2000年9月維持会ニュースより
Va. 河野 航
20世紀最後の新交響楽団演奏会。この一つの区切りの演奏会に、メンデルスゾーンのイタリア、ドヴォルザークの7番という、名曲中の名曲を取り上げたのは訳がある。
まずは2人の生い立ちを比較してみることにしよう。
* * *
フェリックス・メンデルスゾーンは1809年2月3日、ハンブルグに生まれた。フェリックスの母方の曾祖父はベルリンの資産家であり、プロイセン王フリードリヒU世の財政顧問をつとめていた。父は銀行家であり、フェリックスはとても恵まれた環境の中に生まれたのである。
1812年、フェリックス3歳の年に一家は戦禍を逃れてベルリンに移り、以後は20歳にロンドンを訪れるまで、ベルリンを中心に活動した。彼が音楽に対する才覚を表し始めたのも、ここベルリンにおいてである。9歳のときにピアノの演奏会を開いてデビューし、やがて自宅の音楽堂で管弦楽の演奏会が開かれるようになると、管弦楽曲を作曲するようになった。彼はピアニストであり、指揮者であり、なおかつ作曲家としてベルリンで活躍していた。
20歳の時にフェリックスはイギリスへ渡り、ロンドンへ活動の中心を移した。ロンドンでは自作の交響曲第1番を指揮したり、アイルランドの作曲家であるジョン・フィールドと親交を深めたりすることができ、彼にとってとても有意義な時であった。
彼の祖父は著名な哲学者として知られるモーゼス・メンデルスゾーンであり、ユダヤ系であった。モーゼスの名は、彼が行ったプロイセンによるユダヤ人への差別への抵抗により、現在まで歴史に残っている。
モーゼスとフェリックスは実際に顔を合わせることはなかった。そればかりか、フェリックスの父(モーゼスの息子)であるアブラハムは、フェリックス7歳の年に、キリスト教へ一家で改宗している。その時に、バルトルディという名が彼ら一家に付け加わったのである。フェリックスの本名は、ヤーコプ=ルートヴィッヒ=フェリックス=メンデルスゾーン=バルトルディという、とても長い名前である。
フェリックスらがキリスト教に改宗したのにも関わらず、ベルリンの街はユダヤの血の入ったフェリックスらに冷たかった。やがて26歳になったフェリックスは、居をライプチヒに移し、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮するようになった。結局ここが彼の終の棲家となる。
1842年に母を亡くしたのをきっかけに、彼はライプチヒに音楽院を設立した。シューマンらとともに自ら教鞭を持ち、後進の指導に努めたが、5年後の1847年、姉の死の知らせを聞いて神経障害に陥り、11月4日に38年の短い生涯を終えたのである。
* * *
対するアントン・ドヴォルザークは、1841年9月8日、ネラホゼヴェス(プラハ近郊の町)に生まれた。宿屋の長男として生まれたため、父は家業を継がせたかったのだろうが、アントンはそれに逆らって、16歳のときにプラハへ移り、オルガン学校へ入学した。卒業後はヴィオラ奏者となり、劇場付の管弦楽団の中で活躍した。在職中にスメタナと出会い、その才能を認められ、この頃から徐々にドヴォルザークの名声が高まっていく。
1873年にアルト歌手であるアンナ・チェルマコヴァと結婚した後は、オーストリア政府による奨学金、ブラームスとの親交と、国際的にも名前を轟かせるようになり、1882年にはウィーンへ来てオペラを書いてくれ、との依頼を受けるが、愛国心の強い彼はそれを断り、チェコに居座った。
1892年にはニューヨークへ音楽院院長として招聘され、第9番交響曲やチェロ協奏曲などを作曲した。世を去る直前にはオーストリアの終身議員となり、亡くなったときには国葬を執り行われるなど、彼の名声は右肩上がり一本調子であった。
* * *
このように対比してみると、メンデルスゾーンとドヴォルザークの生き方は、とても似ても似つかないものがある。メンデルスゾーンの曲は、ハイ・ソサエティの優雅さが満ちあふれているのに対し、ドヴォルザークの曲はとても土着的で、愛国心にあふれている(このような場合、筆者は「土くさい」という表現を好んで使う。)。これは、彼ら2人の目指す音楽の方向の違いも原因していることだろう。
メンデルスゾーンは、同時代の作曲家よりも、むしろバッハやモーツァルトの音楽に傾倒しており、その影響の強さに驚かされる。
対してドヴォルザークは、ワーグナーの影響を強く受け、ブラームスと親交を深めてからは彼から音楽構成を学び、チェコの民族音楽とロマン派の音楽を融合させ、彼の独特な語法を確立していった。彼の十八番であるヘミオレのリズムは多くの曲に活用されている。
いずれにしても、この2人の音楽はとても洗練されており、その中でそれぞれの個性が際立っているのである。
* * *
この2人の作曲家が交響曲を作曲したとき、どのような曲が他には作られていたのか。主要な交響曲作品(19世紀にできたもの)を時系列的に見てみることにしよう。
1806 ベートーヴェン 交響曲第4番
1808 ベートーヴェン 交響曲第5番
交響曲第6番
1812 ベートーヴェン 交響曲第7番
交響曲第8番
1822 シューベルト 交響曲第8番
1824 ベートーヴェン 交響曲第9番
メンデルスゾーン 交響曲第1番
1828 シューベルト 交響曲第9番
1830 メンデルスゾーン 交響曲第5番
1833 メンデルスゾーン 交響曲第4番
1841 シューマン 交響曲第1番
交響曲第4番
1842 メンデルスゾーン 交響曲第3番
1846 シューマン 交響曲第2番
1850 シューマン 交響曲第3番
1866 チャイコフスキー 交響曲第1番
1872 チャイコフスキー 交響曲第2番
1874 ドヴォルザーク 交響曲第4番
1875 チャイコフスキー 交響曲第3番
ドヴォルザーク 交響曲第5番
1876 ブラームス 交響曲第1番
1877 ブラームス 交響曲第2番
1878 チャイコフスキー 交響曲第4番
1880 ドヴォルザーク 交響曲第6番
1883 ブラームス 交響曲第3番
1885 ブラームス 交響曲第4番
ドヴォルザーク 交響曲第7番
チャイコフスキー 「マンフレッド」
1888 チャイコフスキー 交響曲第5番
フランク 交響曲
1889 ドヴォルザーク 交響曲第8番
1893 チャイコフスキー 交響曲第6番
ドヴォルザーク 交響曲第9番
1896 マーラー 交響曲第1番
メンデルスゾーンの交響曲の番号が順不同であるのは、番号をつけたのが出版社であり、出版した順に番号をつけたからである。
ちなみに、ドヴォルザークの番号も、つい先日までは5番までしかなかったのであるが、これは1番から4番までが最近まで存在が知られていなかったからである。ドヴォルザーク自身も、1番は破棄したものと思っていたらしく、彼は自分の作曲した交響曲は8曲であると思っていたとの説もある。
これを見てみると、メンデルスゾーンはちょうどシューベルトとシューマンにはさまれている格好であるが、どちらとも毛色が若干違う。それに比べると、ドヴォルザークはまさにブラームスとともに歩んでいることが見て取れる。そして、ハイドンを父とし、モーツァルト、ベートーヴェンらによって引き継がれて発展していった交響曲の進化のあとが見られないだろうか。
* * *
新交響楽団は、これまで比較的規模の大きい曲を好んで取り上げてきた。しかし、21世紀を目前にした今、今一度音楽という文化、そして交響曲という楽曲形態が進化してきた道を振り返り、原点に立ち戻って交響曲という一つの文化を見なおしてみたい。そうすることによって、21世紀の新交響楽団の演奏に、深みを与えることができればと筆者は思う。新しきを知るには、古きを知ることが必要なのである。新古典主義とも言われるメンデルスゾーンの交響曲、愛国心のかたまりのような深い感情を持ったドヴォルザークの交響曲、そして指揮者原田幸一郎と、格好の素材が揃った。
(参考文献)新音楽辞典〜人名<音楽之友社>