の創作に対する姿勢とその結果たる作品には敬意を払うべきだろう。彼らは良きアルチザン(職人)として眼前の仕事に誠実であったのだ。
時代はやや下っても状況は変わらない。ハイドンは楽長を務めるエステルハージ侯爵家のオーケストラの為に毎週作品を書かなければならなかった。今に伝わる106曲にも及ぶ交響曲がその結果である。宮仕えは楽ではない。ただ彼の多作が「管絃楽のソナタ」である交響曲のスタイルを確立させた事だけは間違いない。
モーツァルトも同様に60曲もの交響曲を書いた。交響曲の作品数に於いてはこの2人が飛び抜けて多作である。形式やスタイルにはそれぞれの作品間に大きな違いはない。勿論各作品それぞれには独創があるが、その点はヴィヴァルディも同様である。冒頭の言を借りれば、彼らの交響曲も「1曲の交響曲を100通りにも書いた」といえるかも知れない。事実ハイドンにもモーツァルトにも「一連の交響曲」と云う概念が存在する。音楽に対し社会が求めていたものは変化ではなく、安定と均衡であったことがわかる。これが大きく、殊に交響曲の分野で変化をとげるに至ったのは次のベートーヴェンの時代である。
*交響曲の世紀
周知のとおり、ベートーヴェンは9曲の交響曲を書いた。先の2人に比べれば格段に寡作である分、各々の規模も大きくなっている訳だが、これは作曲家と音楽が宮廷や教会の呪縛を離れ、より広い社会開かれていったその時代背景と、彼自身の思想によって交響曲の本質が大きく変化したことを意味している。彼以後交響曲は、作曲家にとっても聴衆にとっても特別な意味を持つジャンルになっていった。作品の個性、繰り返すことのない1回性への飽くなき志向。ベートーヴェンをとりまく社会の変化がそれを必要としていたし、彼自身の理想・・・・・すなわち「自由」「博愛」「人権」「自己克服」等の精神がそこには盛り込まれる事になった。換言すればこの作曲家は「交響曲」と云う形式に、こうしたひとつの時代精神を表現するための可能性を見いだした上で、その実現の過程に於いて、不可欠な「道具」であるオーケストラの規模を拡大しつつ、絶対音楽としてのスタイルを確立していったとも考えられる。故に彼がまず第一に交響曲作家であった事と、彼自身が幕を開けた時代-------19世紀は謂わば「交響曲の世紀」とも言うべき時代であった事とを知るべきであろう。
だが交響曲という分野に於いてベートーヴェンの後に一体何が付け加えられたろう。彼の残した業績は余りに大きすぎ、これを乗り越える事に多くの後進が腐心し、或いは挫折を余儀なくされた。前号で『未完成』にまつわるシューベルトの葛藤について述べたが、詰まる所彼の悩みの根源も、この余りに偉大な同時代人たる交響曲作家の存在にあった。
シューマンの交響曲では「ソナタ形式からの離脱」が試みられている。本来この形式を構成するための各部分が、形式のための制約から離れ、各々が自由な発展のために開かれている。ひとつの独創である。オーケストレーションの独創には手を焼くけれど。
ベルリオーズは『幻想交響曲』に於いて、楽章間を貫く固定楽想と循環形式を確立した。この作品の完成は『第9』の初演に遅れること僅かに7年(1831年)である事に注目するべきであろう。ただこの形式は発展しなかった。ほかならぬ当のベルリオーズが交響曲をこれ以後書いていない為である。循環形式についてはフランクの交響曲に受け継がれてはいる。が彼にも有名なニ短調の作品(1888年)が1曲あるだけだ。
こうして概観すると(ブルックナーとマーラーについては後述する)作品の独創と各曲の個性の際立ちにベートーヴェンほどの輝きはなかなか見いだし難い。部分的には見るべきものがあっても、単発で終わったりそれ以上の発展が無かったりと中小規模な堂宇こそあちこちに建っても、ベートーヴェンの様な大伽藍はなかなか成り得ない。この様な場合、結局はひとつの類型に回帰する結果をもたらしがちだ。19世紀後半ブラームスやサン=サーンスの交響曲に色濃く影を落としていた古典主義的傾向はそのスタイルや技法を捉えるだけでは足りない。古典の持つ安定と重厚さを志向する精神のはたらきそのものを考えるべきだろう。この場合の古典とは言うまでもなく偉大な交響曲作家の作品群である。そうなのだ。ベートーヴェンの交響曲は彼の死後半世紀足らずで既に古典であった。
*世紀末の光芒--ブラームスとサン=サーンス--
これも余りに有名な話であるが、ブラームスの場合もベートーヴェンの後継者たらんとする過剰な意識が重圧となり、最初の交響曲を世に問う勇気を挫いた。結局最初の交響曲が仕上がったのは40歳を過ぎてからだ。幸い成功した事で重圧からは逃れ、その後は短期間の内に他の3曲の作品も仕上げる事ができた。4楽章形式の固守・各楽章の音楽的素材の自立・人声をも交えない純粋な器楽の世界・そしてメヌエットは勿論スケルツォすら配置しない等、どの曲も確固としたスタイルに貫かれている。こうしてみれば彼の交響曲の世界は、ベートーヴェンの型から入ったものの、その型を容易に抜け出て、明確な一線を画している様に見える。第3交響曲のフィナーレの最後で現れる第1楽章の主題復帰はむしろ例外的である。
サン=サーンスは神童の時代を経て13歳でパリ音楽院に入学し、16歳でオルガンの一等賞をとる。18歳で教会のオルガニストの職を得て、その年「第1番」の交響曲を書いたが(それ以前にも習作が1曲あるようだ)、ここにフランスの交響曲の萌芽を見るのは適当ではなかろう。当時の状況を考えれば、このジャンルは作曲を試みる誰もが通過すべき卒業試験程の意味だったのではないか。と言うのはビゼーも生涯にただ1曲の交響曲を同じ様な年齢の時に書いているからである。その後ローマ大賞を狙って(2度挑んだが、結局挫折した)書いた作品を含めて生涯に4曲の交響曲。これはブラームスと同じであるが、彼の順風満帆な音楽生活のスタートと86歳と云う長寿を考えれば、この数は余りに少ない。
第3交響曲を軸に同時代人であったこの二人の対比を次の表で示してみよう。
主な項目 |
ブラームス |
サン=サーンス |
生年月日(出生地) | 1833年5月7日(ハンブルグ) | 1835年10月9日(パリ) |
没年月日(死没地) | 1897年4月3日(ウィーン) | 1921年12月16日(アルジェ) |
第1交響曲の完成 | 1876年(43歳) (1855年-22歳-より着手) |
1853年(18歳) |
第3交響曲の完成 | 1883年(50歳) | 1886年(51歳) |
交響曲数と その最終作品の完成 |
4曲:1885年 | 4曲:1886年(番号の無い「ローマの都市」を含む) |
生年も「第3番」の交響曲が完成したのもほぼ同じ時期である。(因みに日本人では福澤諭吉が1835年1月とサン=サーンスと同年生まれ。時代の雰囲気を想像して欲しい。新響にも数多おいでの慶應義塾出身の諸賢は、当然この事は知ってました・・・・よねえ)そして二人共がこと交響曲の分野については保守的であった。勿論両者に接点はなく、それぞれ独自にこの結論に行き着いたと考えなければならない。
そもそも交響曲に対する位置づけが異なっていた。ドイツに於ける交響曲は既に一応成熟した上での古典への回帰であったが、フランス------殊に19世紀中葉のパリに於ける音楽の中心はまず外国のオペラであり(自国のオペラは『カルメン』まで待たねばならない)或いは劇音楽であって、交響曲は前述の『幻想交響曲』以後見るべきものがなかった。こちらは謂わば後進性故の保守性とでも言うべきか?とにかくそうした状況下で英国から委嘱を受けたサン=サーンスには3番と云う、交響曲作家にとって聖数とも云える節目の作品を記念碑的なものにしようとする野心が当然あった筈である。それが大編成の管絃楽と自己の音楽の基盤であるオルガンとの融合をもたらした。
この作品に対する委嘱と初演が国外であった点は皮肉以外の何ものでもないが、これが無ければフランスに於ける交響曲の歴史も変わっていたかも知れない。と言うのもこの作品がひとつの契機となって、その後前述のフランクやショーソン、デュカス等の交響曲が相次いで世に出たからである。尤もこの時期にはそれぞれの文化圏で独自のスタイルの交響曲が産み出されていたから、フランスとて例外ではいられなくなっていた側面もあるのだが。それは民族主義と音楽との接点である。初めそれはそれぞれの言語に直結してオペラの隆盛となったが、時を経てこの時期交響曲に波及していた。
19世紀末のこうした交響曲の開花は、「交響曲の世紀」の最後の輝きであり、かつ残照であった。そしてその掉尾にブルックナーとマーラーが出て長大な交響曲を書いた。交響曲の基盤たるソナタ形式をも逸脱した、その余りに巨大化した姿は、絶滅に向かいつつある何物かに似ている印象を抱かせる程だ。事実これ以降、この二人の大作群を上回る交響曲は無い。
前世紀末の残照が完全に消え去った後の20世紀は、最早交響曲の時代とは言えまい。この分野の音楽は、或いは「矮小化」の途を辿り、勢いを失ったかに見える。ある国家なり体制なりの意図の下に作られる場合を除いては------確かにそこに求められたのも交響曲の持つドラマの性格ではある。ただそれはベートーヴェンの自発的な堰を切った様な感情の発露とは異なり、良く言えば自我と国家との葛藤の末の軌跡、悪く言えば作曲家の意慾とは別の次元の、ある種の教化の道具に堕している。「わたしの交響曲の大多数は墓碑である」とは、時に意思とは無関係に国家によって多作を逼られた交響曲に、体制の犠牲者たちへの鎮魂の願いを密かに託したショスタコーヴィッチの言葉である。19世紀の作曲家たちの誰がこんな述懐をしただろう。交響曲の黄昏がこの一言に顕れている。
20世紀の音楽に於いて交響曲というジャンルそのものが多分に色褪せたものに感じられるのは、我々が今やそこに仮託すべき何らの理想もドラマも崇高な美も畏れも見いだし得ず、代わりに目に入ってくるのが戦争・破壊・矛盾・軋轢と云った絶望的な負のメッセージばかりと云う状況に身を置いているからである。
こうした現代の闇からは、前世紀末の交響曲の光芒が殊更に輝いて見える。