第152回演奏会(1996年4月)パンフレットより
新響ヴァイオリン奏者 加藤のぞみ
「クレッシェンドって、どういう事かわかっている?」ショスタコーヴィッチの交響曲で延々とクレッシェンドし続ける様、記譜されている箇所で、芥川先生は団員に問われた。
「音量つまみをだんだん大きい方に回していく様に、音が大きくなれば良いと思っているなら、それは大間違い。」「精神。精神の間題なんたよ。『だんだん大きく・・・だんだん大さく・・・だんだん大きく』と思い続けながら弾いて、その結果実際の音量がすこしずつ増えていくってことじゃなければ、本当の意味でのクレッシェンドにはならないんだ。」この話しは、先生自身の著作『音楽の基礎』(*)にも述べられているのだが、芥川先生はリズム、アゴーギグ、楽語の意味など音楽の基本となることについて、練習中に指揮の手を休めて良く話しをされた。それは、単なる意味の説明や楽曲の解説ではなく、演奏する者は作曲家がどんな想いで楽譜を記したかを考え、聴き手にどうしたらその想いを伝えられるかに心を砕くべきである、という先生の指揮の姿勢に通じるものであったように思う。
芥川先生は音楽監督として、音楽面のみならず運営面でも深く新響にかかわられた。あるとき、新響が発足したての頃の古い団内ニュースを見る機会があり、「君は思ったんじゃないか!」という書き出しで、団の運営にあたっていた人達を芥川先生が鼓舞された話しが載っていた。自分達でやりたいと思うことは、その事を実現する第一歩なのだから、そのこと自体が素晴らしい。アマチュアだから出来ない、自分達には無埋、と最初から諦めていたのでは何の進歩もないのだから、夢を持ちそれに挑戦していこう、といった趣旨で叱咤激励されるという記事だった。ところが、私が出席した運営委員会で、芥川先生は「思っているたけでは駄目。実行に移すにはどうしたら良いか迄、考えなければならない。」と厳しく云われた。「思い付くだけでも素晴らしい」と云われていた時期から二十年程経っていた。結局、ヴィジョンを描き、その実現に邁進するという新響の進み方そのものを、各々の時期で表現を変えて示されていたのだった。
時代を超えて一貫して云い続けられたのは、アマチュアであることへの誇りとこだわりであり、もっとも嫌われたのがアマチュアであることへの甘えであった。音楽の価値は技術の巧拙だけでは決らないが、それでも厳然たる事実としてうまい方が良いに決まっている。従ってアマチュアであっても常にうまくなろうとしていなければならないし、出来ないことの言い訳にアマチュアだから仕方ない、と云うのはもっての他。また、プロにとっての<経済>の制約がない分、純粋に自由に発想して、何が出来るのか、何がしたいのかを明確にし、その実現には何が必要かを考える。練習を積み上げることによって得た作品への共感、音楽を作っていくよろこぴ、音楽に肉薄する精神が聴き手に伝わった時、真の素晴らしさを発揮できる。身内の道楽に終らせない為にも、人の心をつかみ感動に巻きこむことができるということを忘れてはならない一一先生が云わんとされたことはまだまたあるに違いないが、こうしてみると、ただひたすらに音楽を愛するものが、プロにはないアマチュアらしい一一文字通り新しい響きをうち鳴らそう、という『新交響楽団』の命名や、その名前に小さくアマチュア・オーケストラと必ず入れることが、正に楽団の在り方を象徴していることに気付く。
三十余年間芥川先生に育まれ続けた、新響としての音楽に対する姿勢、運営に対する姿勢を折々に鑑み、今後も名前に恥じない活動を地道に、大胆に続けていきたい。
*蛇足になりますが、『音楽の基礎』(岩波新書)は、音楽の基本となることがらが平易に述べられているだけでなく、随所に芥川先生の音楽観が盛り込まれています。御一読あるいは再読をお勧めいたします。