第113回演奏会「新響と30年 芥川也寸志」(1986年11月)パンフレットより


エローラ音楽試論

芥川也寸志

 デッカイナア!とまずはじめに思いました。とにかく、とてつもなく大きくて、どれくらいといったらいいのか全く見当がつきかねる。まるで、無限のひろがり。
 得体の知れぬ巨大な怪物にでもめぐり会ったような不気味さと、その前に立った自分がどんどん小さくなってゆくような不思議な気持を味わいながら、これはいったいどうしたことだ?と自問せずにはいられなくなりました。
 インドのエローラ石窟院を訪れたときのことです。正確にいえば、エローラ石窟院の第16窟、シヴァ神に捧げられたカイラーサナータ寺院に足を踏み人れたときのことです。
 このヒンドウー教の寺院は、他の石窟と並んで巨大な岩山に彫られているものですが、その特徴の一つは、殆んど、周囲が絶壁でかこまれていることです。つまり石窟という言葉はやや不適当なわけで、ヒンドウー教徒たちは、恐らく大変な労力を費して、丁度、地下室を作るような格構に、岳陵を上の方から(建物の部分だけを残して)彫り下げていったわけです。そして更に、建物のために残された岩塊を彫り込み、その中の礼拝堂を作り、多くの僧房をくりぬき、壁面には数しれぬレリーフを彫って、地下の大寺院を刻み出したのです。(ですからこの場合、建物という言葉も不適当なのです。)
 つまり、普通の建築物が土台から積み重ね、組み合せて作られるのに対して、これは全然アベコベの構成です。けずって作られた空間です。必要なものを加えてゆくことによって作られるのではなく、不必要なものをのぞいてゆくやり方です。建物の周囲の絶壁との間のひろがりは、莫大な労力によって彫りとられたものなのです。
 このアベコベシステムが、まず私をびっくりさせたらしい。(もっとも、この寺院のうす暗い一番奥の室に入って、これが御神体です、とインド人に説明され、ふたかかえもあろうと思われる石の塊に、顔をくっつけるようにして眺めていたとき、また何やらいわれ、やがてその意味が男根であることがわかったときは、正に腰の抜ける寸前でありました。)
 ピラミッドを見たときも、ヴァチカンやヴェルサイユを見たときも、やはりデッカイナアと思いましたが、エローラはまたこれとは違うデッカイナアでありました。ピラミッドの場合は、いわば積み重ねてある一塊の石と、自分の肉体との比較の上に立った大きさであり、たとえどんなに大きく感じたとしても、その極限までの大きさしか感じない。
 ところがエローラは、一体相手がどこまで続いているのか見わけることも出来ない。そこに作られている空間は大地に続き、空にひろがり、宇宙につながっている、といった無限のひろがりを持っているように思えたのです。それは私にとって、正にショッキングな出来事でありました。
 それ以来、これは一体どうしたわけだ?という自問を今も尚繰返し続けているのですが、少くとも、今迄の積み重ねて作る空間、建築的な空間、音を横に加え、縦に加えて作る時間的空間の裏側に、けずりとって作る空間があるということ、それを音楽の上でも追求することが出来るということがわかってきました。
 今迄の加算の概念の上に立つ音楽に対して、これは滅算による音楽といえるかもしれませんし、プラス空間に対してマイナス空間という言葉も使えるかもしれません。今迄の西洋音楽史の裏側にある、全く異質な空間構成法です。
 エローラで体験したもう一つの痛切なものは、表現の生々しさ、ということです。まるで本能的衝動が爆発して出来上っているような感じに打たれたのです。ここで筆さばきのうまい人ならば、例の御神体を引合いに出して、鮮かに展開を試みることも出来るのでしょうが、私にはとても出来そうにない。(その時聞いた説明によれば、この寺院における礼拝の儀式は、信者たちが牛の乳を御神体にそそぎかけることによって始まるということです。)
 ここでも、一体どうして?が始まるわけですが、これは極く簡単に現代の音楽が、抽象に抽象を重ねてきたことによると、いってしまってはいけないでしょうか。
 ほぼ18世紀の終り頃から、純音楽にあっては、楽譜に忠実に再現して演奏されることが、全く当り前の要求になったときから、即興性は殆んど失われてしまったといっていい。すべて合理的に計算され、設計され、しかも周到な準備を経て鑑賞者に提供される。
 作る方も“抽象”は金科玉条であり、生活における現実的な経験からはだんだん遠ざかってしまった。
 エローラの壁に刻みこまれたレリーフから発散した圧倒的な迫力や逞しさは、私にとってはまったく新しい驚異だったのです。
 この時から原始芸術が私をとらえてしまいました。自然民族の音楽における様々な形式の中に、実に多くの新しい音構成への可能性が暗示されているように思えたからです。
 ことに、その即興的性格、終った瞬間に開始の状態に戻っているあの独特な構成、現実生活に直接結びついた生々しさ、男性と女性の差異が直接音楽に現われ、多くのものがこの二つの性格に分けられていること、その日常的性格、それとは全く対立するアニミズムやトーテミズムの中における非日常的性格、更にそれらが同時に重なり合っている同時性と対立性、などに強く興味をかきたてられたのです。
 今日ではわずかに、アフリカを母胎とするジャズ音楽のインプロヴィゼイションが“本能への同帰”を叫んでいるようにしか見えませんが、現代の音楽にとっても、これは大きな課題であるといっていいでしょう。
 現代の音楽は一つの危機にさらされている一一と思います。それは、何世紀にもわたって音楽家の言葉として一一というよりも文字として使われてきた、平均律音組織の崩壊です。現に、具体音楽や電子音楽の登場によって、それは現実的なものとなりました。
 最も原始的な形式より、中世を経て今日に至る西洋音楽の歴史は、明らかに音組織によってはっきりと区切ることが出来ます。更にその組織の基礎となる音程の体系は、4度、3度、2度、という縮小する形となって現われます。
 最も普遍的に、近代音楽の創造者と見られるドビッシィの書いた長2度体系の音楽は、第2次大戦後、全く普遍化した12音音楽によって、更に短2度に縮小されました。今迄使われてきた演奏形態では、これ以上縮小された体系の音楽は演奏不可能です。短2度、即ち半音は、12平均律での最も小さな音程単位だからです。
 これ以上進むためには、どうしても今迄の音組織や、大部分の演奏家や楽器を捨てざるを得ません。先駆者ハバが試みたように、半音よりも小さな音程の書ける特種な記譜法による、特種な訓練を経た、特種な演奏家による微分音音楽に行くか、具体音楽や電子音楽を始めた勇敢な作曲家達がやったように、今迄の楽器や、五線紙や、演奏家を全部捨ててしまうしかありません。つまり、壁に行きあたっている一一危機といってもいいでしょう。
 この危機から一敢てそういわせて頂けば一一脱却するためには‥‥‥というよりも、たとえそれを危機と感じようが感じまいが、重要なことは縮小型の考え方をやめてしまうということです。私が勝手ないい方をした縮小型一一これは丁度、ヨーロッパの画家たちが、ガクプチを作ることによってタプローの中に構図を設定してゆく、あの求心的な構成法にあてはまります。また建築家たちが、壁を作ることによって、空間を構成してゆく方法にもあてはまります。画家の使う構図という言葉を、作曲家が使う音楽形式という意味におきかえてもいいのなら、まず楽章の数をきめ、各楽章の形式をきめ、ソナタ形式ならば2ツの主題をきめ、更にモティーフをきめてゆく方法、その考え方に他なりません。
 まず、一番大きなワクを設定し、だんだんとその中に小さなワクを作ってゆくような、合理主義的な思考を超えることです。
 ここに新しい音構成への足がかりがあります。東洋の空間、原始芸術の形式は、この意味でいろいろな暗示を私に投げかけてくれるのです。
 しかし、これは勿論生やさしい仕事ではありません。何年手さぐりしてみても、私には到底無駄なことかもしれません。いわばこの交響曲は、その手さぐりのはじまりです。外見的には、殆ど今迄の形式を破ることが出来なかったようです。ただ、エローラで受けたあの感銘は、もう忘れられそうにありません。それが私にとって、怪物に似た恐ろしい未知の世界へ挑戦する意欲をかきたててくれるのです。
 (ここで、音楽にあってはバルトークをはじめとして、メシアン、ジョリヴェ、ケージなどの仕事、最近の建築に現われている新しい様式、アンフォルメル一派の絵画などについてふれたいのですが、長くなる上にいずれ機会があったら、まとめた文章にしてみたいと思っていますのではぶきます。)
 この交響曲は、忘れ難い想い出を私自身記念するために、エローラ(ELLORA)と名づけました。
楽器編成はスタンダードな3管。8名の打楽器が加わり、絃楽器群は12のパートに別れます。
 全20楽章。これらは2ツの性格に分けられています。レント、アダジォの楽章です。
 各楽章の演奏順序は指揮者に一任され、ある楽章を割愛することも、重複することも全く自由です。(ただし、第17楽章から第18楽章へ、第19楽章から第20楽章へは常に続けて演奏される。)

(初演時プログラムより抜粋)


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