2000年9月維持会ニュースより


「これからも新響は新響であり続けなければならない」

(当団打楽器パートの上原誠が8月13日、不慮の水の事故で他界しました。氏は、前回の維持会ニュースに寄稿いただいたところであり、まだまだ活躍が期待されていたところでした。謹んでお知らせいたします。)

新響Vc. 長島 良夫

 電話を取って思わず絶句してしまった。上原さんが,沖縄の海で水死をされたというのだ。上原さんがご家族と沖縄を旅行中に,不慮の事故に遭われたらしい,詳細は不明とのことである。果たして,そんなことがあっていいものだろうか・・・・
 上原さんとは新響の活動などを通じて,日頃から親しくさせていただいてきたし,7月の170回演奏会では同じステージに立っている。このときは,元気にタイコを叩いていた上原さん。その上原さんのあまりにも突然の訃報に,私は震えが止まらなかった。
 ほんとうにほんとうに残念なことである。
 上原さんが事故に遭われた8月13日は,山田一雄先生のご命日でもある。
 山田先生が初めて新響を振ってくださったのは,今から20年ほど前のマーラーの5番の交響曲であったが,この演奏会のことは今でも語り草である。何かの折りに,この演奏会の模様を上原さんからお聞きしたことがある。
「あのときは,舞台の上で太鼓を叩きながら,ああ,山田さんとだと,ここまでできるんだと思ったんだ」
とその感激を語ってくれた。上原さんは,山田先生の熱心なファンでもあった。
 上原さんは,山田先生の元に旅立たれてしまわれたのか。しかし,どうしてこんなにも早く?

 上原さんは1972年11月の入団というから,27年の長きに渡って新響の打楽器セクションで活躍されてきた。新響のメンバーの中でも,古参団員のひとりである。
 打楽器のメンバーは,その楽器の性格上というか,多くの楽器を扱わなければならないということも手伝って,手先の器用な人が多いようである。新響のティンパニを収納するための木枠や,譜面台を入れるための大きな木箱も,打楽器のメンバーの手によるものだそうである。当然,器用さでは,上原さんもその例に漏れない。上原さんは自分が叩くティンパニを自作したそうであるから,その器用さは推して知るべしであろう。
 上原さんの熱意は,楽器作りにとどまらない。
 上原さんの音楽に対する知識の量は新響随一のものだった。特に,日本人の今ではあまり振り返られる機会もない作曲家たちの作品に関する該博な知識は,新響だけではなく,日本の音楽界でも貴重な存在になったはずである。特に,戦前戦後のある時期の,すでに日本の西洋音楽史上では忘れられてしまった(あるいは忘れかかっている)ような作曲家の作品は特に詳しかった。
 深井史郎,諸井三郎,小倉朗等々。
 上原さんは,これらの知識を演奏会に足繁く通うことによって積み上げてきたのである。昔のことはわからないが,上原さんは,最近はN響と新日本フィルの定期会員であったように思う。演奏会のプログラムなどは,散逸してしまうことが多いものだが,上原さんは様々な演奏会のプログラムを丹念に,収集保存されていた。
 2,3年前のことになるが,私がメシアンの『忘れられた捧げもの』の曲目解説を書こうとしたときも,この曲に関する資料があまりに少ないのを嘆いたところ,翌週,二十数年も前のフランス国立管弦楽団の演奏会プログラムを持ってきていただいた。
 二十数年も前の演奏会の曲目を覚えていて(メシアンの『忘れられた捧げもの』は,大曲ではなく,10分ちょっとの曲である),しかもその資料がすぐに出てくるというのが,私のような無精者にはひとつの驚異であった。
 そんな縁もあって,日頃,新響演奏会のプログラムの編集を担当している私は,困ったときは上原さんに原稿を頼めば何とかしてくれる,と常に当てにしてきたのである。
 前回(170回)の小倉朗さんの『舞踊組曲』の解説も当然の如く,上原さんに頼んだ。このようなオーケストラの普段のレパートリーに入っていないような作品は,資料が極端に少ないので,誰にでも頼めるというわけにはいかないのが,こちらの悩みの種である。
 こんなとき上原さんは,いつも二つ返事で快く引き受けてくれた。そして,お仕事もかなり忙しかったようであったが,締切りもきちんと守ってくれた。
 小倉朗さんの『舞踊組曲』の原稿は,維持会ニュースの原稿を流用したせいか,小倉さんの紹介に関する記述がほとんどで,曲に関する記述が少なかった。私が土曜日の練習終了後に,その旨申し上げると,
「それは気になっていたんだけど。やっぱりそうですか。それじゃ,曲に関することも追加しましょう」
と嫌な顔ひとつせずに引き受けてくれた。そして,月曜日の午前中には私の方に原稿を送ってくれた。

 上原さんと最後に親しくお話をさせていただいたのは,4月の演奏会(ショスタコーヴィチの7番)の打ち上げ終了後に,みんなで打楽器の田中さんのお宅にお邪魔したときだった。上原さんとそのときどんな話をしたか?
 たしか,今年秋のウィーン国立歌劇場の来日公演のことが話題に上ったはずである。その中の演目のひとつにR.シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』があった。
「R.シュトラウスがホフマンスタールと組んだオペラはみんないいね。『ばらの騎士』とか『アラベラ』とか。オペラというのは,芸術としても最高に面白いもののひとつだと思うけど,そのオペラの中でも,R.シュトラウスとホフマンスタールが組んで作ったオペラは,オペラの最高峰なんじゃないかな。ホフマンスタールという人はすごいね。前に彼の小説を読んだことがあるけど,美しい小説だったよ。それはそうと,秋に『ナクソス島のアリアドネ』をやるの? それは是非聴きたいな・・・」
 オペラの話のついでに,今年11月の新国立劇場のオペラ公演であるバルトークの『青ひげ公の城』も話題に上がったようである。この公演では,新響をいつも振ってくださる飯守先生が指揮をされるので,特にこの話が出たのだろう。
 上原さんは,このオペラについてはご存知がないようであったが,「飯守さんがオペラを指揮するんだ。それは聴きに行きたいね。僕の分のチケットも取っておいてもらおうかな」といっていた。
 その後しばらくして,上原さんの分としてチケットを1枚確保した。しかし上原さんはもういない。
 一番最後に親しく接したのは,7月上旬,リハーサル終了後に飯守先生を囲んで食事をしたときだった。このときは,飯守先生に演奏会で取り上げる曲に関することを聞こうとして,邦人作品に詳しい上原さんをお連れしたのだった。私の方で話が詰まってしまったら,上原さんに助け船を出してもらおうと考えたのである。
 しかし,実際にはそのような場面はほとんどなかった。上原さんも控え目な方なので,ご自分から話に割り込むようなことはなかった。上原さんはご自分で用意した資料を手にしながら,飯守先生の聞き取りやすいとはいえないような低い声に,じっと耳を傾けていた。飯守先生の言葉をひとことも聞き漏らすまいとしていた上原さんの姿が目に浮かぶ。

 上原さんは,どちらかというと,静かで控えめな人と思っていたが,前回の「維持会ニュース」を見たときは驚いた。
 上原さんの文章は,作曲家の小倉朗さんを紹介し,小倉さんの個展を開いたときの思い出を綴ったものだった。そして,その末尾には「これからも新響は新響であり続けなければならない」と書いてあった。前の文と比較して,この文だけが突出しているように思えた。
 上原さんのように穏かな人が,このように断定的な書き方をしたのが意外であった。どうして,このような強い言い方をしなくてはならなかったのだろう? 私は気になった。
 上原さんから,このことに対する答えが得られることはない。しかし,上原さんは,日頃の柔和な風貌をかなぐり捨ててまでして,重大なことを我々に伝えたかったのではなかろうか。そして,それは一体どのようなことか?
 そのことに対する結論は容易には出まい。第一,言葉があまりにも漠然としている。しかし,容易に結論が出なくとも,このことを考え続けていくことが,残された私たちに課せられた使命であると思うのである。


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