第162回演奏会(1998年7月)


飯守泰次郎氏にきく

飯守先生インタヴュー〜ワーグナーと『指環』を語る

『指環』に至るまでのワーグナー

---最初に、ワーグナーの創作全体の流れからうかがっていきたいと思います。

飯守 まず、一般に初期と呼ばれる、ほとんど上演の機会がない「リエンツィ」等の3作品があります。これに続く「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」の3つが一般に前期、「トリスタンとイゾルデ」、「ニュルンベルグのマイスタージンガー」を中期、「ニーベルングの指環(以下『指環』と略)」と最後の「パルジファル」が後期とされます。このうち、ワーグナーが自分の世界を明確に自覚した画期的な作品が「オランダ人」ですね。

---ワーグナーは、「ローニングリン」を書き終えた段階で「私はもうオペラ(歌劇)は書かない」と言ったということですが、それはどういう意味でしようか。

飯守 彼にとっていわゆるロマン的歌劇は「ローエングリン」で終わった、という意味でしよう。決定的な違いは、それまでの作品は「オペラ(歌劇)」だが、以降は「楽劇」だということです。「ローエングリン」を終えた段階で彼は、盛んに論文を発表して『総合芸術論』という持論を展開し、従来のオペラ(歌劇)から意識的に離れていきました。奇しくもこの転機は、彼自身の人生のちょうど真ん中にあたり、また西洋音楽史全体から見てもロマン派が変貌していく転換点にあたります。

「ローエングリン」から『指環』へ〜総合芸術とは

---ワーグナーには、ギリシヤ古典文化への憧れが強いように感じられます。

飯守 ワーグナーに限らずあの時代は、古代ギリシャヘの憧れや回帰の風潮が強くありました。もともと、ギリシャの文化・芸術は、ヨーロッパの芸術の源泉です。

ワーグナーはギリシャ悲劇を深く理解しており、彼の『総合芸術論』もそこから出ています。ギリシャ悲劇は、舞踊、音楽、詩、造形芸術、すべてを含んだ総合芸術でした。ところが、その総合芸術がヨーロッパを北上するにつれて、音楽、文学、美術、というように分裂していったことがワーグナーには納得できませんでした。そういえばフルトヴエングラーも、音楽は芸術の一分野であるというようなことをやはり言っていますね。
以前のインタビューでもお話したことですが、純粋音楽の流れは古典派からブルックナーまでで終わり、その後は標題音楽と劇音楽に移ってゆきました。現代でも「ベートーヴエンなどの純粋な音楽が一番すぐれた音楽だ」という、いわば信仰のような考え方が根強くありますね。

---新響の団員の中でもそういう考えはかなりあると思います。

飯守 たしかに、純粋音楽で確立された形式、なかでも特にソナタ形式は人間の精神の非常に深いところまで到達するという意見もあり、それはその通りでしょう。あまり知られていないかもしれませんが、ワーグナー自身、モーツァルトの「ジュピター」に感激してハ長調の交響曲を書いたのですよ。実は彼が尊敬していた作曲家は、ケルビーニ、ウエーバー、バッハ、モーツァルトなどで、一番は何といってもベートーヴエンだったのです。彼は、ベートーヴェンが築いたものを強く意識していたし、そのベートーヴエンが8つの交響曲を作曲して純粋音楽を極めた結果、第九にいたってついに言葉を必要としたことは、ワーグナーにとってはまさに自分の持論を正当化する裏付けに他なりませんでした。ワーグナーは、「音楽はおごり過ぎだ」という彼の言葉にも表れているように、純粋音楽だけを信仰するのではなく、音楽は総合芸術の一部であるべきだと主張したのです。

---先生のもとで新響が「ワルキューレ」第1幕を演奏した一昨年以降、ワーグナーをもっと聴いてみたいという気持ちを持つ団員も出てきました。ただ、シンフォニックな音楽と違いソナタ形式などの手がかりもなくて、どうやって聴いたらよいかわからないという声もあります。

飯守 ワーグナーは、べートーヴェンの音楽を次の2つの点で踏襲しているということが手がかりになるでしよう。まず、音楽の作り方。ワーグナーの示導動機やフレーズのつくり方はべートーヴェン同様に構築的で、2・2・4を基本とする構成が多い点も共通しており、これはドイツ人らしい理論的な考え方に起因しています。また、調性についても、転調していくときの音楽の内容の発展と、各々の調性が持つキャラクターとを考慮した、実に理論的に整然とした転調です。他のロマン派、たとえばシューマンやブルックナーなどでは、どちらかというと気ままに転調が行われることが多いのに対して、ワーグナーの転調は勝手なようでいても実は理論的で、しっかりとした裏付けがあるのです。このように、平均律にもとづく12の調性というバッハの時代以来の西洋音楽の一貫した流れがワーグナ一の転調の土台にあると考えれぱ理解できます。
もうl点は、音楽を聴くということが聴き手にもたらす作用という点が共通しています,ベートーヴエンもワーグナーも、「音楽は聴いて楽しんでいい気持ちになるためのもの」という、感覚的あるいは知的な楽しみを堪能させるようなレベルをはるかに超越しています。ベートーヴエンの音楽を聴くと、何かを実際に体験したような、人間的に成長したような、あるいは力が与えられたような、そんな精神状態になりませんか。

---ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲などまさにその通りですね。

飯守 ええ。これをキリスト教的な考え方で説明すると、キリストが人々の身代わりとなって苦しんで十字架にかかり、死後に復活する。人々はそのことを信じることによって救われる。同様に、作曲家が自分の生涯を賭けて苦しみながら音楽を書き、作品を生み出すことによって解放され、人々はその音楽を聴くことによって、実際には作曲家のような苦労はしないけれども精神的に豊かになることができる。ベートーヴェンの「苦悩を通じての歓喜」はあまりにも有名ですが、それはまさにこのことを指していると思います。このように、音楽を聴くことが擬似体験を通して聴き手の内面に一種のドラマをひき起こし、その結果として精神的な豊かさをもたらすという点は、ワーグナーの音楽にも共通です。西洋音楽は、このような深みにまで至っているということですね。
ただ、ワーグナーの音楽には聴く人の精神をあからさまに操作するような強力な作用がありますから、これに身を任せることに拒否反応を示し、それよりも言葉のない器楽(純粋音楽)から何らかの示唆を受け取るような、もっと自由な聴き方を好むタイプの人々がいるのも無理もありません。そのような理由から、ワーグナー派と反ワーグナー派との対立は、彼の生前から現在に至るまでいつも続いてきており、これから先も決してなくなることはないでしょう。
ただし、反ワーグナー派の中にはさらにいくつかの種類があるということには注意すぺきです。すなわち、ワーグナーを本当に理解した上で嫌うのなら良いのですが、誤解・曲解や食わず嫌いも相当あるということです。ワーグナ一の楽劇は長いし内容が重くて、この忙しい今の時代に手っ取り早く楽しめないから嫌い、ということが意外に多いかもしれません。

---新響の団員の場合も、複雑でどうもとっつきにくいという抵抗感があると思いますが...。

飯守 たしかに大規模でしかもこみいっていますから、全体をつかむのはむずかしいですね。ではちょっと回り道をして、彼の作品の本質を説明してみましょう。ワーグナーが、この『指環』を上演するためにバイロイトに祝祭劇場を作ったことは周知の通りですが、彼はどうしてバイロイトという、今でさえ田舎といってもよいような町を選んだと思いますか。
ワーグナーが活躍を始めた時代におけるオペラの上演の場は、イタリア・オペラの名歌手の天下でした。声(音楽)と歌詞(文学)とステージ(演劇)というそれぞれの要素が勝手に主張してぶつかりあい、さらに聴衆は音楽の途中でもブラボーやブーや拍手で参加するのが楽しみというような---今でいえばプロ野球観戦などのスポーツに近い---娯楽的要素が強かったのです。
しかし同時にこの時代は、ドイツに愛国心が芽生えた時代で、ワーグナーも、ドイツの新しい時代の楽劇を自分が作るんだという強い使命感を持っていました。だからこそ他になんの娯楽もないバイロイトのような僻地へ聴衆がわざわざ時間をかけてやって来ることにより、ワーグナーの楽劇を聴くにふさわしい精神状態(受け入れ態勢)が自然に整う、ということが必要だったのです。このように、ワーグナーを聴くということは、時によって気分に合う曲をあれこれ聴くのとは異なるものがあります。聴く側に自分の時間と精神を投入することを求める音楽。こうした音楽が『指環』の大きな部分を占めているということが、彼がバイロイトに祝祭劇場を建設した理由のひとつであり、また、とっつきにくいと思われる理由でもあります。

---そのような作品を抜粋して演奏することはそもそもワーグナーの思想に反するような気もしますが、このような形で全体のドラマを聴き手に伝えることができるのでしようか。

飯守 たしかに、抜粋ですべてを理解してもらおうというのは無理でしょうね。でも、全体に対する予感というか想像力をかきたてるようなもの(ドイツ語でAhnen)を与えることは十分可能でしよう。
この『指環』は、もともとの出発点である「ジークフリートの死」という台本から始まり、どんどん規模が拡大し、楽器編成の面でも4管編成という巨大なオーケストラを要する未曾有の大作となって、完成までに結局約25年を要しました。その過程で、彼はこの一連の作品をふつうの歌劇場で上演するのは不可能だということを確信し、舞台の下に入り込んだ特殊なオーケストラ・ピットでオーケストラに演奏させて、舞台上の歌手の声と管弦楽の音が混ざり合って客席に届くようにするという特別な音響効果を持ち、歌手育成機関まで備えた、バイロイトの祝祭劇場を作ることになります。当時の作曲家は作品を産み落として終わるのがふつうだったのに、ワーグナーは専用の劇場を作ったうえに、さらにスコア(総譜)にも「この音で1歩歩く」などの演出上の指示や練習を行うときに考慮すべきあらゆる表現上の指示をこと細かに書いています。それでもまだ足りずに、自分の作品を歌える歌手まで育てようとするほど、いろいろなことにこだわった。マーラーやR.シュトラウスが楽譜に細かい指示を書くようになったのも、実はワーグナーが始めたことですね。
このように、作曲家、台本を書く作詞家、さらには教育者として、ワーグナーの残したすべての遺産の中には驚くべき有機性と普遍性があります。彼の意思は、祝祭劇場のあり方やスコアその他すべての中に今もなお、生き物のように息づいています。ですから、長い時空を隔てて私たちがいくつかの部分だけを演奏するといっても、やはり強烈な印象を聴き手に与えることができるのです。もちろん、全曲を演奏するのに越したことはありませんが、一部を抜粋して演奏するのも、ワーグナーの思想のすべてには添えないとしても反することにはならないと思いますよ。
それにしても、作曲家が台本も書いたというだけでも超人的なのに、自分の劇場まで作り、彼の読んだすべての神話や伝説の本はそれだけで図書館ができるほどの数に上ります。おまけに子供も作って浮気の回数も人一倍多く、そんなことがひとりの限りある一生の中でどうして可能だったのかと思いますね(笑)。音楽史上ではバッハも似たような存在ですが。

「指環」の土台にあるもの〜根源性への指向

---「ローエングリン」でそれまでのオペラと訣別した後に最初に着手した作品であるこの『指環』で、歴史にもとづく物語ではなく神話を素材にしたことには大きな意味があるように思いますが。

飯守 『指環』の根底をなすキリスト教以前のドイツの世界観は、ゲルマン神話と北欧神話が素材となっています。さらに、ジークフリートの自分の出自を知りたいという欲求や、出奔して武勇伝を築いて帰還するなどのモティーフには、ギリシャ神話のヘラクレスとの対応もみられ、これは、アジアの英雄にも共通する普遍性があります。神話という、人類に共通の根源的ともいえる素材を用いた結果、全世界的に通ずるテーマを包含するようになったことは、『指環』という作品に普遍的な表現力を持たせる源となりました。
ワーグナーは神話・伝説を歴史とは分けてとらえていました。歴史には事実の歪曲や記録にかかわった者の感想などが混入しますが、神話・伝説は年月を経て「歴史」が本質的な部分のみに昇華されて、純粋かつ根源的なものを表現するに至ったという考え方です。

---母性文化から父性文化への移行期におけるタブーとして、古来世界共通のモティーフである近親相姦が『指環』でも登場することなどからも、ワーグナーは人間の心の深層にあるものへの関心が強いように感じられます。

飯守 彼が生涯を通じて発展させ、音楽を推進する大きな力を担っている示導動機の使い方も、彼のこの、心の深層への関心が実を結んだともいえますね。たとえば今回も出てくる「剣の動機」の音程の跳躍を思い出してください。これを聴くと誰でもなんとなくポジティヴな印象をもつでしょう。音程が何度跳躍するかによって、多くの人に普遍的に呼び起こされる感情というものがあることをワーグナーは知り尽くしていたのです。リズムにも同様な力があります。たとえば「ワルキユーレの騎行」のリズムなどが好例ですね。このように、音程やリズムという音楽のみが持つ効果を駆使して、どんな人をも動かしてしまう驚くべき表現力を獲得しているのがワーグナーの音楽です。

今回のハイライトヘのアプローチ

---それでは、今回演奏するハイライトについて、演奏者や聴き手の手がかりとなるようなことをうかがいたいと思います。『指環』の音楽は、物語の進行に必要な部分と、登場人物の心情や情景を描写する部分とが交錯しているようですが、複雑で長大な作品とはいえあらすじ程度はあらかじめ頭に入れておく必要があるでしようか。

飯守 新響と以前に演奏した「ワルキューレ」第1幕などでは、たしかに登場人物が説明的に長々と語る部分もありますが、今回のコンサートでは『指環』の中でもむしろ純粋音楽的あるいは標題音楽的な部分が主体です。しかもそれぞれが実に個性的な音楽ですから、極端にいえばまったく筋がわからなくても、どんな場面の音楽かはある程度の想像はつくのではないでしようか。
もちろん、ワーグナーの作曲家としての意思からいえばすべてはドラマのためにあるのであって、あらすじその他いろいろなことを知っていれば当然面白く聴くことができますが、過度の説明は必要ないと思います。どうしてここでこんな動機が出てくるのだろう、と深く考えても、心理的な効果を狙って使われているだけという場合もありますし、あまり理論的に示導動機にこだわりすぎないほうがよい場合もあります。聴き手は、自分なりのAhnung(予感、予想、おぼろげな観念などの意のドイツ語)を大切にして聴いてくださればよいのです。ハイライトですから、こういうふうな場面かなあ、と思い描きながらイメージをふくらませて楽しんでいただけれぱよいのではないでしようか。ワーグナーの音楽は、純粋音楽に比べるとある程度は聴き方を限定するタイプの音楽ではありますが、わかっている人が知的な聴き方をするのもよいし、わからない人が直感的に聴いても、どちらでもよいのです。
話は少しとびますが、戦後のバイロイト音楽祭を再興した、ワーグナーの孫にあたるヴィーラント・ワーグナーという人をご存知でしようか。

---ワーグナーの作品に対してきわめて抽象的で斬新な演出をして、その後の世界中の舞台芸術に大きな影響を与えた天才的な演出家として有名ですね。

飯守 そうです。ヴィーラントは、田舎町バイロイトのさらに周辺の寒村でオペラとはまったく縁のないような暮らしをしている人々を、パイロイトの通し稽古の客席に招いてその感想に率直に耳を傾けました。『指環』のような作品ならば、まったく予備知識を持たない人であってもやはりいろいろな感想をもちますし、その中にこそ根源的で大切なものが含まれていることを知っていたから、このような努力をしたのです。
言葉と音楽の関係という意味でも、このヴィーラントの果たした役割は大変大きい。抽象的で照明も暗い彼の演出では、ビジュアルなものや言葉という男性的な要素はあくまでひとつの示唆にとどまり、それを支える女性的要素である音楽が一番聴き手の感性に訴えることになりました。
言葉=悟性が男性で、音楽=感性が女性、その両方が一体になったときはじめて完全なものになる、という考え方はモーツァルトの「魔笛」にも見られますし、フルトヴェングラーも同じことを言っていますが、ワーグナーには特に根強くありました。これは、男性原理優位による社会がゆきづまっている今の私たちの時代において、まさに現実的な問題そのものですね。悟性に従いつつも感性の協力がなければなにごともうまくゆかない。言葉と音楽が結託して助け合うことを、ワーグナーは望んでいたのです。

『指環』全体を貫くテーマは?

---ところで、ワーグナーが『指環』という作品で言いたかったことは何だったのでしようか。

飯守 これはまたずいぶん単刀直入な質問ですね(笑)。約25年かかった創作中、どの程度一貫した考えを持っていたかは図りかねますが、『指環』の最初の創作動機となった「ジークフリートの死」が着想されたのは「ローエングリン」の直後であることがひとつの手がかりでしよう。
「ローエングリン」において、ドラマを推進していく中心となるのは、主役のローエングリンではなくむしろ女性のエルザです。エルザは、絶対的ともいうべき直感にもとづいてローエングリンを信じようとしながらも、策略によって「ローエングリンの素性を知りたい」という知性(知的な心の欲求)を刺激されて内面の葛藤に陥り、ついに禁じられた問いを発して、ある意味では自己の犠牲において民衆を代弁して男のエゴを打破します。この場面を創作したときのことについて、ワーグナーは、「エルザが私の中で次第にひとりの人間としての重みをもつようになり、ひとり歩きを始め、私は彼女に共感しはじめていた。」というようなことを言っています。
その後、ワーグナーは、「エルザが私の中でこのように発展した結果として、次に私は、ドイツ民族を体現するフィグア(人物)をゲルマン神話からどうしても必要とするようになった。」と語っています。この必然的な欲求(ドイツ語でBediurfnis)をかなえ、彼の表現したい総合芸術の中心となるのが、ジークフリートというひとりの英雄だったのです。ジークフリートには、ワーグナーが重視していた要素が結実しています。それは、「自然に生きるドイツ人」という要素です。自然を重要視するというのはいかにもドイツ国民らしい。彼の作品には、背景にとどまらない根源的な自然の表現が溢れていますね。『指環』にも「森のささやき」だけでなくいたるところにありますし、「パルジファル」の聖金曜日の自然表現などはまさに、近年さかんに言われている自然回帰志向そのものでしょう。
ドイツ古来の神話の世界では、人間はあくまで自然の一部です。現代の、自然を支配や征服の対象とする西洋の自然観は、実はキリスト教以後のものです。「ワルキユーレ」でフンディングの館の真ん中にトネリコの大木があるというのも、奇異な感じがするかもしれませんが、実はドイツには昔、樹木に対する信仰という、東洋にも通じる自然崇拝があったのです。ワーグナーにもこの自然崇拝的な傾向が強くあったために、彼自身はきわめてドイツ偏重だったにもかかわらず、その作品はドイツ人というひとつの民族(国民)を超越して人間全体と自然との調和という、現代にも通用する普遍性を獲得することになったのです。

---ジークフリートという英雄が『指環』の後半2作の主役とすれば、前半2作の主役はヴォータンという神であると考えることもできますが、このヴォータンは、作者にとってどんな存在だったのでしようか。

飯守 ヴォータンをはじめとする神々は、神ということになっていますが実際は人間のエッセンスを抽出したような人間的な存在で、嫉妬も浮気も略奪も何でもありです(笑)。『指環』でのヴォータンは、契約の神でありながら自分で契約に縛られて身動きがとれなくなってしまうわけですが、このような設定は実に、狩猟民族である彼ららしい発想です。契約と裁判は絶対なのです。「ヴェニスの商人」で自分の肉を担保にするというような話と同様、私たち農耕民族にはなかなか理解しがたい部分ですが、民族の移動や混淆の著しい彼らの歴史ではそうでもしないと社会が治まらなかったのでしよう。契約の神ヴォータンは、人間社会の歩みのある段階を表現するための格好の素材であるわけです。

---そのヴォータンやジークフリートたちを通じて『指環』でワーグナーが表現したかったこととは...?

飯守 ワーグナーは、実は『指環』以前からショーペンハウアーの終末思想に傾倒していました。また、若い頃に革命運動家との交流などもあり、いわゆる「火の思想」、この世を救済するには一度すべてを焼き尽くすしかない、というような思想の影響も受けています。
『指環』は、この世界が救済されるためには何がなされなければならないか、ということを語っているように思われます。人間の持つさまざまな側面を象徴する神ヴォータンは途中で姿を消し、ヴォータンが望みを託した英雄ジークフリートも結局は死ななければならなかった。最後にブリュンヒルデがすべてを理解して自分から行動を起こし、指環と共に火中に身を投じてラインの乙女に指環を返すことが、世界を救うために必要だった。

---その、4部作すべてをしめくくるフィナーレである「自己犠牲」の場面について、男性原理が世界を破滅させ、女性原理が世界を救うというような解説がよくされますが、そもそも「自己犠牲」という言葉は日本語には本来ありませんし、ブリュンヒルデが火中に身を投じることでどうして世界が救われるのか、どうも理解しにくい結末という感じもします。

飯守 『指環』に限らず、ワーグナー作品には女性の自己犠牲により救済が得られるという結末が多く、これもワーグナー攻撃の格好の材料になります。女性はみんな犠牲になって死んでしまうというので、彼は女性の犠牲によって救済されるという思想に固執している、とフェミニストの反感を買うわけです。
しかし、ワーグナーが最終的に目指したのは、『指環』に関していえば、伝説上のフィグア(人物)とギリシャ的な理想的ともいえる人間性、つまり人間と神を一緒にした、自然と一体になった人間による『終末を経た救済』というテーマです。大事なことは、彼の全作品を通じていえることですが、表面的に女性が犠牲になって男性が救われるという筋書きにこだわるのではなく、なぜどうしてそのようになってゆくか、筋書きの奥にあるものを読み解くことだと思います。そこには、単一の解釈だけが存在するはずはありません。
ワーグナーは一貫して、キリスト教以前からキリスト教の将来までに通じる『救済』というテーマを追い続けました。後期の作品に的を絞れば、神話といういわば一番古い題材を使って『救済』を扱ったのが、最初に着手した『指環』です。その後、次の「トリスタン」では愛という人間の内面のみによる救済を扱い、「マイスタージンガー」では、キリスト教的な背景のもと、袋小路に入った旧世界が救われて新しい世代へ渡される姿を市民文化の中で描きます。最後の「パルジファル」では、生きようとする人間としてのすべての欲望と破滅、それらへの「諦念」という構図での救済が扱われます。ここでは、すべての欲望を捨てて他者に対し「Mitleid(同情、共に苦しむ等の意)」する者のみが世の中を救う、というところに到達します。

---ワーグナーは「パルジファル」に至ってキリスト教的救済に至ったなどとも言われますが、彼の宗教観は通常のキリスト教的な宗教観とは異なるような感じも受けます。

飯守 ワーグナーにも当然キリスト教的な宗教観はありますが、それだけにとどまってはいません。「パルジファル」における、「Mitleid」による救済という考え方も、宗教そのものではないかもしれませんが、人間の現実社会を超えるものに価値を見出すという点でやはりまさに宗教的です。
芸術というのは総じて、普段の人間の社会をはるかに超える要素を含んでいます。ベートーヴエンやワーグナーの作品のように人間を高みへといざなう芸術は、必然的に形而上学的な要素、つまり宗教に近い性格を持つことになる。人間が生きていく以上、最後には宗教そのものではないにしろどこか宗教的なものにむかうことになるということでしょう。
結局、『指環』をはじめとして偉大な作品というものは、いろいろな解釈を許容する可能性を含んだ大きな器のようなものではないでしようか。これこそが正しい解釈というものがあるのではなく、絶対にひとつの解釈にはおさまらないものを持っているからこそ名作なのだと思います。『指環』の結末も、ある意味では永遠に終わらない「問題提議」である、ということです。私たち自身が、ひとつの固定観念に縛られることなくそれぞれの想像力をもって聴けばよいのです。今度のコンサートも、そのようないろいろな聴き方のできる演奏にしていきましょう。

(1998年4月2日) 
(出席者/長島良夫、奥平 一、吉川具美)


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