2000年12月維持会ニュースより
Vn村井 功、村井 美代子
ジェームズ・ロックハート先生はスコットランド生まれの指揮者です。イングランド、ウエールズ、北アイルランドなどとイギリス国を形成しているスコットランドは独立心の気概の強い国民が多くそれだけ自分たちの伝統と格式を重んじているといえます。やはりスコットランド生まれの俳優ショーン・コネリーは、イギリス女王からの叙勲を拒みつづけてきましたが、最近になってようやく叙勲を受ける気になり、これでようやく彼もほんとうに女王陛下のジェームズ・ボンドになったということが記事になるくらい誇り高い気質をもっているといえます。
ゴルフ全英オープンの舞台であるセント・アンドリュースはスコットランドの東岸、北海に続くフォース湾の北側に位置します。テレビでたまたま中継を見たときに、このゴルフ場はゴルファーたちの壮絶な闘いの場であるにもかかわらず、なぜか優雅でのんびりしたように見えるのはスコットランドの背景と無縁であるようには思われませんでした。羊飼いが杖で小石を兎の巣穴に打ち込んだ事に端を発するというゴルフは、18世紀中頃まではホール数の決まりがなく、セント・アンドリュースも海岸線に沿ってイーデン河まで往復する当時は22ホールのコースだったそうです。それが、たまたま最初の4ホールが魅力に欠けていたので1764年に18ホールとしたところ、スコットランド中のコースがそれに習い、やがては世界標準になってしったという訳。
また、スコットランドといえば、スコッチ・ウィスキーを思い浮かべる方も多いでしょう。芳醇な香がたまらず、愛飲されている方も多いはず。初期のウィスキーは、香はよかったが重くて万人むけでなかったところ、1826年に発明された連続式蒸留機によりグレイン・ウィスキーが作られ、ハイランド・モルトをブレンドするとこれまでにない飲み心地の良いウィスキーが誕生しました。これが今日まで伝わるブレンディッド・ウィスキーなのです。日本人として初めて、モルト・ウィスキーの製法を学ぶためにスコットランドに留学していた竹鶴政孝は苦難の末にウィスキー作りの技術を日本に持ち帰りました。国産のウィスキーも捨てがたい、と思う方がいらしたら、それは竹鶴がもたらしたスコットランドの自然の恵みと神の業が口の中で広がるせいかも知れません。
ロックハート先生はそんな国から日本にいらっしゃいました。
ロックハート先生ご夫妻と私たち夫婦の出会いは1通の手紙に始まります。私たちの知り合いに英国人の女性バイオリン奏者がいて、その彼女の叔母セーラがハレ管弦楽団でやはりバイオリンを弾いていました。セーラとはハレ管弦楽団の日本公演の時にお目にかかりすっかり意気投合したのですが、やがてシーラ・ロックハートという方から手紙が届き、それには、私はあなた方の友達セーラの古くからの知りあいで今度主人が日本の音楽大学に呼ばれて指揮科の先生になった。日本へ行くならあなた方に連絡してと言われたのでこれを書いているとありました。これが、ロックハート先生が東京芸術大学音楽学部指揮科の客員教授として赴任なさってから1ヶ月目のことです。
やがて、友達の友達はみな友達だ方式知り合ったロックハート先生ご夫妻と表参道の駅で初めてお目にかかりました。そして、初めて会うなり、どうか僕をジミー、家内をシーラと呼んでくれ、そして僕たちは君たちをイサオ、ミヨコと呼ぼう。いいね!といった具合でした。こうして、私たちとロックハート先生ご夫妻との親交がはじまったのです。
ここで、先生と音楽との係わり合いについてインタビューをしましたのでご紹介します。
−どんなきっかけで音楽を始められたのですか?
「7歳でピアノを始めました。私は腕白でちょっと変わった子供だったそうで音楽好きの母がピアノでもやったら落ち着いた性格になるかしらと思ったようです。
11歳の時、小学校の音楽の先生に勧められバイオリンを、13歳からはオルガンのレッスンも受けるようになりました。」
−どのようなレッスンだったのですか?
「私は普通の学校に通っていたのですが、小、中、高校にそれぞれ良い先生がいて高校卒業まで放課後個人レッスンを受けていました。ラグビー、クリケット、フットボールが大好きで選手でもあったので本当に忙しい毎日でした。」
(先生は今も、真夜中でもTVでラグビーやクリケットの試合中継を熱心に観戦されるそうです。)
−先生の声はとても素適だと思うのですが。
「小学校の喉自慢大会で優勝しました。個人レッスンも受けていました。」
(ここでモーツアルトのアリアを一節、歌ってくださいました。皆さんにもおきかせしたい。)
−16歳のときエディンバラ大学入学と同時に教会のオルガニストになられたのですね。
「そうです。教会では主にオルガン、それにハープシコード、ピアノと合唱指揮も任されました。あまり忙しいのでバイオリンの練習はできなくなりました。」
−エジンバラ大学では何を勉強なさったのですか?
「音楽理論です。それでエディンバラ大学を19歳で卒業後もっと実技を勉強する為、ロンドン王立音楽院に入学しました。」
(イギリスでは、エディンバラ大学のような大学では音楽理論を、コンセルバトワールと呼ばれる王立音楽院のようなところでは実技を学ぶのだそうです。)
−この頃先生はすでにオルガニストや歌の伴奏者として録音をなさっていますね。
「ソロオルガニストとしてはすでに成功していました。ピアノは伴奏者として認められていました。」
−指揮はどのようにして?
「合唱指揮は16歳からやっていたのですが、22歳の時、学長からコンサートで王立音楽院オーケストラの指揮を頼まれたのです。これはたいへん楽しく、その後は何かに取り付かれたかのようでした。考えるのは指揮の事ばかりで、ついに指揮クラスに入りオーケストラの楽器をもっと知る為、パーカッションも始めました。」
−奥様と出会われたのもこの頃ですね。
「バッハのブランデンブルグ6番をハープシコードを弾きながら指揮しようと思い、友人に音楽院で一番上手なヴィオラ2人、チェロ3人、バス1人を探してくれるよう頼みました。その中に彼女がいたのです。指揮者になる決心をしたのは彼女の励ましがあったからです。
すでにオルガニストとして成功していた私が指揮者になる事は多くの人が反対しました。そんな不確実な事は止めた方がというわけです。私自身、新しい事に挑戦するのには勇気がいりました。幸い、ヨークシャー・シンフォニーオーケストラの副指揮者として招かれました。これは私にとってたいへん名誉なことで、その上このオケの名指揮者で素晴らしい教育者でもあるニコライ・マルコの下で研鑚が積めるのです。23歳で卒業後ヨークシャーへ2人で出かけました。」
−次に今回の演奏曲目について伺いたいのですが。
「私にとって重要な事は、皆さん自身でこれらの曲を選ばれたという事です。私はウォルトンとブリテンの友人であり、ホルストの愛娘イモジェン・ホルストとも親交がありました。ブリテンは自然、特に海辺が好きでイギリスの東南海岸の小村オーブラAldeburgh(日本の地図などにはオールドバラと書かれていますが先生はこのように発音されていました。)に住みここで音楽祭を創設しました。これにはホルストも参加しイモジェンも貢献していました。私がはじめてブリテンに会ったのは17歳のときでした。私はエディンバラ大学聖歌隊を指揮し彼の作曲した歌を演奏する事になっていました。彼はそのリハーサルに来てくれたのです。それ以後彼とは何度も会い作品のほとんどを演奏しました。彼の音楽祭にも毎年招かれるようになりました。」
(ここでウォルトンやブリテンと一緒に写されたセピア色の写真を見せて下さいました。)
−先生は今年の夏もこの音楽祭で指揮をなさったと伺いましたが。
「この音楽祭は毎年開かれており若い音楽家たちの為のクラスもあります。私は今年も何曲か指揮し若い声楽家達の指導もしてきました。芸大の学生さんも2人参加しました。」
−ポーツマスポイントは随分厚い音がしますね。
「ほとんど全ての楽器がいつも音を出しています。これはポーツマスの賑わいを表したのだそうです。ウォルトンはトマス・ローランドスンのエッチング(銅版画)―ポーツマスポイント−に感銘を受けこの曲を作曲しました。−トマス・ローランドスンのエッチングによるフルオーケストラの為の序曲−という長い副題をつけています。イギリス南端に位置するポーツマスは当時港町として活気に満ちていました。この曲のリズムの組み合わせは彼独特で当時、大変珍しく印象的でした。」
−イギリス人の海好きは歴史的にも頷けますがブリテンもやはりピーターグライムズで海を表現したのですね。
「ブリテンはジョージ・クラブの詩−The Borough−(町という意味、オーブラを詠った)
を基にオーブラのまわりの海の色々な様子を描くことによって、この地域に暮らす人々生活の様子を表そうとしたそうです。私もここでよく夏の休暇を過ごしましたが特別な色合いを持った所です。」
−惑星はホルストの作品の中では異色だと思うのですが。
「この作品は彼の名声を高め,人々は同じような作品求めました。でも、彼は二度とこのような曲は作りませんでした。惑星はシェーンベルグの管弦楽の為の5つの作品、ストラビンスキーの春祭、ドビッシ−のピアノ曲に大きな影響を受けています。この曲を作曲後、彼は占星術を信じないと誓ったそうです。でも最後まで彼の友人たちを占う事は止めなかったようです。
〜先生の略歴〜
ジェームズ・ロックハート/指揮者
エディンバラ生まれ。エディンバラ大学及びロンドン王立音楽院で学ぶ。ヨークシャー交響楽団、BBCスコティシュオーケストラ、コベントガーデン王立歌劇場をはじめヨーロッパ各地の歌劇場でアシスタントとして活躍し、最も有望なイギリスの若い音楽家に贈られるショルティ奨学金を受ける。
サドラーズウェルズオペラ(現イングリッシュナショナルオペラ)を指揮しデビュー。コベントガーデン王立歌劇場、スコティシュオペラの常任指揮者を経てロンドン王立音楽院教授を努める。
彼の名声はヨーロッパに広まり、ドイツで始めてのイギリス人指揮者としてカッセル州立歌劇場、コブレンツ歌劇場、ラインフィルハーモニックオーケストラの音楽監督を歴任。この間、ドイツ、イタリア、フランスの主な歌劇場をはじめ、メトロポリタン、サンディエゴ、モントリオールでも数々のオペラを指揮。
ロンドン王立音楽院オペラ科主任教授、その後、ロイヤル音楽アカデミーオペラ科の主任教授に就任。
現在、東京芸術大学指揮科客員教授、ロンドン王立音楽院・ロイヤル音楽アカデミーオペラ科顧問、ラインフィルハーモニックオーケストラ名誉指揮者。
残念ながらロックハート先生は2001年の春にイギリスへお帰りになります。
私たちがロックハート先生を新響お呼びできたらと願ったのは、先生の音楽経験や音楽哲学に触れる事により新響にまた新たな音楽体験を積み重ねていただけるだろうということもありましたが、先生がご帰国なさって英国の音楽関係者と話をなさるとき、それが芸大や日本のプロオケのことだけでなく、日本に新響というアマチュアオケがありましてね…ということがあればどんなに愉快だろうということです。
どうか、皆さんも今度の新響の演奏会にいらして、愉快な仲間に加わりませんか。