1999年6月新響ニュースより
芥川也寸志
「奏楽堂のこと、どう思う?」
揺られるバスの中で、松村禎三がぽっつりと私に言った。
「誰か、責任を取って貰わなくては困るな、そういう気持ちだ」
私は割合とはっきりと、しかも即座にこう言った。かねがね誰かに訴えたかったことを彼は私から引き出してくれた、と、その時思った。
松村は私の言葉を聞くと、「うむ」と言ったきり、真剣な表情になって黙りこくってしまった。
彼は疑いもなく、私と同じ気持ちでいることを、その時はじめて知った。
これが、奏楽堂について私が他人と会話を交わした最初である。それから、少しの間重苦しい沈黙が続いた後,私たちは急に饒舌になり、明治以来の日本の近代化のなかでの音楽の歴史や音楽教育について、あるいは、伝統に対する考え方や文化や文化財について、およそ奏楽堂にまつわるありとあらゆる問題について語りあった。
松村禎三が昭和53年度のサントリー音楽賞をとり、54年の秋、彼を中心としたパスによる小旅行が行われた、その車中でのことてある。
当時、松村は東京芸術大学音楽学部の作由科主任教授であった。
私が友人や先輩に、奏楽堂の保存について電話で訴え始めたのは、松村禎三と別れたその日の晩からであった。
即座に保存運動に加わることを了承し、その年の十月に広く社会に向けて訴えた「要望書」に代表として名前を連ねたのは次の音楽家たちである。
黛敏郎、江藤俊哉、森正、中山悌一、林光、岩城宏之、芥川也寸志(中山悌一氏は後に代表委員を辞退された)。
この様にして始まった奏楽堂保存の運動は、はじめのうちこそ試行錯誤が続いたが、林光が「奏楽堂を救う会」と命名する頃から、その輪はどんどん拡がり、やがて一口千円のカンパの呼びかけに応じて、各界各層から著名人をふくむ、二千人にも達しようという多くの会員が集まった(事務局長、寺西春雄)。
私たちは学校側と交渉を繰り返し、一時にはかなり激しくぶつかりあった。一方、松村禎三は教授会において数人の同志とともに孤立した。小泉文夫、若桑みどり、野田暉行、それに松村禎三は、教授会の中で四人組と呼ぱれ、罵詈雑言を浴びた。
芸大の美術学部には、最も早い段階から奏楽堂の保存について真剣に考え、問題提起をしていた前野嵩がいた。私が奏楽堂も危機的状況についてはじめて知らされたのは、建築専門の彼が中心となって活動していた「上野の杜の会」からの、「東京芸術大学奏楽堂建物の保存に関して」と題された意識調査によってであった。
私たちは昭和54年の秋から、数繁く会合を持ったが、前野はやはり建築専門の鈴木博之、宍戸実、藤森照信とともに、常にその輪に加わり、建築の立場から絶えず指導的な提案、建設的な発言をしてわれわれを引っぱった。
交渉の段階では、学校側の抵抗が強くなれぱ強くなるほど、私たちの信念もまた、固められていったように思う。しかし時には、私自身弱い気持ちに落ちこむこともあった。そんな時、いつも私を奮い立たせて叱咤激励してくれたのは、黛敏郎てあった。
「救う会」の私たちは団結し、あきらめずに希望を捨てなかったからこそ、やがて大きな力に助けられて奏楽堂の保存運動は成功したけれども、われわれの中心にもし黛がいなかったとしたら、その前半においてこの運動は挫析し、奏楽堂の今日の姿はなかったであろう。
大学構内に残すべきだというわれわれの願いは叶えられなかったものの、ほぼそれに近い形で奏楽堂は立派に保存された。「救う会」発足以来、じつに7年半という歳月を経て、今、東京音楽学校奏楽堂は上野公園内に蘇った。
この奇跡に近い保存運動を成功させた最大の功労者こそ、内山栄一現台東区長てある。内山区長は[救う会」を救い、最終的にそして完全に奏楽堂を救った。
奏楽堂に足を踏み入れた時、私たちに向かって無言のうちに語りかけてくる明治以来の先輩たちの声、血の滲むような辛苦の中で、新たな芸術的創造に向かった前世代の人々の不屈の精神、その歴史の重み、そして伝統の意味するもの、私たちが真剣に考え、それ故にこの建物を残そうと努力した心に響くこれらのものを、内山区長は本能的に感じとり、共感をもって純粋に私たちを支持された。
内山区長の熱意は、当時の菅沼東京都議会議長や鈴木東京都知事を動かし、さまざまな過程を経て遂に、私たちにとっては難関てある行政の厚い壁を越え、文部省、東京芸大、東京都、台東区、「救う会」、それぞれの間での合意の形成にまで至るのである。
芸術は、最も象徴的に人間の精神活動を示すものであろう。人間の精神を奮い立たせるような存在ともいうべき奏楽堂が、芸術教育の場の近くに生きた演奏会場として蘇ったことの意味は、計りしれないほど大きい。
また、多くの方々に支えられた幸運、勇気を注ぎ込まれるような心の絆を得たしあわせ、大きな理解に巡り合えたよろこび、今それらを想い起し、感情が激しく揺れ動くのを禁じ得ない。
まさに、感無量である。
(1987年8月)
東京新聞出版局刊『上野奏楽堂物語』より