2001年6月維持会ニュースより


ラフマニノフによせて

藤井 泉(ピアノ)

「アレコ」あれこれ

 身内の話で恐縮だが、5月のとある練習日、練習の出番待ちの雑談でわが新響の期待の大型新人(身体もハートも、そして音量も)がひとこと「アレコってあんまりラフマニノフっぽくないっすよね」とつぶやいた。傍らでそれを聞いた私は、彼の率直な感想を、半分好意的に、そして半ば納得しながら聞いたのだった。なぜなら今回新響がとりあげる歌劇「アレコ」の中の3曲を、何の情報も持たず曲だけを聴いたとして、何人がそれを「ラフマニノフの作品だ」と言い当てることができるだろう。しかしこの3曲がロシアの作曲家によるものだ、と言うことは誰にでも容易にわかるのではないだろうか。そう、この「アレコ」こそはチャイコフスキーの伝統、言い換えれば輝かしい「金の時代」と呼ばれた前期ロシアロマン派を継ぎ、将来のロシア音楽を背負う作曲家として嘱望された若きラフマニノフの出世作なのだ。
 ラフマニノフとスクリャービンはモスクワ音楽院の同世代で、作曲とピアノで首席を争った仲でもあった。ただ経歴をみて興味深いのは、1892年にモスクワ音楽院を卒業した当時、ピアニストとして期待されていたのは1歳年上のスクリャービンで、ラフマニノフは将来のロシア音楽を背負う作曲家として嘱望されていたという事である。事実モスクワ音楽院の卒業制作だった歌劇「アレコ」で創立以来3人目の金メダル大賞を受賞している。年は僅か18歳。製作課題にオペラを選んだことからも、彼の並々ならぬ野心と意欲が感じられる。演奏会を飾る1曲目は、若きラフマニノフの力強い、ロシア色の濃厚な作品で幕を開ける。

過酷な和音の連なり「ピアノ協奏曲第2番」

 ラフマニノフの代表作「ピアノ協奏曲第2番」の楽譜を手にしたピアニストが期待と重圧に胸を躍らせながら最初の1ページを開くと、タイトルの上に見知らぬ人の名前が書いてある・・・・「ダール氏に献呈」・・・・誰だろう?
 モスクワ音楽院を卒業して5年後、ロシア音楽界期待の星ラフマニノフが満を持して書き上げた自信作「交響曲第1番」は散々の不評で、すっかり自信を無くし神経衰弱に陥り、作曲もおぼつかない状態になった。ノイローゼ状態が続いたため、思いあまって精神科医ダール博士の自己暗示療法を受けることになった。そこで1900年から3ヶ月にわたり「君は作曲できる、君は大成功を収める」と強い暗示をかけられ、その結果治療が見事に功を奏し次第に精神が回復し、その復帰第1作目が「ピアノ協奏曲第2番」となり実を結んだ。この作品で「グリンカ賞」を受賞し、名実共にラフマニノフの代表作であると共に、数多の協奏曲の中でも名曲の誉れ高い作品となっている。そして自信回復の恩人ダール博士に献呈されることになったのだ。
 さていよいよ楽譜を弾く段階となると、ああ何と言うことだろう、いきなりピアノのピアニッシモのソロで始まり(通常は長いオーケストラの前奏があるか、非常にインパクトの強い強奏のソロで始まることが多い)その8小節続く和音の連続がどれもこれも10度もあるではないか。そう言えば「ピアニストには3種類しかいない。ユダヤ人とホモと下手糞だ。」と言い放ったのはホロヴィッツだ(彼はまたこうも言っている。「東洋人と女にはピアノは弾けない。」)。彼がこう言い放った1950年代のピアノ界は成熟した大人の男性(40〜50代の白人男性、ユダヤ人のホモとは限らない)が活躍する時代だった。しかしそれを更に遡ること約50年前の1901年に書かれたこのラフマニノフの協奏曲の冒頭は、ホロヴィッツの放言にも勝るとも劣らない衝撃を与える。ひとつの作品が作曲家からのメッセージだとすると、「弾けるのなら、弾いてみろ」といったところであろうか。ただラフマニノフの名誉のために断っておくなら、彼は生前いたるところで「偉大なラフマニノフ」と呼ばれていた。おそらく冒頭8小節の重厚で豊かな和音の連なりは、当時の精神の支えであったロシア正教の鐘の響きであり、もっと突き詰めて考えれば革命直前のロシアの破局と滅亡の予感と悲劇的な宿命感の表れではないだろうか。前述の「鐘」の響きはラフマニノフの作品のいたるところで聞くことができる。またあまり知られてはいないが彼はロシア正教の宗教曲「晩祷」(ビザンチン思想に基づいた無伴奏の合唱曲で、1時間を超える大作となっている)を作曲しており、これは革命前のロシア正教音楽が到達し得た最高峰に位置づけられている。私個人としては「ラフマニノフの作品で何が好きか」と聞かれたら、迷わずこの「晩祷」をあげる。
 ラフマニノフは身長が192センチの長身でその手もずば抜けて大きかったので、どんな重厚な和音も崩すことなく軽々と弾いたという。でも、東洋人の女性ピアノ弾きでも、手が小さい為に諦めてしまうのにはあまりにも曲が魅力的なので、ひとまず先にどんどん弾いていくと・・・・ああ、またまた何と言うことだろう、冒頭のような過酷な和音はほとんど無く、またあっても「崩してもよし」(アルベジオ記号が付いている)となっているではないか(とは言え全編にわたって手が大きい方が圧倒的に有利ではあるのだが)。そして以前、棚上げしていた冒頭8小節が重くのしかかってくる事になる。小さなピアニッシモからフォルティッシモまで音が発展するその響きの、なんと豊かで誇り高い事であろう。ロシアロマン派最後の巨匠ラフマニノフは、一つの大きな帝国、時代が滅亡することを予感し、また19世紀末から革命前夜までの「銀の時代」と呼ばれた偉大な後期ロシアロマン派が自分の時代で終わる事をあたかも予感していたかのようだ。

ロシア革命後の憂愁「交響曲第3番」

 ラフマニノフの作品を見ると、交響曲第1番、2番、ピアノ協奏曲第2番、3番やピアノのための前奏曲集、練習曲集など代表作といわれるほとんどの作品はロシア時代の20代〜30代に書かれている。政局の悪化によりアメリカに亡命してからは、あたかもピアニストに転向したように見える。亡命後の生活の糧を得るためにピアニストの道を選んだラフマニノフは45歳にして膨大なコンサートレパートリー(自作はもちろんショパンやチャイコフスキーなど)を習得し、その長身から繰り出す超人的な近代奏法「ロシア・ピアニズム」により世界中の聴衆を完璧なまでに圧倒し、熱狂させた。しかしラフマニノフ自身は自分の天分はあくまでも作曲にあると信じていたようだが、皮肉なことに作曲活動は下火になっていった。移住地のアメリカには、彼の創作の原点となるロシアの鐘の音、土の匂い、風の薫りを感じ取ることができなかったのだ。
 ラフマニノフ最後の交響曲となった第3番は、1936年にストコフスキー指揮によるフィラデルフィア交響楽団により初演されたが、残念ながら成功を収めたとは言えなかった。同じ時代を同じロシア出身の作曲家ストラヴィンスキーやショスタコーヴィッチなどが新しい様式で新時代を切り開いていく中、ラフマニノフは革命前のロシア様式から踏み出しておらず、「あまりにも保守的」「懐古趣味的」「前時代の遺物」と酷評されたのも無理からぬことだった。相次ぐ批判の中、ラフマニノフ自身は「あくまで自分の美意識に従って作曲するだけだ」と言うのみであった。
 さて初演から65年経った今日、この作品はラフマニノフの「ロシア交響曲」として高く評価され、演奏される機会も飛躍的に増えた。同世代のスクリャービンが革命直前に没したのに対し、革命後の20世紀前半を新天地で生きることになったラフマニノフ、その作品が19世紀ロマン派に正当に接続され評価された結果である。ラフマニノフのアメリカ亡命後は、スイスのルツェルン湖畔にも別荘を持ち家族に囲まれ金銭的には何不自由ない暮らしだったが、他の亡命者同様祖国を忘れることが出来ず、常に郷愁の思いに駆られていた。この作品には、今となっては取り戻すことが不可能に近いロシアを創作しようとしたラフマニノフの苦悩が表れている。
 生前ラフマニノフは祖国ロシアへの帰国の意志を強く持っていたが、その願いは叶わず1943年カリフォルニアのビバリーヒルズで70歳で没した。

 参考文献 門田 純「ラフマニノフ」(芸術現代社)
      井上頼豊「ラフマニノフー人と作品」(論文)
      中村紘子「ピアニストという蛮族がいる」(文春文庫)
      新音楽辞典(音楽之友社)
      高井寿雄「ギリシア正教入門」(教分館)


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