第153・154回演奏会(日本の交響作品展96)プログラムより


諸井三郎

諸井三郎は、1903年(明治36年)、東京に生まれた。祖父は秩父セメント(現・秩父小野田株式会社)の創業者であり、その社業は、祖父から父、兄、長男へと受け継がれ、現在に至っている。
諸井は、幼くして兄からピアノの手ほどきを受け、小学校6年生の時分には、既に曲作りもしていた。
が、彼が、真実、作曲家になろうと決意したのは、東京高等師範学校付属中学3年のとき、ピアニスト、小倉末子の、ベルリンからの帰朝リサイタルを聴いて、感銘したゆえである。その曲目はベートーヴェンで占められていた。
以後、諸井は、浦和高校から東京帝大文学部に学びつつ、萩原英一、ヴィリー・バルダス、レオニード・コハンスキーにピアノを帥事し、作曲は独習した。大学3年時の27年には、事実上、諸井の作品発表のための組織と言うべき音楽団体「スルヤ」を結成、31年まで7回の演奏会を持ち、ここで諸井は、ピアノソナタにピアノ協奏曲に管弦楽伴奏付き歌曲・・・、総計30曲以上を発表している。この「スルヤ」には、河上徹太郎らが同人として参加し、その周辺には、三好達治、中原中也、小林秀雄、中島健蔵、今日出海、大岡昇平らが居て、諸井と交際していた。まこと、「スルヤ」の人脈は華々しかった。
では、諸井は、いかなる作曲上の理想に燃え、「スルヤ」の活動に従事したのか?作曲家を志したきっかけが、ベートーヴェンの音楽だった点からも窺われるように(*あと、若き日の諸井はフランクにも傾倒していたという)、諸井にとって作曲とは、限られた動機・主題の、緊密で有機的でテンショナブルな展開・発展による、音の伽藍の構築を意味した。大規模かつ意志的、論理的な、19世紀風のソナタや交響曲や協奏曲こそが、諸井にとって作曲に値するものだった。彼は、そうした構築性を欠き、せいぜい歌曲を書くのが関の山の、上の世代の日本の作曲家たちを目の敵にし、日本に真の論理的・構築的作曲の伝統を根づかせることを、自らの使命と考えた。
が、諸井は、そんな使命を遂行するには、自分はまたまだ技術面で未熟と感じていた。そこで彼は、32年、「論理的作曲」の本場、ドイツに渡り、ベルリン高等音楽院でレオ・シュラッテンホルツらに師事して腕を磨き、また、ブルックナーや、当時の花形作曲家、ヒンデミットの音楽に刺激されたりして、34年に帰国した。
この留学は、諸井にとって、すこぶる有益だった。彼はこれを機に、技術的にも精神的にも熟しきった作家になった。諸井は、自らの理想を実現すべく、緻密な動機労作と、確固たるョーロッパ的形式美とに支えられた大作を、ペルリン留学中から量産しはじめた。その中には、『交響曲第2番』、『ピアノ協奏曲』、『ヴァイオリン協奏曲』、『弦楽六重奏曲』、『ピアノソナタ第2番』等が含まれる。
しかし、諸井は、ヨーロッパの精神をなぞる作曲態度に、次第に疑問を抱き、30年代末からは、日本的、東洋的な作曲といったセリフを口にしだす。そういう姿勢の転換には、戦争に伴う時代意識の変化が関係していたろう。とは言え、諸井の「日本的作曲」とは、別に民謡主題とかを用いるものではなかった。彼は、あくまで、日本的というよりはヨーロッパ的なモチーフの、緻密な労作に基づく、大規模な構築的音楽にこだわり続けた。すると、「日本的作曲」はどこへ行ったのか?諸井が自身の音楽に持ち込もうとした日本性とは、主に形式の問題に関わる。つまり、彼は、ソナタ形式ならソナタ形式を、日本人、東洋人の感性により近い、別個の形式に作り替えようとしたのである。
そんな諸井の試みの頂点として、戦争末期に完成した『交響曲第3番』はある。
戦後の諸井は、音楽教育行政、音楽大学の運営、それから理論的著作の仕事に、主に関わった。作曲活動は不活発で、32年間で8つしか作品を書かなかった(2つの交響曲、『ピアノ協奏曲第2番』、『ホルンとピアノのためのソナタ』など)。彼は、77年、心筋梗塞で逝った。享年73。なお、諸井の門人には、柴田南雄、戸田邦雄、入野義朗、三木鶏郎、木下忠司、尾崎宗吉、市川都志春、矢代秋雄らがいる。それから、作曲家、諸井誠は次男である。

プログラムノート

『交響曲第3番』は、1943〜44年に作曲された。この作品は、特に次の2点に於いて重要である。(1)先述の如く、フォルムに、諸井の考えた「日本的作曲」の理念が反映されている点。(2)戦争末期の日本人の心情一不安と焦燥、絶望と諦念の世界が、特にブルックナー『交響曲第9番』を意識したであろう、3楽章仕立ての中に、見事に凝縮されている点。
第1楽章は、序奏部と主部から成る。まず、序奏部はアンダンテ・モルト・トランクイロ・エ・グランディオーゾで、「静かなる序曲」と題されている。弦のリズムの保続の上に、オーボエが断片的でものさびしい音型を奏で、この音型が全管弦楽に敷衍されて高潮し、そして減衰する。
続く主部は、作曲者が「精神の誕生とその発展」と呼ぶところのアレグロ・ヴィヴァーチェ。この箇所は、一応、提示-展開-再現の3部分に分けられるだろう。
まず、提示部。(1)冒頭、ヴァイオリンが奏でる、ややフランク風の動機、(2)これを断ち切る、強いアクセントをもったトロンポーンの動機、(3)オーポエとトロンボーンの吹奏するコラール風の動機-これら3つが次々と登場し、変形され、ついには(1)〜(3)が結合して、息の長い中心主題を形成し、それが燦然と鳴り渡る。そのあと、短いフガートとティンパニの連打があり、次のセクションに移る。
展開部は、バス・クラリネットの瞑想的なソロから始まり、プラスの強奏する5音から成る動機が、緊張したピークをもたらす。この5音の動機は、中心主題の変形である。やがて、第lヴァイオリンに中心主題が再帰し、再現部に入る。ここでは、中心主題が勇壮活発に労作され、ブルックナー的に終止する。では、この楽章のどこが「日本的」か?おそらく、この楽章の日本的性格は、殊に主部の構成法に現れている。つまり、この主部は、一応、見てくれはソナタ形式風の体裁をとりながらも西洋のソナタのように2つの主題が対立・葛藤する2元性の力学にではなく、3つの動機が離合集散してlつの主題を浮き上がらせたり解体したりするという、「多即一」のl元性の力学に支えられているのだ。西洋の、何事も2項対立でとらえる2元論に対し、東洋の思想伝続は和を尊ぶ1元論に立脚しているとは、ひとつの通念である。従って、この楽章の主部で諸井は、東洋の1元的思考に立脚して、西洋流のソナタの精神の「超克」をはかったと言える。
第2楽章は、作曲者が「諧謔について」と呼ぶところのアレグレット・スケルツァンド。強靱な8分の5拍子で一貫するが、このリズムは、「4分の2+8分の1」として把握されるよう指示されている。柴田南雄は、「8分の2+8分の3」という西洋的な5拍子と違う、このリズム分割が「日本的、東洋的」だと評している。
第3楽章は、作曲者が「死に関する諸観念」と呼ぶところの緩やかなフィナーレ。「日本的作曲」という表現が当たるかどうか、ともかくも交響曲の終楽章としては破格な、交響詩的構成に拠っている。
序奏的な性格を持つ、雄大なアダージョ・トランクイロのあと、アンダンテ・トランクイロの、半音階的な二重フガートがはじまる。この部分は、せわしげで苦渋に満ち、行き場のない不安感に満ちている。が、その末に、クラリネットと弦とオルガンによって、長調による、清らかなテーマが立ち上がり、苦渋と不安を浄化して、全曲を結ぶ。「死」がテーマに掲げらていることから見当がつくように、この楽章には、戦争末期、1億玉砕と自らの死を覚悟した諸井の、苦悩と悟り、ないしは諦めの心
情が、切実に投影されていると考えられる。この楽章は、戦時下の日本知識階級層の精神状況についての、真に偉大なドキュメントと言えよう。
この作品を言わば辞世の音楽として遺しながらも、戦後長く生き残ってしまった諸井が、改めて作曲になかなか打ち込めなかったのは、至極当然のように思われる。この曲のあと、いったい人は何を作ればよいのだろう?『交響曲第3番』は、戦中に演奏機会を得られず、ようやく1950年5月26目、日比谷公会堂に於ける東京工業大学の大学祭のコンサートで、山田和男指揮の日本交響楽団により初演された。続いて翌月14日には、同じメンバーでNHKから放送され、その次は、それから28年後の4月6日、諸井の追悼コンサートでの、山田一雄指揮する東京都交響楽団の演奏となる。そして、今回、この曲は、やっと4度目の演奏機会を迎えた。

片山素秀:音楽評論家


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