2006年6月維持会ニュースより


芥川也寸志の業績と「交響管絃楽のための音楽」

都河和彦(ヴァイオリン)

 今回の演奏会での芥川也寸志作曲「交響管絃楽のための音楽」演奏に当たり、維持会ニュース編集者から「芥川先生と『交響管絃楽のための音楽』について何か書け」と言われ、久々に様々な資料を当ってみたら、先生が新響以外の分野でもすさまじい量の仕事をこなしておられたことを今更ながら再認識しました。没後20年(2009)も近くなってきたので、先生の略歴や業績を今一度振り返って心の準備をし、又「交響管絃楽の音楽」についても簡単に触れたいと思います。

芥川也寸志略歴

 1925年7月12日、文豪芥川龍之介の3男として東京・田端で生まれる。翌年、父自殺。5歳の頃、父の書斎にあったストラヴィンスキーの「火の鳥」や「ペトルーシュカ」等のレコードに聴き入る。16歳でピアノと音楽理論を学び、18歳で東京音楽学校(現芸大)予科に入学、翌年本科に進学、1年上に團伊玖磨がいた。44年の学徒動員で團とともに陸軍戸山学校軍楽隊に入隊、サクソフォンを受け持つ。
 1945年(20歳)、東京音楽学校に復学、翌年同校作曲家講師に就任した伊福部昭の作曲理論に深く共鳴、すぐに日光の山荘に伊福部を訪ね3泊して教えを受け、一生の師と仰ぐようになる。50年「交響管絃楽のための音楽」が「NHK放送開始25周年記念管絃楽懸賞」で特賞入選。52年よりほぼ10年間、毎年5本−10本もの映画音楽を作曲。53年團伊玖磨、黛敏郎とともに「三人の会」を結成、自作の発表会を開く。1954年ヨーロッパ経由でソビエトに密入国、ショスタコーヴィッチ、ハチャトリアン等に会う。
 1955年(30歳)「東京労音アンサンブル」の指揮者になり、翌年「東京労音新交響楽団」(現新響)を設立。64年NHKTV大河ドラマ「赤穂浪士」の音楽担当。
 1965年(40歳)新響が労音より独立、音楽監督・常任指揮者となる。67年新響とソビエト演奏旅行。68年アマチュア合唱団「鯨」を創設。
 1975年(50歳)新響と「ストラヴィンスキー三部作」一挙上演。76年の「新響20周年・日本の交響作品展」の演奏で、翌77年3月新響と共に第8回鳥井音楽賞受賞。同年4月NHKTV「音楽の広場」の司会を始め、10月音楽著作権協会理事に就任。79年岩城宏之、黛敏郎とともに芸大「旧奏楽堂」保存運動(87年上野公園内に移転完了)。80年日本作曲家協議会委員長。81年「反核・日本の音楽家たち」運動。84年NHKTV「N響アワー」開始、司会者となる。
 1985年(60歳)紫綬褒章受賞。86年3月放送文化賞受賞。4月NHKTVドラマ「武藏坊弁慶」始まる。7月新響とショスタコーヴィチ交響曲第4番日本初演。10月サントリーホール落成式典で「オルガンとオーケストラのための響」初演。11月「新響30周年・芥川也寸志展」開催。87年訪中、上海交響楽団を指揮して「日本交響作品展」を開催。88年4月新響との最後の演奏会になった旧奏楽堂での演奏会のあと肺癌と診断され、6月と12月に手術。89年1月31日肺炎のため死去。享年63歳。

芥川也寸志の業績

作曲:管絃楽曲の数はそれほど多くないが、映画音楽・童謡・団体歌の数の多さには圧倒される。管絃楽曲27曲(交響三章,交響管絃楽のための音楽,交響曲第1番,エローラ交響曲等)、絃楽合奏曲3曲(絃楽のための三楽章等)、室内楽曲7曲、ピアノ曲11曲、舞踊のための音楽8曲、オペラ2曲(暗い鏡,ヒロシマのオルフェ)、音楽劇9曲(ポイパの川とポイパの木等)、重唱・合唱曲36曲、独唱曲35曲、童謡45曲(ぶらんこ,ことりのうた等)、映画音楽107曲(ゼロの焦点,砂の器,八甲田山,八つ墓村,日蓮等)、放送のための音楽20曲(赤穂浪士,武藏坊弁慶等)、劇付随音楽6曲、団体歌(校歌・社歌)89曲、その他10曲、総計415曲。   
著書:12冊(現代人のための音楽,私の音楽談義,音楽の基礎,音楽の遊園地、人はさまざま歩く道もさまざま等)。その他、朝日、読売新聞等にエッセイを掲載。
ラジオ・テレビ番組での司会や指揮:1962年NHK連続TV番組「私のクイズ」,64年TBSラジオ番組「オーナー」,65年TBSTV「土曜パートナー」,67年TBSラジオ「100万人の音楽」,77年NHKTV「音楽の広場」,84年NHKTV「N響アワー」等、まさしく「時代の寵児」だった。
新響への貢献:1957年11月の第1回定期演奏会から亡くなる前年88年4月の旧奏楽堂演奏会までの30年間に新響の演奏会を指揮した回数は実に170回を数える。(各地労音での連続演奏会、ソビエト演奏旅行や沖縄・九州演奏旅行での演奏会を含む。音楽教室や録音等は含まず)。音楽史に残る演奏会はストラヴィンスキー三部作一挙上演、ショスタコーヴィッチ交響曲第4番日本初演、そして1976-から10年間、10回に及んだ「日本の交響作品展」だろう。
音楽的・社会的活動:1953年(28歳)「三人の会結成(團、芥川、黛。1954,55,58,60に演奏会)、60年「作曲家集団」結成(黛・武満・間宮・林)、67年美濃部革新都政の応援、77年頃からの音楽著作権保護活動、79年旧奏楽堂保存運動、81年「反核・日本の音楽家たち」運動等。
役職等;鳥井音楽財団終身選考委員、日本作曲家協議会会長、ヤマハ音楽振興会専務理事、サントリー音楽財団理事、日本音楽著作権協会理事、日本作曲家協議会委員長、日本音楽著作権協会理事、成城学園理事、著作者作曲者協会国際連合副会長、宮城フィルハーモニー管絃楽団音楽監督、日ソ音楽家協会運営委員長、日本近代音楽財団理事等多数。
受賞歴:毎日映画コンクール音楽賞、ブルーリボン賞、ザルツブルグオペラ賞審査員特別賞, 日本童謡賞, 鳥井音楽賞(新響とともに)、日本音楽アカデミー賞, 児童福祉文化奨励賞, イタリア放送協会賞、エミー賞, 紫綬褒章、日本放送協会文化賞, 勲2等瑞宝章等多数。
海外旅行:1954年(29歳)ソ連に密入国、ショスタコーヴィッチ、プロコフィエフ、ハチャトリアンに会う。57年ヨーロッパ旅行。帰途立ち寄ったインドのエローラ寺院の岩をくりぬいた工法に衝撃を受ける。67年新響とソ連演奏旅行。以降、自作の指揮や国際交流・会議等でソ連・中国を中心に何度も外遊。

 上記の外にも東京交響楽団の財政立て直し、アマオケ世田谷フィル・芦屋交響楽団の創立や指導、サントリー、エローラ・ホールの建設等に拘わるなど、まさに超人でマルチ人間、すさまじいまでの仕事人生だった。黛敏郎は「芥川也寸志の最後は壮烈な文化への戦死であった」と述べている。
 個人的な事柄としてはまず、3回結婚している。1948年(22歳)山田沙織(長女・麻美子、次女・由美子)、1960年(35歳)草笛光子、1970年(45歳)江川真澄(長男・貴之志)。若い頃は頻繁に引っ越しをしており、1925年田端で生まれ、1970年成城に家を、77年北軽井沢に別荘を新築するまで6回住所を変えている。おしゃれで几帳面、外車好き、ワイン通で魅力溢れる人柄だった。

交響管絃楽のための音楽について

 1950年2月20日に完成、NHK放送開始25周年記念管絃楽懸賞に応募して團伊玖磨の「交響曲イ調」とともに特賞入選した2楽章形式の作品。同年3月に近衛秀麻呂指揮・日本交響楽団(後のN響)で初演され、出世作となった(10万円の賞金で奥沢町に家を購入したという)。傾倒していた伊福部昭、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチの影響が感じられる。戦後初の外来オケ「シンフォニー・オブ・ジ・エア」が1955年5月後楽園球場で行ったN響との合同演奏会でソーア・ジョンソン指揮で再び演奏され、その後アメリカ、ヨーロッパで数多く演奏された。

第1楽章:アンダンティーノ 4/4拍子 
3部形式。1部はしゃれ、ウィット、ユーモアを感じさせるスケルツァンド風、2部は叙情性豊かな歌謡風、3部は再現部。4-5分。
第2楽章:アレグロ 2/4拍子 
前楽章から切れ目なしに入る。シンバルの強烈な打撃に続いて第1主題が金管楽器によって強奏される。静かな部分もあるが全体的には、前楽章とは対照的にたくましく強烈で颯爽とした音楽。終盤クライマックス部分で金管が2/4拍子、打・絃楽器が3/8拍子でかみ合うポリリズムは効果絶大。5-6分。


これからの演奏会に戻る

ホームに戻る