2000年6月維持会ニュースより
新響Vc.吉川 具美
飯守=新響 ますます「意外」な今回のプログラミング
初めて飯守泰次郎氏を新響にお迎えして7年目、飯守氏と新響が今回のラヴェル/小倉朗/ストラヴィンスキーの3曲というようなプログラムを組むことになろうとは、初共演の1993年当時には、想像もつきませんでした。それほどに、定期10回目の共演となる飯守氏との7年間は、予想を上回る豊かな展開でした(別表「飯守=新響の世界の広がり」参照)。
ポスト芥川/山田の新響指揮者陣を概観する
89年に創立指揮者芥川也寸志を、次いで91年にはマーラー全交響曲チクルスを共演した名誉指揮者山田一雄を、と2本の柱を相次いで失った一方で、新響は幸いにも新たな活動のよすがとなる出会いに恵まれます。
その筆頭にあげられるのが、原田幸一郎氏。89〜96年までの7年間でベートーヴェンの交響曲6曲を中心に9回の共演を重ねる中、弦楽器を中心にアンサンブルを鍛えられ、ピアニシモの表現や音程の意識などの課題に取り組みます。91年からは、芥川と同じ伊福部昭氏門下の作曲家・石井眞木氏との「現代の交響作品展」の取り組みがあり、93年のベルリン芸術週間に邦人作品のみのプログラムで参加するなど、新響史に新たな1ページを残すことができました。同じ91年には、当時芸大客員教授として来日中のフランシス・トラヴィス氏との出会いもあり、指揮者/音楽学者/教育者としての豊富な実績と素養にもとづく暖かい指導で、新響の新ウィーン楽派初挑戦となった「ヴォツェック」や、今も昔も新響の課題である色彩感への取り組みとしてスクリャービン、ファリャ、R.コルサコフといったレパートリーでの薫陶を受けました。
92年7月の山田一雄追悼演奏会では、初めて小泉和裕氏をお迎えします。その雄弁なタクトで自らの音楽を明解に描く技術の見事さは、多くの団員の支持を集め、小泉氏の音楽性と新響の個性が相乗効果を生んだ94年1月のショスタコーヴィチ10番や、98年4月のマーラー6番など、これまでの8年間で6回の共演を重ねています。このほか、数々の素晴らしい指揮者との出会いがあり、私たち団員が常に自らに問うべきは、なぜこれほどの指揮者陣が、繰り返し新響の指揮台に立ってくださるのか、ということだといえましょう。
飯守氏と新響の出会い:1993年〜96年のブルックナー・ワーグナー中心期
さて、以上のような魅力ある指揮者陣に恵まれるなか、93年4月に新響は初めて飯守泰次郎氏と共演。当時の飯守氏は、ヨーロッパでの活動がまだ大きな比重を占めていたこともあり、飯守氏と新響の双方が初共演で抱いた強い印象を確認しあうには、95年7月まで待たねばなりませんでした。その95年の共演では、厳しさを増す飯守氏の要求に必死で応えようとする中から、新響はドイツ=オーストリア音楽の神髄の一端に、かつてない深さで触れることができました。そしてその半年後の96年1月、新響創立40周年記念シリーズの初回を飾ったワーグナー「ワルキューレ」第1幕全曲の演奏会の圧倒的体験が、翌97年から新たに飯守氏を継続的に迎える関係への決定打となります。
1997年以降〜新たな飯守ワールドの展開
さて、飯守氏を語るときついてまわるのが「日本最高のワーグナー指揮者」という評価です。その言葉自体は確かに正しく、ワーグナー演奏の総本山ともいうべきバイロイト音楽祭の助手を四半世紀務めた飯守氏が、巨大なワーグナー作品の数々のスコアを細部に至るまで誰よりも熟知していることは、新響自身も98年7月「ニーベルングの指環」抜粋を体験するなかでさらに実感しました。
しかし、往年の巨匠カール・ベームはバイロイトで若き日の飯守氏に「ワーグナーを良く指揮するには、モーツァルトやそれ以前のバロックも含め、さまざまな西洋音楽も良く指揮できなければならない」と説きました。
その教えに忠実に従い、ワーグナー/ブルックナーに限らず幅広いレパートリーへの取り組みを地道に重ねた飯守氏にとって、「ワーグナー」の定評ゆえに他の取り組みが限定される、というむずかしさもありました。
96年「ワルキューレ」に難渋する新響を導いた飯守氏の指導は、ワーグナーという作曲家がそれ以前の西洋音楽のすべてを包括し、それ以後の西洋音楽への扉を開いた存在であることを実感させる、幅広くかつ奥深い説得力に富んだものでした。これをきっかけに、新響は西洋音楽全般にわたる飯守氏の幅広い可能性に目を向け、新たな「飯守ワールド」を開拓、その幅は次第に広がり、本年1月のような「まさにそのときの飯守=新響でしかありえないプログラム」へと発展します。
飯守氏のもとで邦人作品を演奏することの魅力
話は前後しますが、新響は飯守氏のもと、97年4月に武満徹作品に初挑戦。これは、「新響といえば邦人。これから新響と一緒にやっていくなら邦人での共演が必須となろう」と考えた飯守氏の発案によるものでした。
その後99年1月、光の当たらぬ邦人作品の領域での初めての共演が実現します。この深井史郎「パロディ的な4楽章」での飯守の指導が、多くの団員にきわめて鮮烈な印象を残します。飯守氏の、スコアの隅々まで研究し尽くし作品の魅力を鮮やかに引出す見事な手腕。邦人作品となると途端に指導に魅力が失せる指揮者が少なくないことを身をもって知る新響にとって、作品への率直な共感と愛情をひしひしと感じさせた飯守氏のこのときの指導は大きな驚きで、本年1月の諸井三郎交響曲第3番の再演へとつながりました。
飯守氏との芥川没後10年記念演奏会
昨年夏の芥川没後10年記念の一連の演奏会は、急遽飯守氏に指揮していただくことになったものでしたが、芥川自身の芥川作品解釈がいまも体に沁みついて離れぬ新響に、飯守氏は「作曲者自身が創立したオーケストラならではの伝統」と理解を示したうえで、ご自身が長いヨーロッパ生活で西洋の精神と人生を賭けて格闘してきた蓄積をもって、驚くべき真摯さで対峙してくださいました。その結果、飯守氏によって芥川作品は、本来の構造や色彩感が立体的にはっきりと示され、作曲者生前の演奏からはばたく新たな生命を吹き込まれ、世紀を超えて演奏され続ける力を与えられました。
「小倉朗」が象徴する、新響の邦人作品への取り組み
飯守氏との出会いによって、新響は創立者芥川以来の余人をもってかえがたい邦人作品指揮者を得ました。飯守氏と新響が邦人作品での共演を重ねて行くことは、指揮者とオーケストラが互いに自らのアイデンティティーにきびしく向かい合う真に創造的な営みです。
今回の新響のプログラムの3人の作曲家を見るとき、ラヴェルやストラヴィンスキーの生涯や他の作品は多少
なりともわかるが、ほんの10年前に没した日本の小倉朗については何も知らない、という団員の方が多いという現実があります。まさにこの逆説的な現実こそ、1978年に始まった芥川=新響の「日本の交響作品展」の原点でした。
新響の邦人作品への取り組みは、聴衆あるいは演奏家と時空あるいは民族性を共有する作曲家による、今の自分のために書かれた音楽を求めるという、ごく自然な精神の必然にもとづいています。小倉朗は、1990年に没するまでまさに「生きている作曲家」として、新響の活動にその飄々とした居ずまいで度々立会い、打ち上げの席では団員と共に酌み交わす交流を重ねた存在です。鎌倉・二階堂の傾斜地の竹林に囲まれた質素なアトリエで、当時の前衛全盛の風潮に背を向け、戦乱や、自ら「学歴・職歴 ナシ」と名乗るような生活の窮乏を経ながら、ひたすらに「人間に生きる力を与えるような音楽」を求めて骨身を削った小倉の生涯とその作品に、没後10年を機会にいま一度目を向けてみましょう。
飯守氏と小倉朗にひそむ共通性
小倉朗には、4期にわたる作風の変化があったとされますが、そのうち習作期とされる前半2期の計15年以上に
わたる作品を、ある時期にすべて焼き捨てたそうです。過去の自分を断じ去る痛ましい行為を経て、ついに作風を確立する転機となった作品が、今回演奏する「舞踊組曲」です。この作品だけをみても、小倉朗と飯守氏の間には、数々の期待を抱かせる不思議な共通項があります。
「舞踊組曲」の頃の小倉朗は、バルトークの音楽とマジャール語との関係から、みずからの音楽と日本語の語感との関係を見出し、そこから日本人としての自己に向き合う以降の確固たる道をつかみました。飯守氏も、ヨーロッパのオペラハウスでの長い経験から、つねづね音楽と言語は不可分、と語り、ブルックナーの交響曲やラヴェルの舞曲にさえその国の言葉で即興の歌詞をつけて歌ってみせることがあります。飯守氏が小倉朗の作品にどんな日本語の語感を見出すのか、非常に興味深い点です。
また、飯守氏はこれまでの新響との7年間、一貫して、西洋音楽を支える根本システムである「調性」を重視した指導に意を注いできました。いっぽう小倉朗は、調性とドミナントに幼時から「人間の手にすることの出来ない力を手にしたような感動」を抱いた作曲家です。小倉の作品を貫く調性への信頼を、飯守氏の薫陶を経た新響
がどう表現できるか、芥川時代の小倉演奏を乗り越える大きな鍵となりそうです。
小倉朗は、バルトークの説く「音楽と自然の関係」とバルトーク固有の調性体系から、小倉自身の音楽と物理法則との関係に根ざす作曲姿勢を確立し、その音楽観を数多くのすぐれた著述のなかでも見事な文章で伝えています。新響のリハーサルで、なかなか音程が揃わない新響に対し、「音程は自然界のなかの完全な体系としてもともと存在しているもの。みなさんはただそれに耳を澄まして」と励ます飯守氏の内面には、ピタゴラスあるいはケプラーの時代に音楽と数学を同一視していた西洋古来の世界観が息づいていることを感じさせ、それは小倉朗の音楽芸術観と見事に符合するものです。
しかし、飯守氏と小倉朗を結ぶ最大の共通項は、「音楽が人間に与える力への絶対的な信頼」に他なりません。同時代の音楽が「ゲンダイオンガク」として一般聴衆から遊離していった私たちの20世紀は、音楽と人間との関係が次第に危機を迎えているともいえる困難な時代です。そんななかで、小倉朗という作曲家と飯守泰次郎という指揮者は、なお音楽の力を真っ向から信じる数少ない音楽家であることは間違いありません。
7年をかけて、ついに飯守氏と新響は「小倉朗」という、新響ならではの交流の歴史をもつ特別な作曲家の世界に足を踏み入れます。そこで今の新響は、はたして何を表現しうるのか。15分あまりの楽曲ですが、その演奏にかけがえのない意味があることを胸に刻んで取り組みます。当日のお越しをお待ちしております。
<別表:飯守=新響の世界の広がり>
1993年4月 | ワーグナー:「ローエングリン」1幕への前奏曲 同:「タンホイザー」序曲 ブルックナー:交響曲第4番 |
1995年7月 | ワーグナー:「マイスタージンガー」1幕への前奏曲 ブルックナー:交響曲第8番 |
1996年1月 | ワーグナー:「タンホイザー」序曲とヴェーヌスベルクの音楽 同:楽劇「ワルキューレ」第1幕全曲 |
1997年4月 | 武満徹:鳥は星型の庭に降りる ブルックナー:交響曲第7番 |
1997年10月 | ドビュッシー:交響組曲「春」 スクリャービン:法悦の詩 ブラームス:交響曲第4番 |
1998年7月 | ワーグナー:「ニーベルングの指環」抜粋 |
1999年1月 | ブラームス:交響曲第3番 深井史郎:パロディ的な4楽章 サン=サーンス:交響曲第3番「オルガン付 |
1999年7月《芥川也寸志没後10年》 | 芥川也寸志:交響三章 同:交響管絃楽のための音楽 同:弦楽のための三楽章 同:交響曲第1番 同:エローラ交響曲 |
2000年1月 | シューマン:交響曲第4番「ライン」 ヴィラ=ロボス:ブラジル風バッハ第7番 諸井三郎:交響曲第3番 |
2000年7月 | ラヴェル:高貴で感傷的なワルツ 小倉朗:舞踊組曲 ストラヴィンスキー:「火の鳥」全曲 |