2000年6月維持会ニュースより


小倉 朗の紹介

新響Perc.上原 誠

【生い立ち・楽暦】
 小倉朗は1916年北九州市門司区に生まれ、生後すぐ小倉家の養子となって東京各地及び鎌倉界隈に暮らした。6歳の頃、長姉からピアノの手ほどきを受け、後に音楽好きの叔父の蓄音機で初めて洋楽に接し、大きな衝撃を受けた。弱々しく周囲となじまなかった少年は、成長と共に折から台頭しつつあった軍国主義に対し、こんな世の中の役立ちたくないという反骨精神から、音楽の道に進んでいった。
 深井史郎や池内友次郎からフランス近代音楽の作風を学んだが、のちにジョセフ・ローゼンシュトックにベートーヴェンの交響曲の指揮法を学ぶうちに次第にドイツ古典音楽に傾倒するとともに、ますます戦雲が濃くなる中で「日本主義」「日本的なもの」に背を向けていった。
 しかし西欧の古典一辺倒に行き詰まりを感じ、自分にとって自然な音楽の探る糸口をバルトークに見出し、日本民謡やわらべうたを題材にした作品を手掛け、新しい境地を開くことになる。
 今回演奏する『管弦楽のための舞踊組曲』(1951)はその頃の作品で、日本人にとってその言葉に根差す自然なリズム感や民族的感性に基づく調性感を重視した彼の代表作の一つとなっている。ちなみに1977年に岩波新書(黄版7)として発行された小倉の著書『日本の耳』は、西洋音楽と比較しつつ日本の言葉を論じており、優れた日本文化論と言える。
 1990年没。

【主な管弦楽作品と新響での演奏記録】
作品名 作曲年 新響での演奏記録
交響組曲 イ短調 1941 第79回個展1(78.4.1)
第99回作品展-7(83.4.3)
管弦楽のための
舞踊組曲
1951 第80回個展2(78.4.26)
東京第三友の会主催演奏会(87.1.25)
第114回サントリー音楽賞受賞者コンサート(87.2.1)
日本民謡による五楽章 1957 第79回個展1(78.4.1)
オーケストラのため
のブルレスク
1959 第79回個展1(78.4.1)
交響曲 ト調 1968 第79回個展1(78.4.1)
ヴァイオリン協奏曲 1971 第80回個展2(78.4.26)
オーケストラのためのコンポジション嬰へ調 1975 第80回個展2(78.4.26)
チェロ協奏曲 1980

【『小倉朗 交響作品展』の思い出】
 新響が初めて小倉朗の作品を取り上げたのは、1978年“日本の交響作品展”シリーズの第2回、2夜にわたる『小倉朗 交響作品展』(第79回:4月1日、第80回:4月26日)だった。
 1976年に創立20周年記念として、やはり2夜にわたって開催した『日本の交響作品展(昭和8年〜18年)』は「殆ど埋もれていた日本のオーケストラ作品を発掘・再現した企画と、個々の作品を適確に把握したきわめてすぐれた演奏内容により、1976年における最も傑出した音楽会」として第8回鳥井音楽賞(現・サントリー音楽賞、「 」内は推薦理由抜粋)を受賞、それに続くものとして、この『小倉朗 交響作品展』は大変意欲的な演奏会だった。現在でも類を見ない立派なプログラムは、今も小倉朗に関する最も充実した資料であり、特に前代未聞というべ
きは『或る作曲家の日鈔』と題した写真展だった。音楽家専門の写真家として世界の第一人者である木之下晃氏が、1年間に渡って小倉朗に密着して撮り続けた写真が、演奏会に先立って京王プラザホテルに展示された。
 私たちは写真から作曲家の日ごろの生活ぶり、仕事場の様子を目の当たりにし、しばしば練習に訪れた作曲家から直接作品についてのレクチャーを受けた。今もなおクラシック音楽といえば、およそ200年前後昔のヨーロッパの作品が主流であり、いわば「遠きにありて想うもの」あるいは「見果てぬ夢」といった接し方ではなかろうか。ところが私たちと同じ視点を持ち、同じ言葉で話す作曲家とともに作品を仕上げてゆくプロセスは、CDの名演に決して
追いつくことのできない泰西名曲では味わうことのできないクリエイティブな作業だった。こうして1986年の『新響と30年−芥川也寸志』まで10回の“日本の交響作品展”は新響の血となり肉となり、他に類を見ないクリエイティブな姿勢を持つオーケストラとなった。山田一雄先生や飯守先生に続けて指揮していただけるのも、アマチュアで唯一演奏団体として認知されているのも、邦人作品で培われた新響のアイデンティティーによるものに他ならない。
 邦人作品のスタートは“20周年”だが、この新響のアイデンティティー確立の原点となったのは、小倉朗作品展だった。これからも新響は新響であり続けなければならない。


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