2004年6月維持会ニュースより
トロンボーン吹きとシベリウス
志村 努(トロンボーン)
トロンボーン吹きにとって、死ぬまでに一度は吹いてみたい曲というのがある。まずはトロンボーンのアンサンブルの妙が味わえる曲として、ブラームスの交響曲全4曲、特に第1番の4楽章のコラールは、音がはずれやすくて「怖い」という点もあいまって、これがうまく行ったときの達成感は何物にも代えがたい。これに比べると第4番の4楽章は、音域的にも無理が無く吹きやすいのだが、その分浮き立たせるのが難しいという面もある。続いてはマーラーの第2番と第6番。2番は5楽章中ほどにトロンボーン4本のコラール風の旋律があり、これが決まると吹いていて大変気持ちが良い。6番も最終楽章の4楽章、それも最後の最後に完全にトロンボーン4本だけの部分が1分以上もある。非常に静かにゆっくりとした部分で、ハーモニーというよりも4本の掛け合いで聴かせる部分だ。この曲は3楽章まではトロンボーンは3本で4楽章から4本になる。最後のこの部分のために1本増やしたのではないかという気もする。あとは、チャイコフスキーの「悲愴」の、これも最後の最後、トロンボーン3本のコラールがある。これは以前ティーツ先生でやったときに、「神に祈るような感じで」という要求に応えられず、練習で何度やっても延々「ニェーット!」といわれ続けたいやーな思い出のある曲だ。
さて、1本だけのソロのある曲、となると、まずはモーツァルトのレクイエムだろう。「トゥーバ・ミルム」の冒頭はテナー・トロンボーンのソロで始まり、バス(ソロ歌手)との掛け合いになる。この曲は1番トロンボーンがアルト・トロンボーンなので、ソロは2番奏者が吹く。ん十年前に始めてこの曲をやったときには、このソロが心配で、1曲前の「ディエス・イレ」を吹いている最中も心臓は早鐘のように鳴り、生きた心地がしなかった。続いては、マーラーの交響曲第3番の1楽章の延々続くソロ。オーケストラの曲でトロンボーンがこれほど長いソロを吹くのは他に無いだろう。マーラーは何を考えて書いたのだろうか。完全なソロといえば、一般には「ボレロ」が有名だが、これは個人的には「別にトロンボーンでなくても」という旋律で、まあ、これは吹けずに死んでも悔いは無い。実際にまだやったことが無い。
でやっと本題にたどり着いたわけだが、「死ぬまでに一度は」という曲のリストに、シベリウスの7番、が「ソロ編」で入っているのである。皆さんあまりご存じないかもしれないが、この曲のソロはトロンボーン吹きの胸にはとにかくぐぐっと来まくるのだ。オーケストラの響きの混沌の中から幻のように浮かび上がってくるトロンボーンソロ、というこれだけでもう涙ものだ。それまで全オケが延々盛り上げてくれて、最高潮に達したところで一番いいところを「いただきます」という構図は、他のパートから「ずるい!」と言われても、「いやー、はははっ」と笑うしかない。
私にとって、この曲には衝撃的な録音がある。ムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルの「LP」で、バルトークの弦・打・チェレスタの音楽とカップリングされているものだが、このトロンボーンソロが、とてつもない演奏なのだ。どういうバランスで録音したのか良くわからないが、「混沌の中から浮かび上がってくる」はずのソロが、いきなり「ガツーン」と、それもとてつもない大音量で、すごいビブラートを伴って始まる。しかし、それがまたすばらしく良い音色で、完璧なソロなのだ。バランス的には完全に「ぶち壊し」ともいえるのだが、ここまでうまけりゃしょうがないか、と思ってしまう(のはトロンボーン吹きだけか?)。世界の一流オケの金管は往々にして、「いやー、あんたたち、そこまで吹きますか?」というぐらい吹きまくっているケースがあるのだが(例えば、シカゴ、ニューヨーク、そして意外にウィーンフィルの金管も)中でもこのレニングラードは圧巻である。
とはいえ、この曲本来のトロンボーンソロは、オーケストラに君臨するとはいえ、下々(あっ、失礼)と乖離せず、すっくと立っている感じの方が私の趣味に合う。今回の新響の演奏もかくありたいものだ。今回のソロは、新響トロンボーンパート期待の若手、清水真弓である。乞うご期待。(私はこれでまた10年新響をやめられなくなった)