2000年4月維持会ニュースより


1996年4月第152回演奏会プログラムより

ロシアでのショスタコーヴィチとプロコフィエフ

大塚健夫(ロシア音楽評論家)

 二年前、アシュケナージがヨーロッパ・ユース・オケを率いてモスクワへ来て、音楽院大ホールでコンサートをやった。前半がショスタコーヴィチの交響曲第6番で、とてもよい演奏だったのだが、なにより聴衆の熱狂が凄かった。もちろんアシュケナージの里帰りを暖かく迎えるモスクワっ子の姿勢もあるが、ショスタコーヴィチの音楽、とくにシンフォニーがここまでモスクワで受け入れられるようになったのかというある種の感慨を私はもった。
 私は1982年から83年にかけて当時のレニングラードに留学しており、ムラヴィンスキー・レニングラードフィルの全盛期の最後のシーズンを通して聴くという幸運にめぐまれたが、あの当時客演指揮者も含めてショスタコーヴィチの交響曲はシーズン中一回しか演奏されなかった。そういわれると驚かれる方が多いのではないかと思う。当時のソ連ではショスタコーヴィチとプロコフィエフがそれこそ模範クラシック名曲のごとく頻繁に演奏されていたのではなかったのか、と。その一回というのがシリーズのオープニングに必ずやる(今はどうだかわからないが)第7番「レニングラード」で、ドミトリエフ指揮、レニングラード・シンフォニーの方のオケで演奏したが、なにか多分に政治的な感じがしてコンサートも盛り上がらなかったように思う。ソヴィエトの作曲家としては、ムラヴィンスキーがプロコフィエフの「ロメ・ジュリ」の第2組曲をやった位である。とくにレニングラード(現ペテルスブルグ)の聴衆は保守的で、明らかにベートーヴェン、ブラームスの方を好んでいた。モスクワの方がその意味では進取の気性に富んでいるが、たとえばボリショイ劇場のプログラムにしても、プロコフィエフのいくつかのバレエはともかく、ショスタコーヴィチとなると敬遠されてきた風がある。ボリショイにはショスタコーヴィチの「黄金時代」というバレエのレパートリーがある。この作曲家によるTea for Two のアレンジが聴けたりしてなかなか面白いのだが、正直いってあまり人気のある出し物とはいえない。
ショスタコーヴィチもプロコフィエフも二十世紀を代表する作曲家であることに間違いないが、旧ソ連時代を通じてロシアの音楽家にとってはやりにくい作曲家であったことは容易に想像がつく。加えて、そこにはモスクワにおけるマーラー現象と私が考えているものと共通のものがあるように思う。
 モスクワのオケがマーラーをやると今一つぱっとしないというのは、同じ時期モスクワで仕事をし、よく一緒に演奏会に出かけた新響のヴァイオリニストの川辺亮さんと私の共通意見だが、あれはソ連時代の反マーラー的風潮、しいていえば反ユダヤ的な空気、およびマーラーのオーケストラ曲を聴くに値するオーディオ機器の西側に対する遅れが原因しているのでは、と私は勝手に考えている。ソ連邦が崩壊して政治的束縛が切れ、一方西側のSONYに代表される音響製品がなだれこんできて、ロシア人も欧米人も同じく時代の最先端を行くハイ・ファイに接することができるようになった。マーラーの優れた演奏とともに、バーンスタインの、あるいはチョン・ミュン・フョンのショスタコーヴィチのシンフォニーのCDが入ってきて、こういう演奏もあったのかと今までの一枚岩の解釈が崩れて行く。その昔、1960年代はじめの雪解けの時代、モスクワで公演したバーンスタイン・NYフィルの第5交響曲を聴いて、作曲家ショスタコーヴィチ自ら感動してステージに駆け上がったという。問題は、その後の鎖国・停滞の時代が長過ぎたということだ。いま晴れて自由の時代となったロシアにおいて、アシュケナージのショスタコーヴィチに聴衆は感銘を受けているのである。ロシアにおいて、お国の作曲家ショスタコーヴィチ、プロコフィエフの真の時代がはじまるのはこれからなのだ。(1996年2月)



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