2005年3月維持会ニュースより


<青春のブラームス> チューバ吹きの回想

土田 恭四郎(チューバ)


チューバをオケで初めて演奏した曲は、ブラームスの交響曲第2番だった。そもそもチューバといわれる楽器を念願かなって手にしたのは高校3年の時。それまでの経緯は「チャイコフスキーへの想い〜チューバ吹きの告白」(2004年9月維持会ニュース)に記載しているが、当時高校にはブラバンがなく、合唱のクラブで音楽への渇きを癒していたところ、たまたま学校とは関係のない外部の青少年のための吹奏楽団に入団、団の所有物であったニッカンのB管3本ピストンで一番安いぐるぐる巻きの小さな楽器、B♭バスと呼ばれる代物が最初であった。そして時々学校に持って来ては、広大な敷地の中、放課後にこっそり練習していたのである。

高3の秋、同じクラスのSから「土田〜!あのよ〜、おまえチューバやってんだって?だったら大学のオケ入れよ!」と絡まれたのがきっかけだった。私の学校は幼稚園から大学までという学校で、男子の高等科と大学は敷地が同じところにあったのでこのような交流は可能だった。「え〜!大学のオケ?そんなの無理だよ。」と言ったら、「おまえよ〜大丈夫だよ〜。大学のオケなんてちょろいもんだぜ!下手だしさあ、それにチューバいねえしよ。」とのこと。後で知ったが、いい意味でオレ様的なSは、小さい頃からチェロをやっていて父上はこの大学オケのOB、なんと高1の時に創立50周年を迎えた大学音楽部の記念演奏会に親子で出演し、ベートーヴェンの第9を弾いたやつだった。(その後、彼は外部の医大に進み、現在は実家の医院を継いで開業医の傍ら、父上と同じ大学のOBオケに参加している。)

とにもかくにも何日かたって、昼休みに大学オケを訪ねることにした。大学のオケは合唱と完全に一緒のクラブで唯一の音楽部、規模の小さい大学としては200人近い人数と歴史を誇る最大のクラブであった。当時、仮講堂と呼ばれた建物の隣に小さなバラック小屋が部室であり、行ってみると、真っ赤なパンタロンのジーンズに襟付きのごわっとしたカーディガンを羽織ってかかとの高い靴を履いた長髪で背の高いおじさんがボーっと立っていたので(当時のファッションだね、懐かしい)、恐る恐る「アノ〜ここ音楽部ですか?チューバやってんすけど。」と聞いてみた。そしたら、そのおじさんが「え?チューバ?しかも楽器持ってる?オー!入れ入れ!おーいみんな!チューバが来たぞ〜!楽器は?学校にある?よーし、今日全奏あるからさ、早速楽器持って練習に来いよ!待ってるぞ!イイナ!」ということで、あれよあれよという間に怖い先輩たち(女子大生、特に4年生は姉御肌で怖かった。今でも頭があがりません)に囲まれ、練習に参加することになった。後で知ったがこの長髪のおじさん、F先輩は大学1年生のボントロ吹きと知ってぶっ飛んだが、F先輩も当時の私を見て、こいつ本当に高校生?と思ったそうである。なにせ当時の私は生まれ持ったコワモテの面、長髪でもみあげが顎の下まで生えており、そんなやつが学生服を着て、突然目の前にあらわれたのだから。

その晩、練習場である集会所という周囲がガラス戸で仕切られた木造の小屋、今思うとよくぞあんな場所で練習できたものだ、というくらいのすさまじい建物に楽器持って入ったら、早速トランペットの3年生でオケ責のT先輩から皆に紹介され、すぐにパート譜を渡された。譜面を見て、え?なにこれ?ほとんど出番ないし数字並んでいるしシャープいっぱいあるし五線の真ん中から上に音があって高いし、と凍りついた記憶がある。それがブラームスの交響曲第2番との遭遇だった。この曲は、私がチューバに興味を抱いた中2の時、NHKのテレビでサヴァリッシュ・N響によるたしか4楽章の練習風景が放映され、たまたまそれを観て妙に記憶に残っていたが、まさかこんな曲とは思っていなかった。未知との遭遇。4楽章以外は知らなかったのである。

当時の大学オケは人数も少なく、全部で60人いるかどうか、という状態で、1年生も経験者のF先輩はともかく大半は初心者でステージに上がれず、本番直前にOBやエキストラがどっと来て、やっと「オーケス」が「オーケストラ」になった、という次第。ホルンなんか現役学生が2人だけで、1番を吹いていたI先輩は、1番と3番の譜面を並べてアクロバチックに両方一緒に吹いていたくらいである。団所有の楽器も打楽器は手回しのティンパニー3台とコントラバスが少々、後は楽器博物館かと思える代物が部室に転がっていた程度である。でもやっぱあこがれのフルオケだ。本番1月前という状況の中、諸先輩に囲まれて、うれしさとそれ以上の不安と緊張で体の震えが止まらない練習の第一歩であった。

チューニングが始まり、3年生の学生指揮者が登場、後で「酋長」が来るからブラニの2楽章、と言って練習が始まった。酋長?と思いつつ譜面をみたらなんとシャープが5つ!しかもアウフタクトから始まり、最初からチューバの出番がある。しかもソロだ。周りの先輩が神様に見えた。その中で学生服を来た高校生が周囲の注目の中、初見で楽器を吹くのだ。日ごろ初見に強いと自負していた私だったがすごく怖くなった。最初のFisの持続音は、楽器を構えたままぶるぶるして音が出なかった記憶がある。さらに楽器を吹く以上に休みの小節を数えるのに懸命だった。ストバイがナントカ!セコバイもっと!モルトナントカ!とか、わけのわからない言葉が飛び交い、今まで経験したことのない世界にはまっていった。

2楽章が一通り終わったところで、えらそうな先輩とともに初老の紳士が現れたが、この紳士が指揮者で「酋長」と呼ばれていた前田幸市郎先生との出会いであった。前田先生は、加賀前田家の一族で学校の大先輩。東京音楽学校ご出身にて山形大学や横浜国大等で教鞭をとられ、バッハ「クリスマスオラトリオ」、ブルックナー「三大ミサ曲」、ドヴォルザーク「レクイエム」、デュルフェ「レクイエム」、リスト「ミサ・ソレムニス」など本邦初演、特に宗教音楽に対する造詣が深い著名な先生であった。その高潔な人柄と深い知性を通して、後年いろいろなことを学び、単なる金管バカにならずにすんだ尊敬すべき恩師の一人である。先生とはその後お亡くなりになるまで、特にブラームス「ドイツレクイエム」やモーツァルト「レクイエム」、ブルックナーのモテットや「2番ミサ」を通して、いろいろと教えていただいたことは私にとって貴重な経験であった。(偶然にも新響の創立40周年記念シリーズ3「日本の交響作品展‘96」のプログラムに、尾高尚忠氏と一緒に写った若き前田先生の写真が掲載されている。)

さて、休憩後、前田先生による2楽章の練習が始まった。まるでヨッフムみたいな風貌と指揮にて、音楽が深く静かに進んでいく。なんてすばらしい曲、この響き、オケのチューバっておもろい、もっとこの中にいたい、でもオケってあこがれていたけど実際にやるのとは大違い、などとあれこれ神経過敏な状態で、相変わらず譜面にかじりついたまま、左手で大きく数を数えながら緊張で心臓の鼓動が耳にまで聞こえてカチカチだった。チューバの出るところで必ず先生がこちらを見ていることがわかり、とにかく間違えないように演奏に没頭していった。

練習後、どっと疲れて、されど気持ちが高ぶっていて興奮している自分を感じながら帰る準備をしていたら、先程のえらそうな先輩、大学院生のK先輩から呼び出され、前田先生に紹介された。チューバはこの曲では出番が少ないけど、オケ全体の響きを左右する重要な楽器だからがんばってね、と励まされたことを思い出す。また、私の名前をK先輩から聞いて先生曰く、君のお父さんをよく知っているよ、とのこと。なんと父とは小学校で同級生であり、体育の授業で父と相撲をとったが父が負けて足を骨折したというすごい話を伺ってこれまたびっくり。帰宅後父に話したことは言うまでもない。それにしても父は音楽についてはからきしだめだったが、小学校の同級生にこの前田幸市郎、旧制高校の同級生に作曲家の入野義朗、そして同じ高校の先輩に朝比奈隆、というのが自慢であった。音大に進学した兄に関して、同窓会とかでこの先生達に話していたそうである。

さて、その後も大学の練習にいそいそと出かけてはオケにのめり込み、緊張の中にもわくわくするような日々が続いた。演奏会で着用する黒のスーツも親に買ってもらった。先輩たちからいろいろ説教されるのもまた楽し、ということで、連日連夜、高校の部活が終わったら顔を出すのが日課になってきた。そして、気分も盛り上がってきていよいよ本番がせまってきた。音楽部第20回演奏会で場所は共立講堂(懐かしいね)、曲目はブラームス「大学祝典序曲」と「交響曲第2番」、それにモーツァルトの「戴冠ミサ」、1975年11月のことである。出番はよりによってブラームス2曲。出番こそ少ないが侮れない難しさがあり、とにかく演奏しがいのある曲だ。

本番1週間前の練習後、F先輩やT先輩から突然「本番はその楽器で演奏するのか?」といわれ、へ?となった。「お前の楽器ボロでさ、かわいそうだから東京音大からチューバを借りてくる。」というのである。当時、前田先生は東京音大とも関係があり、そのツテで、本番で使用する楽器、例えばペダル式のティンパニーとかコントラバスとか大学の近くにある東京音大から借りていたらしい。当日ホールに行ったら、搬入口でトラックの荷台に乗ったF先輩から「おーい、借りてきたぞー!」との声。なんとハードケースに入ったアレキサンダーのB♭管チューバである。しかもゴールドブラス!当時一番高級で憧れの楽器であった。とにかく喜び勇んで吹いてみたが音がでない!今まで小さい楽器でぼそぼそ吹いていたので鳴らせないのである。音が出ても小さい音が出ないし息がもたないし音程が不安定。実はアレキサンダーのチューバって音色は素晴らしいが音程にクセのあるものが多いのである。今ではなんともないことだが、当時は初めて本格的に目にした本物のチューバである。うれしさと不安と入り混じり、さて困った。ステリハまでになんとかすべく必死だった。ステリハが終わって本番が近づき、緊張が増してくる。だんだん楽器が自分に馴れてきて、なんとか1曲目の大学祝典序曲は終了、続いて交響曲第2番である。最初に、これぞといった決め所のコラールがあるが、力んでいたのと、とにかく小さい音がでないので思わず最初にボワンと一発、フォルテピアノみたいに演奏、これ以降先輩たちから爆弾タンギングの土田と言われるきっかけを作ってしまい、今でもトラウマとなっている。その後はなんとか細心の注意を払って演奏に集中し、感動の嵐の中でなんとか演奏を終えた。終了後、オケの先輩たちからたっぷりとかわいがられたが、合唱の先輩たちがどかどかと来て「土田!おまえ高等科で合唱やってんだろ?大学にきたら合唱にも当然入るよな!わかってるよな!待ってるぞ!」と圧力がかかり、結局チューバと合唱という両刀使いとなってバラエティな音楽体験を今日まで引きずっている。またチューバについても、このままではまずい!と、隣に住んでいるT学園の高校にいて指揮者を目指していた幼馴染に、誰か先生いない?と紹介してもらい、チューバに取り組む新たな出発点となった。素晴らしい音楽の世界が広がった、全てのきっかけをつくったのがブラームスの交響曲第2番であった。

ブラームスの交響曲で、第2番は唯一チューバが使用されているのが魅力であり、しかも野暮な使用でなく随所にコラール風の断片を聞かせることによる独特の音色と色彩がある。出番は少ないが、コントラバス的な低音の補強、その独特の音色を生かしたオケを包む響き、トロンボーンとのコラールによるハーモニーが面白く、重要なところでの決め所があり、所謂オーケストラのチューバをたっぷりと堪能できるのだ。これは、ブラームスの他の作品でチューバのある曲、大学祝典序曲、悲劇的序曲、ドイツレクイエムにも共通した、いかにも古典的な形式感や伝統に則った音楽ではあるが、表現力に富んだこの楽器の魅力を充分に生かせるのである。(ブラームスの作品におけるチューバの使用について、ドイツレクイエムは例外としても1875年ウィーン宮廷歌劇場でチューバが採用されたことに関係していると個人的に思っている。2002年6月維持会ニュース「チューバ吹きの独り言」を参照されたい。)

このような素晴らしい曲を最初に経験させていただいたことは私にとって原点であり、いろいろな想いに満ちている。最近、この初ステージでの録音レコードを引っ張り出して久しぶりに聴いてみたが、最初のコラールの爆弾タンギングといい、当時の大学オケのレベルから察するがごとくの、すさまじいほどの多彩な音程と音色が今ではとても懐かしい。初ステージ以降、新響での演奏会を含め、ブラームスの交響曲第2番はいろいろなオケで数多く演奏する機会に恵まれた。その練習のたびに、この初ステージのことを思い出し、更に係わりのあった諸先生方や諸先輩方、応援してくれた父を思い出し、初心に帰るのである。そして、歓喜に満ちたニ長調の輝かしい終楽章とともに、その懐かしき憧景と感動が常によみがえるのだ。


これからの演奏会に戻る

ホームに戻る