2005年12月維持会ニュースより
<三善晃「三つの抒情」の思い出>ショートエッセイ
土田恭四郎(チューバ)
過日、三善晃先生と指揮者の小松一彦先生を交えてインタビューを行ったが、途中で三善先生の合唱曲につき話が盛り上がった。三善先生には数多くの素晴らしい合唱曲があるが、初期の作品である「嫁ぐ娘に」とか「三つの抒情」の話題で、学生時代に初めて聴いて、それからはまりました、なんて話を通して、いろいろと懐かしい想いが心の中を横切っていった。
私が大学時代に在籍していたクラブは「音楽部」としてオケと合唱が一緒の大所帯、特に合唱は大学女声、短大女声、男声と分かれており、各々独自の活動を行うと共に、これらが集まって混声合唱として活動する、というユニークな団体である。私はオケでチューバ、男声合唱ではバリトンを受け持ち、豊かで且つどっぷりとクラブ活動に浸って音楽活動を満喫していた。
20年以上も前のことだが、大学在校?年目で君臨していた時である。構内の通称“金魚池”という場所で、後輩のクラリネットKが「先輩、“三つの抒情”って本当に良い曲ですねえ。おもわず譜面を買っちゃいましたよ。」と譜面をみせてくれた。確か短大女声にKの付き合っていた彼女がいて、当時、短大女声合唱団は演奏会でこの曲を取り上げることになっていた。おう、しばらく譜面貸せよ、いいっすよ、ということで譜面を借り、“金魚池”の周囲にあった樹木の下にある石のベンチに座って譜面を眺めていたら、簡素な音符の流れの中にある凝縮された音符、一陣の爽やかな風が心の中を通り過ぎていくような何かしらの興奮を覚え、家に帰って思わずピアノで弾いてみたりして、自分のたどたどしい稚拙な演奏であるにもかかわらず、今までの音楽体験とはまったく違う興奮を感じたものである。その翌日、池袋のヤマハにいって楽譜を購入し、その足で思わず短大女声の練習に立ち会った。今まで聴いたこともない響き!大きな感動を覚えた。人間の声の響きもさることながらピアノの素晴らしさ!曲の題材となった立原道造と中原中也の抒情詩との出会い!こういう音楽もあるのか!と。
アカペラが多い男声合唱の持つ広い音域とダイナミックレンジの広さ、重厚で迫力のあるサウンドとは違い、ピアノの伴奏が多い女声合唱は、その狭い音域の中でも繊細で女声特有の色彩感に満ちた音楽が魅力で、伴奏のピアノもその魅力を醸し出す重要な要素と思っていたが、私にとってこの作品は、題材となる三つの詩を通してその醍醐味をまさに満喫させる曲である。いずれにせよ女声合唱曲を代表する名曲のひとつであり、三善先生の初期の代表作であることは当時知る由もなかった。私にとってこの曲は、音楽の新たな広がりに向かって開け放つ扉であった。
その後、年齢を重ねてこの曲の実演と向き合う機会も多くなり、また思い出したように自宅でひっそりと「三つの抒情」をレコードか何かで聴いてみると、自分が年齢を重ねていくにつれ、三善先生の音楽はもちろんのこと、立原道造や中原中也の詩に向き合う自分の感性が変化していることに感慨を覚える。
一見すれば誰にでも書けそうな平易な音符、詩であるにもかかわらず、決して本人でないと書き得ない独自の音楽がそこに存在し、その無限の広がりの中に入り込んでいくその時の自分が存在して新たな感動を呼び起こしてくれる。この「三つの抒情」がきっかけで、三善先生の他の作品を含め、あらゆる音楽を受容する大きな要素となっていった。
今回、インタビューを通してまるで少年のような三善先生、その三善先生の前で、決してディオニソス的ではないアポロのような小松先生に接し、お二人のロマンティシズムを垣間見て、若かりし頃の自分を思い出した次第。帰宅後、真っ先に「三つの抒情」の譜面を見つつ、立原道造と中原中也の詩集を傍らに置いて、じっくりと「三つの抒情」を聴いて感慨に耽ったことはゆうまでもない。
「三つの抒情」と同時期に作曲された「交響三章」、合唱と管弦楽という表現手段の違いこそあれ、三善先生のロマンティシズムに触れることは、今の私にとって新たな心の扉を開け放してくれるものと確信している。